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波紋〜ただ、それだけだった。〜⑥

    
 だけど、陽太はあの日以来、笑わなくなった。
 いや、笑っているけど、どこかぎこちないんだ。心から笑っていない、って言ったらいいのかな。無理して笑っている感じが、見ていて辛かった。
 そうされる度に、頭を掠めるんだ。あの時の……痛々しく顔を歪めて視線を逸らした彼の表情が。あの時受けた傷が、今も太く鋭い針となって彼の心に刺さっているのが、耐えられなかった。
 僕はいいんだ。もうずっと傷付けられていたんだから。
 だけど、陽太は、傷も汚れも一つも無い、無垢な心のままでいて欲しかった。人の悪意とは無縁の、眩しいくらい真っ白なままでいて欲しかった。永遠の光であって欲しかった。なのに、アイツ等は陽太の心に、黒を落とした。奴等をこの手で裁いたところで、きっと僕の怒りは完全には収まらない。だからせめて、陽太には元の明るい笑顔に戻って欲しかった。
 どうやったら彼が前みたいに笑ってくれるか、僕は真剣に考えた。
 受験生なのに、勉強が手につかなくなるほどだった。考えても考えても何も思い浮かばなかった。
 だから、本人に直接聞いてみたんだ。やりたいこととか、行きたいところとか、ほしい物とか、なんでもいいから何かないか、って。そしたら彼は僕の目をまじまじと見て言ったんだ。「何でも、いいのか?」僕は大きく頷いた。それを叶えられたら、陽太は元気になってくれるって、信じてたから。「……じゃあ、さ……」少し躊躇うようにして、彼は続けた。「今度コンクールがあるんだけど、見に来てよ」そして、様子を伺うように、恐る恐る言った。「……もし、優勝したら……、陸、俺に一枚絵を描いてくれないか…………?」コンクールでの演奏を見てほしかったのか、それとも僕の絵がほしかったのか、それはわからない。だけど、どちらも意外なほどに呆気ない答えだった。
 僕が陽太の演奏を聴かない理由はないし、陽太のためならいつだって絵を描く。彼が遠慮する理由がわからなかった。僕は、彼に約束したんだ。必ずコンクールに行くと。そして、絵を描くと。
 だけど、僕は少しだけ約束を破ったんだ。
 彼は、優勝したら、って言った。でもね、彼が優勝しようがしまいが、僕は絵をプレゼントしようと考えてたんだ。僕の絵を見ると、彼は必ず笑顔になってた。僕の絵で彼が前みたいに笑えるようになるんなら、優勝を逃したとしても、せめてその笑顔だけは取り戻してほかった。だから、絵を描いたんだ。
 コンクールは、夏休みにあった。タイムリミットまで三カ月と少ししかなくて、僕は早急に準備を進めた。
 テーマは何にするか、モチーフは何にするか、使う色は、彩度は、明度は……。そんなことを何度も何度も繰り返し考えた。
 実際に絵を描く作業も勿論大変だけど、何を描くかを考える作業が一番大変なんだ。何も思い浮かばない時は、真っ白な中に思考だけが彷徨さまようんだ。そして、余計な色が混ざり合って、互いを汚していく。一つ一つを見れば綺麗なんだろうけど、何の統一性もない、不規則な色達が、頭のキャンバスをめちゃくちゃにしていくんだ。僕は絵を描く時、あの瞬間が一番苦しいな。描きたいっていう気持ちがあるのに、何が描きたいのかわからなくて。
 結局梅雨がきても、アイディアは思い浮かばなかった。三年生なのに、悩みが勉強や進路じゃなかったなんて、馬鹿みたいだよね。でも、あの時の僕にとっては、一大事だったんだ。陽太に絵をプレゼントするのに、何もイメージが思い浮かばないなんて。僕の心も次第に空と同じような重苦しい色に染まっていった。

 だから久々に、『さくら』に行ってみたんだ。三年生になってから陽太はほとんど毎日学校に残ってバイオリンの練習をしていたし、僕も何を描くかで頭がいっぱいで、しばらく行っていなかったんだ。ほんの気分転換のつもりだった。
 店内は前と変わらない様子だった。
 僕を見ると花凛さんは、「あ、陸君いらっしゃい! 久し振りだね」と声を掛けてくれた。ちゃんと覚えてくれていて、少しむず痒くなった。
 アイスココアを注文して、スケッチブックを広げる。十分と経たないうちに花凛さんがココアを持って来た。「陽太君は? 彼も最近来てないよね」コンクールのために練習していると告げていると、晴実さんがやってきた。「陸君! 久し振りだね。元気だった?」彼からも陽太について聞かれて、同じように答えた。彼の手には紙袋が握られていて、水色を中心とした花で作られた小さなブーケが入っていた。ブーケに気付いた僕に、彼は前と同じように、右手の人差し指を立てて、そっと口元に当てて微笑んだ。
 彼の後ろに、もう一人男性がいた。「ハルが言ってたのって、この人?」といった彼は、星のように眩い男性で、仄かに金木犀の香りがした。陽太が持っている楽器ケースと同じようなケースを持っていた。彼も御影出身の泉音大生で、晴実さんの親友らしい。
「コンクールの練習で、最近は来てないんだって。りつにも彼の演奏聞いてみてほしかったな」「ハルがそこまで言う後輩の演奏、いつか聞けるといいな」そんな会話をしていた。
「今日は何を描く予定なの?」いつもは陽太が座る席に座った晴実さんにそう聞かれて、陽太にプレゼントする絵を描くのだと言った。「そっか。じゃあ、邪魔しちゃ悪いね」そう言って彼は席を立ち、親友のバイオリンに合わせてピアノを演奏し始めた。
 曲名はわからなかったけれど、相変わらず、どれも優しくて美しい音色だった。どこかで聞いた曲が演奏されることもあった。その度に、晴実さんの演奏の方が綺麗だと思った。
 親友のバイオリンは、満天の星空のようで、タンザナイトのように深く、シトリンのように鮮やかに輝いていた。これが大学で勉強している人の実力なのか、とも思った。でも、僕は陽太の演奏の方が好きだったな。
 彼等の演奏を聞きながら絵の構想を考えた。それでも、すぐにはアイディアが降りてこなかった。開いていたスケッチブックとは違う、アイディアをメモするだけのA5サイズのスケッチブックに、いたずらにペンを走らせていた。
 そうして何分経ったかはわからない。演奏されていた曲の中で一曲、忘れられない音があった。
 陽太の演奏を初めて聞いた時の曲だ。その曲の演奏が終わってから、晴実さんに何て言う曲か訊ねたんだ。「ヴィヴァルディの『春』だよ」彼はそう答えた。
 そういえば、陽太は一年生の時コンクールに出した絵を見て、大絶賛してくれた。それから親しくなって絵を見せるようになったけど、あの時の評価を上回るものはなかった。
 確かあの絵を描いた時は、憧れの学校に入れて、これから始まる生活に期待を膨らませて、希望に満ちていた。季節が春だったから、色合いもそれらしいもので揃えた記憶がある。だから、色んな人に「春」がテーマだと勘違いされたんだろうけど。
 そんなことを思い返していると、ふと、頭の中に、色が広がった。

 僕がテーマとして選んだのは、陽太の音楽だった。清涼感に満ちていていて、かつ、眩い煌めきを持っている。そんな彼の音楽を描こうと決めたんだ。
 テーマが決まってからは早かった。イメージも固まっていたから、悩まなかったし、手は止まらなかった。だけど、平日の日中は学校に行って、家に帰ってからは受験勉強をして、睡眠もとらないといけないから、絵を描ける時間は限られていた。その中で、期限までに仕上げないといけない。これ、結構キツイんだよね。作業を進めたくても進められない時なんか、かなりジレンマなんだ。
 そうこうしているうちに、あっという間に夏が来た。
 夏休みに入る前、僕は初めて自分の携帯電話を手にした。まさか、こんなタイミングで親から渡されるなんて思ってなかったよ。二年の頃からよく外出するようになったし、勉強して帰る日も増えるだろうから、だって。黒色で折り畳み式のそれに、両親以外で連絡先を登録したのは、勿論陽太だった。「よかった。これでコンクールの前でも連絡が取れる」そう言っていた。今まで出かける時は、学校で待ち合わせ日時を決めるか、家に電話するかだったから、かなり連絡が取りやすくなったよ。
 その時に連絡先教えて欲しかった、って言われても……。別に七美と連絡取ること、そんなに無いよね? 今は違う? たくさん連絡を取ってるって? うーん……。連絡を取っている、っていうより、七美が僕にメールを送ってきてるだけのように感じるんだけど……。
 夏休みに入ってからは、勉強をしながら絵を描いていた。ラジオ体操に行く小学生の声を聞きながら取り掛かるのが日課だった。
 一人だった時はずっと部屋に籠りきりの生活をしていたけど、たまに朝の涼しいうちに散歩に出かけたりもしたんだ。昼間はあんなに暑くなるのに、朝方は半袖一枚だと少し肌寒く感じるくらい涼しくてさ。夏の朝が、一年の中で一番清々しいな、って感じるよ。あぁでも、温暖化が進むとそうでもなくなっちゃうのかな。

 勉強して絵を描いて、たまに散歩して気分転換をして、ようやく絵を完成させたのは、コンクールの三日前だった。絵が完成した喜びと解放感で、僕の気持ちは最高潮に達していた。
 早くこれを陽太にプレゼントしたい。コンクール前に、優勝したらこれをプレゼントすると言って先に見せてしまおうか。でも、反応が悪かったらどうしよう。自分の勝手な想像で描いてしまったけど、気に入ってくれるかな……。リクエストを聞いて、好みのものを描いた方がよかったかな……。
 そんな具合に、完成したはいいけど、急に弱気になっちゃったんだ。
だから、やっぱり渡す前に一度彼の反応を見ておきたくて、僕は陽太に連絡をした。彼は学校でバイオリンの練習をしていた。今から会いに行ってもいいか尋ねると、夕方まで学校にいるからそれまでならいつでも、って言ってくれた。
 僕は完成した絵を木製パネルから外して、折れてしまわないように、スケッチブックに挟んでからトートバッグに入れて、制服を着て学校へ向かった。
 そう言えば、学校に行く途中で七美に会ったな。覚えてる? 道端で会って絵を見せたの。あの時見せた絵を、陽太に見てもらおうとしてたんだ。
 七美と別れた後学校に行って、音楽室に向かう前に教室に寄った。吹奏楽部がパート練習のために教室を開放してもらっている時があるんだ。僕の教室は誰もいなかったけど開いていて、練習が終わったのかこれから練習をするのか、よくわからなかった。いったん荷物を机の上に置いて、お手洗いへ行った。鏡を見てみると、すっかり汗だくになってしまっていて、タオルで汗を拭いた。制汗剤を買っておけばよかった、ってこの時初めて思ったんだ。オシャレな髪型っていうわけでもないけど、髪を整えて、服も整えた。何度も身だしなみを確認した。
 十分も経ってなかったと思う。
 教室に戻ると、陽太に見てもらうはずの絵が、ビリビリに破られていた。
目の前の出来事が信じられなくて、僕はかき集めた紙に描かれてあるものを確かめた。何度見ても、それは僕が苦しい時間を乗り越えて創った、陽太のための絵だった。
 誰がやったのかは今でもわからない。
 もしかしたら、美術部の奴等かもしれない。僕が学校に来たのを偶然見掛けて、いなくなっている間に絵を破ったのかも。夏休み中は確か、秋の展覧会に出すための作品を制作していたはずだから、奴等も学校に居たと思うんだ。
 僕が、絵を持って行かなければ、あんなことにならなかったのに。学校に大切な物を持って来たら壊されるって、よく知っていたはずなのに。こんな簡単なことも忘れてしまっていたなんて。
 教室の外を見渡しても、誰の姿もなかった。僕はかき集めた紙切れをバッグの中に入れて、教室の窓を開けた。生温い風が、髪を揺らした。顔周りの髪が顔にくっついたままで、少し気持ち悪った。風に乗って、バイオリンの音色が聞こえてきた。陽太だ、ってすぐにわかった。何の曲を演奏していたのかまではわからなかったけど、いつ聞いても、消えちゃいそうなくらい綺麗な音色だった。目を閉じて、彼の姿を想像した。
 細い髪に、白い肌、長めの睫毛に、アーモンド型の大きな目、弓と繋がるしなやかな腕に、弦に触れる繊細な指。想像の中でも、彼は美しかった。
 その彼に渡すはずの絵は、無残な姿になっている。
 ……彼は今でもこんなに素晴らしい音色を奏でているのに。
 僕は、何も渡せるものがなくなってしまった。同じ物を創ろうとしても、到底間に合わなかった。時間があったとしても、全く同じ物なんて、創れない。アナログ、ってそういうことなんだよ。
 結局、僕は陽太に行けなくなったって連絡して、そのまま家に帰ったんだ。
 だけどね、どうしても、陽太に渡す絵を諦められなかった。どうにかして絵を渡したかった。残った時間で何が描けるか、頭をフル回転させて考えた。
 そしてふと降りてきたものは、陽太と、ヒマワリだった。
 太陽のような陽太と、太陽のようなヒマワリ。
 僕は、頭の中に思い浮かんだイメージを、夢中で紙に映していた。着色をする時間がなかったから、鉛筆で描いただけの絵になっちゃったけど。鉛が擦れてしまわないように定着スプレーをかけて、完成させた。
 コンクール当日、少し光沢のある黒いスーツ姿でステージ上に立つ陽太を、客席から見つめた。他のどの人が演奏するよりも、僕にとっては彼の演奏が史上最高の音楽だった。スポットライトに照らされる彼も、また美しかった。本当に、どうして僕なんかが彼の傍に居られるのか、改めて不思議に思ったよ。光に照らされて大勢の観客の前で、堂々と演奏している。僕にはそんな世界、これからも無縁だよ。
 そもそも、自分自身が表に出るのは、好きじゃない。目立ったって、良いことないし。人目に触れるのは、自分自身じゃなくて、絵がいい。
 そんなことは置いておいて。陽太はそのコンクールで、二位の成績を修めた。会場の入り口で待ち合わせして、陽太におめでとうと言うと、気まずそうに笑った。「ありがとう。でも、優勝は逃しちゃった……」残念そうに笑う彼に、僕は描き上げた絵を渡した。「これ……っ! 俺、優勝してないのに……。陸の大事な絵、もらえないよ……!」どっちみち、絵は陽太にプレゼントするつもりだったから、って言うと、彼の目は少し潤んだ。「……勉強だってあるのに……。大変な時期なのに、ありがとう……! 俺の宝物だよ。一生大切にする」そんな大げさな。そう思ったけど、彼の声が少し震えていて、口に出せなかった。

 二学期が始まってから、僕達はようやく受験生らしくなった。
 正直、高校は御影以外ならどこでもいいと思ってた。絵はそういう環境に身を置いていないと描けないというわけではないって、この三年でよくわかったし。何より、将来絵でどうしたいっていうのが、明確に思い浮かばなかったから。陽太もあの一件以来高等部への進学は悩んでいたらしくて、別の高校を受験しようって二人で話してたんだ。
 陽太の志望校は僕と同じで、一緒に勉強をして帰るようになった。『さくら』で絵を見せる時間が勉強の時間になって、お金が無い時は図書室で勉強して放課後を過ごすようになった。
 今までバイオリン一筋で生きて来たらしい彼なら、推薦で他の有名な音楽高校に進学できただろうに、普通科の高校に進学するなんて、って思ったけど、その疑問はずっと言わないままでいた。陽太の将来を考えたら、ちゃんと言っておくべきだったのに。
 僕は、彼を手離したくないって思ってしまったんだ。
 彼のこれからの音楽人生よりも、僕は彼と過ごす目先の数年を優先してしまった。僕って本当に、汚い人間だね。
 彼が苦手な化学を熱心に教えて、二人で合格できるように頑張った。こうやって振り返ると、僕はいつだて自分のエゴで動いてるね。誰かのため、なんて、陽太に絵をあげたあの一回きりじゃないかな。……いや、もしかしたらあれも、自分が陽太に絵をあげたかっただけで、根本的には自分のためだったかも……。つくづく、駄目な人間だね、僕は。
『さくら』で勉強していると、花凛さんが透明な使い捨てのコップに入ったケーキをくれた日があったんだ。
 イチゴと生クリームとカットされたスポンジ生地が層になっていて、丁度コップがいっぱいになったところで、生クリームがソフトクリームのみたいに絞られていた。そこに半分にカットしたイチゴを貼り付けるように載せられていて、小さなイチゴパフェみたいになっていた。
「学校で考えた試作品なんだ。よかったら感想聞かせてよ」そう言っていた。両端のお客さんを見てみると、二人も同じ物を食べていた。ショートケーキをカップに詰め込んだようなそのケーキは、甘さが控えめで、最後まで飽きずに食べきれた。それを花凛さんに伝えると、嬉しそうに笑った。「美味しいですよ! カップに入ってるから食べやすいし、軽い味わいだから、息抜きに食べても眠気が気にならなさそうです」陽太のその言葉を聞いて、花凛さんはさらに顔を崩して笑った。
 そして、彼女の勧めで僕達は初めてコーヒーを飲んだ。深い香りの黒い液体を前にして、僕達は一度目を合わせた。恐る恐るカップに口をつけて、飲み込んだ。口の中に広がる苦味。でも、嫌いじゃなかった。口の中に残っていたケーキの甘さと混ざって、苦味がより奥深く感じられた。甘い物とコーヒーを一緒に食べる理由が、ようやくわかった気がした。
 花凛さんのケーキを食べたのは、それが最初で最後かな……。凄く美味しかったから、店で商品として出してもいいんじゃないかと思ったんだけど、「ここはあたしの店じゃないから」だって。「いつか自分の店開いてそこであたしのケーキを売るから、その時はたくさん食べてね」ポニーテールにした長い髪を揺らしながらニッと笑って、彼女は言った。もし店がオープンしたら、陽太と一緒に行きたい。その時は、そう思っていたんだ。

   

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