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失うのだ

この文章は4月8日の深夜(正確には4月9日)に書いています。

2024年7月1日に入籍を控えている。去年の同じ日に確定した未来の予定である。
この文章がわたし以外の人間に読まれているということは、今日はきっとその日以降である、はずだ。

今日わたしは正式に、26年冠して生きてきた苗字を失うという決意をした。


世の中には苗字に全く思い入れのない人もたくさんいるのだと思うが、わたしの場合は結構自分の苗字に思い入れがあった。

わたしの苗字は少々珍しめのものだ。正確かはわからないが、同じ苗字の人の人数を調べられるウェブサイト曰く全国に数百人程度しかいないらしい。
ものすごく激レアというわけではないが、少なくとも人生で親戚以外の同じ苗字の人に遭遇したことは一度もない。小説やドラマで自分と同じ苗字の人が出てきたことも、当然ない。

名簿順だと結構前の方にくる苗字だったので、小学生時代は1年生から5年生までずっと1組1番だった。ぴかぴかの新学期にはいつも前の方で先生からよく見える場所にいたので、小学生の頃のわたしは生来の気質よりもちょっと真面目寄りに生きていたような気がする。ちなみに、5年間ずっと2組1番だったあとにいきなり6年1組1番になって、ちょっとかっこいい卒業証書の受け取り方をした友人とは今も仲が良い。とても嬉しいことだ。

当然印鑑は100円均一ショップには絶対に置いていない、というか印鑑屋さんでもちゃんと注文して作ってもらわないと無いものが必要になるので、そこはちょっと困ったこともあった。26年の間に世の中は便利になり、現代ではドン・キホーテに行くと印鑑の自動販売機というのが割と置いてあるようになった。大学生時代、アルバイトの面接前日の夜に印鑑がどうしても見つからず、夜中に自転車を走らせてドンキに行き印鑑の自販機を利用した。後から来たギャルが後ろにずっと並んでいて気まずい思いもした。印鑑の自販機はその場で樹脂の棒を彫ってくれるのでそこそこ時間がかかるのだ。あのギャルもレア苗字仲間だったのかもしれない。深夜のドンキにひとりで行ったのは後にも先にもあの一回きりだ。

なんというか、夫婦別姓って、普通に気持ちの問題とかじゃなくてきっといろんな不便の解消のために議論が行われてるんだろうと思うけど、「さみしいから」「なんか嫌だから」でも認めていいじゃんと思うぐらい、正直今はさみしいし、なんかその、嫌って言ったら違うんだけど、新しく(現時点では)婚約者の苗字になることが嫌なわけではなくて、自分がこれまで名乗ってきた苗字を変えないといけませんよ、もうこの名前じゃなくなるんですよっていう、その部分に関しては、結構プラスではない気持ちになってしまうところが、ぶっちゃけある。そりゃそうじゃん、持ってるもの失うのってなんか嫌じゃん。まして生まれた時から持ってるものを失うのだから。

なってるよ。アイデンティティに。少なくとも赤ん坊が結婚できる年になるぐらいその名前でやってきたんだからさぁ。


じゃあ絶対にわたしは改姓しないぞ!という強い意志があったかと言えば決してそうではなかったので、結婚するという話が出た割と当初から「別に絶対改姓したくないというわけではないけど、少なくとも喜び勇んで苗字を変えるというテンションじゃないですよ」というスタンスはなんとなく出しながら9ヶ月ほど過ごしてきた。
繰り返しになるが、婚約者の姓になることが決して嫌なわけではないのだ。自分が今まで持ってきたものを捨て置いていかなければならない感じが辛い。2つ持てたらいいのになとは今も全然思っている。

とはいえ、そう、入籍予定の日の1年前に婚約して9ヶ月が経つと、もう入籍まで3ヶ月しか残っていないのである。ぼちぼち細かいとこ詰めていかないといけないな、という話の中で、流れに乗せて、でもどこか「これが最後の確認になるのかもしれないな」と思いながら婚約者の意思を確認して、それで決まった。

余談だが、婚約者は「もし改姓後にどうしても今の苗字がいいと思ったら、なんとかして戻しても良い」という話をしてくれた。いい人だなと改めて思った。そんなにいい人でも、まあ普通は自分の側の苗字だよな、と思うようになっている世界の方がちょっとだけやっぱり傾いている。

半ば決まっていたような話ではあったのだけれど、決め切ってしまう勇気がなくて先延ばしにしていたら、今の苗字で過ごす日があと83日しかないらしい。
あと83日で成せることがあれば頑張りたいなとつい思ってしまう。何かあるかなぁ。おすすめがあれば教えてください、と言いたいところだが、この文章を公開するのはもう新しい苗字になった後の予定なので、新しい苗字になってから成す最初の偉業として参考にさせていただきます。


さて、7月1日になりました。本日、予定通り役所へ婚姻届を提出しに行き、どうやら私の苗字は変わったということのようです。というのは、婚姻届に書くのは旧姓だけであること。マイナンバーカードの名前変更をしないと住民票がもらえないこと。そうなるとあらゆる身分証の名前の変更がかなわないこと。しかしマイナンバーカードの名前変更には1時間程度かかること。今日のスケジュール的にそれは厳しかったので明日行くことになり、わたしは今のところ自分の新しい名前がオフィシャルに表記されているのをまだ1回も見ていないので、それほど実感がありません。

自分の苗字を変えることに、4月のこの文章を書いたときには納得したという気持ちで書いていたのだと思いますが、あの後もう一度苦しい時期がありました。今はいよいよ落ち着きました(と思っています)。
これは完全に人によると思いますが、わたしの場合は、自分の苗字に愛着があるのは、この苗字で過ごした期間がとびきり幸せだったからで何も悪いことではないという自己肯定に辿り着けたこと、そして、おそらく誰も(わたしの家族ですら)わたしが自分の苗字を残すことを特別望んではいなくて、どちらかといえば混乱を招く、それは本意ではないなということ、あとは忙しくしているうちにシンプルに残り日数が減り自己防衛として悲しみが薄れた、というのもあるかなと思います。

改めて心が決まったあとは、こうなったらこんなレアイベントとことん楽しんでやるぞと思い、とりあえず筆と墨と紙を買ってきて、「勝訴」のパロディで「改姓」の縦長の紙を作ったり(カバー画像)、「令和」のパロディで新姓を額に入れたものを作ったりしていたら気づいたら今日でした。

それでも、夫婦別姓という選択肢が取れるようになればいいのにな、という思いには変わりありません。

パートナーシップや同性婚についての説明を見ていても、いつも「従来の家族観」ってなんだろうな、と本当に思います。100歩譲ってそんなものがあったとて、今苦しむ人たちがいる中で、従来というのはそんなに大切なのでしょうか。この世の他の部分において、従来ってそんなに守られていますでしょうか。

わたしはたまたま、今愛した人が戸籍上の定義としては男性ということになっており、わたしが女性ということになっているので、本日婚姻届を出して、つつがなく受理され、家族になったということらしいのですが、心から「たまたまだなぁ」と思っています。わたしの友人にも何組か、現行法で結婚することができないということになっているカップルがいますが、その人たちと、わたしたちに何の違いがあるだろうか、といつも思います。

今回も零票確認チャレンジするぞー(連敗中)。

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