見出し画像

仕事もせんと、好き勝手に生きて、
ずっとしたことが無かったことをしようキャンペーン中。

広島・呉で最愛の人が歌うので遊びに。
その人は豪快なものから繊細なものまで歌う。それがかっこいい時と心地いい時があり、今回は心地いい時。
そして、豪快な身体から豪快な雄叫びを上げる時もあれば繊細で触れたら弾けて飛んで行ってしまいそうな声を出す時もある彼は、誰も真似することの出来ない唯一無二のボーカリスト。
そんな彼の弾くギターも、その声を表し寄り添う様でとっても心地よい。

ライブというものは、ミュージシャンにとって一番の見せ場であるのに一瞬の儚いもので
見る側にとっても
視覚、聴覚、感覚、空気
全てを満たす事はその時にしか出来ない。
私はずっとインスタントに音楽を生でも録音でも聞いてきたが、音楽がこんなにも楽しいだなんて、音楽がこんなにもしっかりと“生きている”ものだなんて、彼に出会う最近まで知らなかった。

そんな彼の話をもっとしたいが、それはそれでとてもとても長い話になるのでまた今度の機会に。


 目の前の全てを逃したくなくて、私は日本全国彼を追いかけている。

そんな彼は本当に日本全国何処でも歌うので、彼を追いかけていると私も自動的に日本全国何処へでも行くことになる。
今まで腰を据えれば一個の街から出なかった人間だったので、それはそれで新しい体験で新鮮で楽しい。
最近色んな事を考える時間が出来、私はあまりにも何も知らない事に気付いたので、すべてを見たい。それが例え大きくても小さくても。

人生の半分以上を飲み屋街で過ごして何もしてこなかったので、やっと社会勉強してる感じだ。

人生という皆が平等に持つ時間は、思ったよりも限られている。見たいものや知りたいことは全て取得して体験したほうが得だ。

その日も素敵な夜を過ごした次の日、朝から観光。
まず、大和ミュージアムに行く。

1/10スケールの戦艦大和

機械フェチにはたまらないミュージア厶。

内容もずっしりと重く、とっても見ごたえのあるミュージアム。どこの国もきっとそうなのだと思うが、人間が得れる技術等は戦争が大きく成長させたのだと思うと人類の行動の全ては無駄ではないのかもしれない、とこの時は思った。
ミュージアムの解説もそこまで左右どちらかに特に強いわけではなく、ちゃんと歴史だけでなく未来へ続く展示でとっても素晴らしかった。

隣接する海軍の潜水艦へも当然向かう。

潜水艦

でっかいでっかい潜水艦がどん、と鎮座していて、なんと、この潜水艦の内部にも入れる。入場無料で。

潜水艦の操縦席

こちらも本当に素晴らしい展示だった。


そのまま広島へ。行きは広島駅から電車で呉に向かったので、せっかく港にいるし天気も良かったので船で向かうことに。
多分移動手段として船を自ら選択したのは人生で初めてではなかろうか。

フェリー

天気も良くていい感じ。
青と青がお互いに跳ねていて、決して混ざることも喧嘩をすることもない景色が美しい日だった。生き生きと全てが映える景色。今まで見たことのない、知らない景色。とても素敵な青。私は青が大好きだ。

広島港ついたら大好きなトラムに乗って

平和記念公園へ。
写真は残していない。
ここで私は、あまりにも自分がなにも学んでこず、何も知らなかった事を知った。
衝撃的だった。
私は別に表現者でもないので、特に自分から主張をするわけではない。政治的な思想や宗教観等。『世界平和』なんて世界中の誰もが持つ主張もしてこなかった。
と、いうか全ての出来事には全ての理由があり、それが正解でも失敗でも間違いでも何かしら意味があるものだと思っているから
戦争だとか全ての争いにも犠牲はあれどそれなりに意味があると思っていた。
先の大和ミュージアムでの感想もそうである。

勿論、祖父母から聞く体験談や爪痕をみて漠然と『戦争は起こってはいけないこと』とは思っているが、正直隣国で戦争がおこる現代でも特に興味はなく、気になるのは揺れ動く円の価値だけ。
なんというか、全く目の前で起こっていることではなかったので現実味がなかったのだ。

だけど、平和記念館に並ぶ『事実』は、あまりにも、残酷で、酷くて、苦しくて、辛くて、切なくて、悲しかった。
私はこれをちゃんと見たことが無いから何も思うことがなかったのだと、今までの無知を、無学を、心の底から恥じた。
生きているものが、無条件で一瞬で全てを強制的にそれを生きているものに止められる。
しかも、辛く苦しい方法で。
一つ一つの展示をしっかりゆっくり見ることが出来なかった。
これに触れるのに産まれてから今日まで32年かかった。生まれるもっともっと前に起こった事実なのに。
時間も生き物なので、常に動き続ける。
これに触れてこなかった32年間と、これからの私の時間を少しでもちがう物にしようと心から思った。


原爆ドームは、別の視点で。ここに登場するヘルマンがうちの曾祖父さんなので、その為に行きたかった。

曽祖父が生きている時代を知らず、当時から住む家などがあるわけでもないので国内で生きているうちに曽祖父が訪れた場所を私が訪れるのは初めての事だ。(曽祖父が生まれ育ったドイツの町は行ったことがある)

曽祖父は家族にとって偉大な人物である。私達家族はそれについてとても誇りを持っている。だけど、異国からきて日本で生きるしかなかった曽祖父の気持ちや苦労は誰もしらない。知ることが出来ない。

一人でずっと考えることがある。
生きるってなんだ。

どうしてこうもして、人間は『生』というものに拘るのだろう。
どうしてこうにも、『生』というものに価値をつけたがるのだろう。
どうして『生』というものに執着し、どうして一体、『生』というものを追い求めるのか。
どうしてそれを自らの手で止めてしまい、またそれを延ばす事が出来ないのだろうか。

最近は考える時間が多いので、強く深く考える。
答えはいつまで経っても出てこない。
多分これは私が無学だからでも無知だからでもなく
誰も答えを知らないから出てこないのだと思う。

だけど、こうやって、色んな事をみて知って触れることで、少しは執着してもいいんだろうと思える。
少しは追い求めていいものだと思える。

もう少し、沢山、貪欲に追い求めたい。
もう少し、深く、しつこく執着したい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?