見出し画像

玉砕パティシエ小豆田③

二.マドレーヌに誘われて

 翌日の仕事は、何とも憂鬱だった。

 昨日、いつもよりかはオシャレをしていた私を見て「この後何かあるのだろう」と察していた同僚達は、顔には出さないよう努めていても雰囲気が落ち込んでいる私を見て、別の意味で「何かあったのだろう」と察しているに違いない。仕事に支障が無いように、尚登との交際は誰にも言っていないから、内容までは推測できないだろうけど。

 それでも、残酷に、時間は何食わぬ顔で過ぎていく。
 時間も仕事も、待ってはくれない。
 だから今日も、働かなくては。

 広告代理店は受け持っているクライアントによって繁忙期が異なる。
 尚登がプランニングを担当しているクライアントの中にアパレルブランドがあって、私はその広告の入稿を担当していた。
 シーズンの入れ替えやセール時期の怒涛の依頼、クライアントからの納期直前の変更依頼……。溜め息を吐く間もないほどの忙しさで、ようやく落ち着いた時に「困っちゃうよね」なんて言いながらも、解放された喜びから笑って愚痴を言い合う仲になっていた。

 一つ歳下だけれど、ミスしてもヘコんで引きずるのではなく、原因を考えてしっかりと対策をして次に活かそうとする姿勢や、クライアントからの急な変更に対して、何日前には連絡がほしいといったルール整備をできるだけの信頼関係を築けるところ。
 そういった、些細な瞬間に垣間見る彼の人間性に、どんどん惹かれていった。

 彼となら、これからもプライベートで、いや、人生で一緒に居られると思っていた。
 そう思っていたのは、私だけだったけれど。

 彼は、今日も朝から今の定時二時間前まで、変わらず仕事をしている。私と別れたことなど、すでに過去のことのように。

「ナオくん、資料ここ置いとくね」

 語尾にハートマークが付きそうな甘い声で言ったのは、半年ほど前から彼の補佐役として働いている中尾なかお流美るみだ。
 彼女は私の五歳下で、まさに今「女性」であることを謳歌しているような人だ。

 いや、彼女の場合、これまでの人生全てで特をしてきただろう。
 黒目がちの大きな目、丸みはあるけれど顔が大きいというわけではない輪郭は、女性らしく柔らかい。長い髪はゆるく巻かれていて顔立ちとよく合っている。「可愛い」と言われ慣れているであろう容姿で、会話も上手く、誰とでもすぐに打ち解ける。そんな性格だから、多くの男性から人気だ。かといって女性からひがまれないのは、明るい性格で笑顔が絶えないからだろう。

「ありがとう、流美」

 ……ちょっと待って。
 この二人、こんな呼び方してたっけ?
 前まで、苗字にさん付けじゃなかった?

 しかも、小さなハートが飛び交うように、どことなく浮かれた雰囲気が漂っている。
 ……そうか、つまり、そういうことだ。

「あれ、甘樂あまらさん、今日はいつも通りなんですね」

 彼女は自席に戻らず、私のところに来て、珍しく声を掛けた。
 八席ずつが向かい合うように並び、全部で十六の机がある中で、尚登の席は窓際の角の席。中尾さんの彼の斜向はすむかい。私は尚登とは反対側の席だ。
 私の所に来たら、席が遠くなる。
 なのに、そうまでしてわざわざ声を掛けてくるなんて……。

「昨日の甘樂さんとっても可愛かったですよ」

 今日は可愛くない、っていうこと?

「ありがとう」

 そんな気分ではないけれど、必死に笑った。
 嫌な予感がひしひしと湧いてくる。早く席に戻ってくれないかな。
 チラチラとパソコンの画面を見て操作しながら、忙しいアピールをしてみる。
 が、それに気付いているのかいないのか、彼女は続ける。

「毎日あんな感じの服にしたらいいのに。すっごく似合ってましたよ」

 褒めているのかバカにしているのか。ここで怒りを示せば悪者は私になる絶妙な物言いをしてくる。

 愛想笑いをしていたら、中尾さんは手に持っていたファイルを抱えるように持ち直した。自然と手の甲が見える形になる。よく見ると、左手の薬指に指輪が填められていた。
 それを見て、サッと血の気が引く感覚がした。
 ここでその指輪について言及してはいけない。いや、絶対にしない。
 なのに彼女は指輪を見せつけるように、何度も左手の位置を変えている。

「あれ、中尾さん、結婚したんですか?」

 そんな彼女に声を掛けたのは、私の向かいの席に座っている男性だった。

「やだぁ、気付いちゃいましたぁ? バレないようにしてたんですけどぉ」

 体をくねらせながら、甘い声と笑顔を作った。

「指輪してるじゃん」

「もう、出社した時からずっとしてましたよぅ。なのに、誰も気づいてなかったのにぃ」

 気付いて欲しかったのか? 隠していたのか? 発言内容が数秒前と異なるが。

「マジかー、中尾さん結婚しちゃったかー。俺狙ってたのになぁ」

「本当ですかぁ?」

「相手どんな人?」

「それはぁ……」

 意味ありげに言葉を途切れさせて、チラリと後ろを向いた。その視線に気付いたのか、尚登も中尾さんの方を見て、気恥ずかしそうに笑った。

「えぇ! もしかして、二人、結婚したの?」

「はい!」

 元気よく答えたのは、尚登だった、その言葉を聞いて、中尾さんは最高の笑顔を――私に向けた。

「って言っても、婚姻届はまだなんですけど」

「一昨日プロポーズされて、今いろいろ段取り中なんですぅ」

 ……一昨日プロポーズ? 時系列がおかしい。いろいろと。

 定時まであと二時間。頑張るために気分転換という名の雑談が盛り上がりを見せているというのに。
 悔しさなのか、悲しさなのか、それとも惨めさからか、周囲の音が次第に遠くなっていく。

 あぁ、駄目だ。

 パソコン画面をロックして、離席した。トイレの個室は、運よく空いていた。たまに、何も音が聞こえないのに、寝ているのか、スマホでもいじっているのか、個室に閉じ籠っている人が何人かいて、空かない時がある。そういう時は別のフロアのお手洗いに行くしかないが、そのフロアでも閉じ籠っている人が居る時がある。

 今私がいるのは、私の所属する部署の三つ上のフロアのお手洗いだ。ボロボロの精神状態でトイレから出たところを、顔見知りの人と会いたくない。

 個室に入った私は上を向いて瞼を閉じた。
 鼻の奥がツンとする。

 何も考えるな。何も考えるな。
 考えたとしても、あの二人のことは考えるな。

 そう心の中で唱えれば唱えるほど、頭の中は「何で?」というやり場の無い疑問で埋め尽くされる。

 何で私じゃ駄目だったの? 何で中尾さんなの? 何で三年付き合った私じゃなくて、中尾さんなの?

『泣きたい時は、泣いてください』

 昨日の店員の言葉が、脳裏をよぎる。

『どんなに悲しいことがあっても、明日はやってきます。だから、泣ける時に、思いっきり泣いてください。また、笑えるようになるために』

 明日は来た。今日になった。でも、今日も辛いなら、また泣いてもいいの? でも、

「――今は駄目なんだって」

 まだ、やらないといけない業務が、残っている。また、同僚の前に出て行かないといけない。泣き顔なんて、見られたくない。

 深呼吸して、少し滲んだ涙を指先で拭う。目の奥の熱も取れたことを確かめて、個室から出た。手洗い場の鏡で入念に目元をチェックする。化粧ポーチを持って来なかったことを後悔していたが、幸い化粧は直さなくても大丈夫そうだ。目の赤みも、目立たない。指先で目元の水分を消すように押さえて、手を洗った。そこで、ハンカチを鞄の中に忘れてしまったことにようやく気付いた。

 急いで自席に戻って、机の下に置いている鞄を引っ張り出して、タオルを取り出した。その拍子に、小さな袋が落ちてきた。

 昨日のケーキ屋でもらったマドレーヌだ。

 手を拭いて、包みを手に取る。一つは香ばしいキツネ色、もう一つは生地に何か焦げ抹茶色の物が混ざっている。プレーン味と、何か混ざっている方が桜味だろう。

 よく見ると、マドレーヌの後ろに別の物が入っている。ひっくり返すと、名刺に『patisserie FUKUSHI』と書いてある。お店の外見のように、真っ白な紙に黒い字で文字が書かれており、周りを緑色の葉で囲ってある。

 袋を開けて、名刺を取り出す。裏には店の住所と、簡易地図、昨日あずきださんが見せてくれたと思われるSNSのアカウントのQRコード、営業時間が書かれていた。

 あの柏森さんという人、あんなに猛烈に謝罪していたのに、しっかりと売り込みをしている。抜け目ない。

 試しにコードを読み込んでみると、一番上には「新規スタッフ募集」の投稿が固定されている。続く二枚目以降は、「本日のおすすめ」と「季節の商品紹介」が並んでいる。ケーキはどれも、宝石のように美しい。

 ざっと投稿を見たところで、マドレーヌも取り出した。ちょうど小腹が空いてきたところだ。せっかくだから、マドレーヌをいただこう。

 まずはプレーン。一口食べると、バターの香ばしさが口に広がるが、爽やかさがある。レモンだろうか。しっとりずっしりしたイメージがあるお菓子だけれど、この味ならさっぱりと食べられる。あっという間に完食した。

 続いて桜味。袋を開けると桜の香りが漂ってきた。食べると、卵と砂糖の甘さと、桜独特の甘じょっぱさが絶妙に交じり合っていた。生地に混ぜてあるのは、桜の葉のようだ。塩気がほどよく甘みを中和する。けれど、春を表す薄紅色の甘さは、殺さない。その風味が、頭の中に満開になってはらはらと散る桜の花を連想させる。

 私は、この桜の時期が、どうも苦手だった。

 季節も世間も、次に向かって進むのに、自分だけまた特に何の変化も無い一年を送るのだということに、後ろめたさや情けなさを感じるから。
 特別やりたいことは、無い。だからせめて、仕事はしっかりとこなしてきた。しかし目的も無く進んだところで、先は見えない。誰かに教える立場になっても、業務量が増えても、その場で足踏みしているだけ。

 ――あの二人は、『patisserie FUKUSHI』の二人は、きっとお菓子を作りたくて、お菓子を売りたくて、あそこに居る。そして、彼等の作るお菓子は、誰かから求められている。

 私もそうやって、何かやりたいことをできなくても、せめて、誰かにとって必要な存在に成りたかった。
 だからせめて、誰かの特別な人に――尚登の特別な人に、成りたかったのに。

『今日貴女に出会えたことは、運命なのかもしれません。是非また、いらしてください。いつ会えるかわからないなら、僕と、付き合いませんか?』

 柏森さん曰く、あずきださんは告白して玉砕せずにはいられない病だ。彼の私への唐突な告白は、その症状の表れだ。だから、彼は特別私に気があるわけではない。それよりも、初対面の人からの告白に揺らぎそうになってしまった自分の弱さを恥じなければ。

 それでも――。

『ルビー色のケーキ、ご用意してお待ちしております』

 この言葉だけは、信じてもいいだろうか。


 終業後、名刺を頼りに再び『FUKUSHI』に足を運んだ。昨日と同様、小さなプレゼントボックスみたいな可愛らしい店の中に入ると、

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 昨日と同じように、ショーケースの後ろで残ったケーキの番をするように、あずきださんが立っていた。
 彼の濃厚な蜂蜜の瞳に引き込まれるように、視線を奪われ、足が進む。

「昨日も遅くにいらしてましたけど、お仕事、お忙しいんですか?」

「広告代理店なので、案件によってまちまちですが、繁忙期はそれなりに」

「広告代理店ですか。どんなことやってらっしゃるんですか?」

「私は広告の入稿をしています」

 あずきださんは微笑を浮かべたまま、二回瞬きをした。
「にゅうこう」と言われても、何のことなのかすぐに理解できる人の方が少ないと気付く。

「SNSとか検索サイトに広告が表示されるように、情報を打ち込むことです」

 商品をどのように認知・購買に繋げるかかといったプランニングは行わないが、自分が打ち込んだ情報がそのまま広告として配信される。そこでミスをすれば間違った内容で広告が配信される。広告を見た人は勿論だが、ビジネスパートナーとして信頼して以来をしてくれたクライアントの損失になる。だから絶対にミスはできない。慎重さ、丁寧さ、そして依頼書に誤りがないか気付ける注意深さが必要だ。

 なるほど、と彼は納得した。

「今日もお仕事お疲れ様です。ケーキ、ご用意いたしますね」

 そういって店の奥に姿を消したあずきださんは、数分後、半球型の真っ赤なケーキをトレーに載せて戻って来た。

「今店で販売している商品の一つです。ラズベリーのケーキになります」

 ツヤツヤで真っ赤なケーキの上に、それよりも深い赤色をしたラズベリーが二粒、その二つの実に、ハーブが添えられている。

「綺麗……。ルビーみたい……」

「恐れ入ります。お包みしますね」

 後ろの作業台でケーキを包んだ後、会計をしてもらう。

「昨日は、お仕事で何かあったんですか?」

「え? あぁ、いえ、仕事ではなく、プライベートでちょっと……。でも、結果的に職場にもちょっと居辛いというか……。転職しないといけないかな、なんて」

「なら、うちに来ませんか?」

「はい?」

「ちょうど新規スタッフも募集中ですし」

 これは……昨日の病と何か関係があるのだろうか。思わず他の店員――柏森さんを探してキョロキョロしてしまった。

「昨日のおこりん坊の彼なら、今は席を外してますから。静かにお話できますよ」

「いえ、そうではなく」

「勿論、ただの軽い提案ですので。でも、お客様でしたらすぐに採用になると思いますよ。なんなら、転職活動中だけの採用でもいいですし」

 それは、あの柏森さんが許すのだろうか。

「それに――僕は、もっと貴女と居たい」

「……えーと、これは、例の病でしょうか?」

「他意はありませんよ。言葉の通りです」

 柏森さーん! 思わず心の中で呼んだ。
 そんなことをしても彼が来るはずもなく、何をどこまで真に受けたらいいのかわからず、言葉に窮してしまう。

「だから、昨日の告白に対する返事とか、そういうのは考えなくて結構です。あなたからは、イエスもノーも、何も聞きたくないというのが、本音なので」

 聞いていた病とは内容の異なる発言に、ますます混乱してしまう。……そもそも、そんな病が実在しているとは思えないし、そんなことをこうして真剣に考えている私も、どうかしているのだろうが。

「まぁ、他にいい転職先がなかったら考えてみてください。『FUKUSHIウチ』はいつでもここにあるので」

 そう言って、ケーキの箱が入った袋と一緒に、レジカウンターの隅に置かれていた店の名刺を渡された。

 彼の甘い瞳が、私を見つめている。
 静寂に満ちた店内で、彼を、その視線を、投げかけられる言葉も、全てを私が独占している。
 好きでそうしているわけではないのに、むしろ私が誘われている側なのに、背徳感を覚える。

「あの、すみません」

 私達は、客と店員。
 なのに、今この瞬間にでも、その関係が壊れて、変化してしまいそうな予感さえしてくる。

 でも……今ならまだ、何も、始まらない。

「そのお店の名刺、昨日柏森さんからもらいました」

 それを聞いて、あずきださんは崩れるようにカクリと頭を倒した。

「あはははは、流石柏森くん」

 乾いた声で力無く言った。

「じゃあ、これは要らないね」

 独り言を呟くように言って、名刺を戻そうとする――。

「――いえ、もらいます」

 指から名刺が離れてしまう前に、私は彼の手から名刺を受け取った。
 その光景を見て、ハッと息を呑んでいたのは、彼だけではない。私自身も、驚いていた。
 彼の指が離れて、ゆっくりと、再び視線が交わる。

「ここで働かなくても、ケーキはいつでもご用意しておりますので。新しい幸福が訪れますように。またお越しくださいませ」

 蜂蜜が零れ落ちそうな笑顔だった。

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?