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玉砕パティシエ小豆田⑤

三.光射すフォレノワール

 退職願、というものを、初めて出した。

 最終出社は四月の初め頃で調整がついたけれど、有給が残っているため、籍は四月下旬頃まで今の会社にある状態だ。
余った有給を消費している最中に『FUKUSHI』に面接を受けに行った。面接してくれたのは柏森さんではなく、あずきださんだった。こういうのはお店で一番偉い人が行うものだと思っていたが、ここでは違うのだろうか。と思っていたら、『FUKUSHI』はあずきださんのお店らしい。店の評判を酷く気にしている様子から、柏森さんの方が偉いのかと思っていた。

 小豆田千歳ちとせさんが、『FUKUSHI』のオーナーシェフで、八年ほど前に店をオープンさせたらしい。
 柏森青葉あおばさんは、『FUKUSHI』のスー・シェフ。二番目に偉いパティシエだそうだ。歳は小豆田さんの一つ上で、本人は小豆田さんの躾け係も兼任していると言っていた。それに対して「僕躾け係なんて雇ってないよ」と小豆田さんは抗議して、また平手をくらっていた。

 料理人としての経験がない私は、販売員として採用された。もともと販売員を増員させたかったので、ちょうど良かったそうだ。

 私の指導をしてくれる人は同い歳位の女性で少し安心したのだが、

「初めまして。わたしのことは『わらび』って呼んでください。よろしくお願いします」

 ほんのり茶色い髪を低い位置できっちりとお団子に纏めて、前髪も自然に、けれど清潔感を感じるよう綺麗にピシッと斜めに流されている。化粧はほぼしていないと思うくらい薄いのに、くるんと上にカールした睫毛が華やかだ。ケーキ屋の店員というより、デパートのコスメ売り場のBAビューティーアドバイザーさん。それも、ちょっと品のあるブランド。そんな印象の女性だった。身長は私よりも少し低いくらい。きっちりぴっしりしている美人、なのにふわふわした笑顔が特徴で、なんとなく天然っぽい雰囲気があった。

 だから自己紹介もふわふわしているのだろうか。そう思ったくらいだ。

甘樂あまら燈架とうかです。よろしくお願いいたします。失礼ですが、本名は何と仰るんでしょうか?」

 販売員の服装は、黒いシャツ、黒いスラックス、黒いスニーカーと決まっている。個人情報保護のために、名札は無い。

「うふふ、女は少し秘密があった方が、魅力的でしょう?」

 それは男に向かって言って惑わせる台詞では?

 そう思ったけれど、小豆田さんも柏森さんも普通に彼女を「わらびちゃん」「わらび」と呼んでいる。わらびさんもふわぁっとした笑顔のまま、それ以上は何も言わない。これは空気を読んで、私も従うべきだと踏んだ。

「あと燈架さん、わたしの個人情報はトップシークレットでお願いします。SNSに書いたりするのも駄目ですよ」

「僕のことはいくらでも写真付きでSNSで紹介してくれていいよ。僕に会いに来てくれる女性ひとがいるかもしれない」

「あ、わたしは映り込まないようにお願いします」

 小豆田さんからドヤ顔を向けられる。彼からスッと離れるわらびさんについて行きたい。

「えーと、大丈夫です、わらびさん。口外するほどの個人情報すらわからない状態なので……。あと、人のことを書き込む趣味はないので、小豆田さんも結構です」

『FUKUSHI』は現在パティシエ二人、販売員が私を入れた二人の小さな店で、定休日は火曜と水曜。少人数のため十一時から十四時、十五時から十九時で営業じ、十四時からの一時間が昼休み。銀座の端っこにあり、最寄り駅は東銀座駅か新富町。「銀座」というイメージを与えない平凡なビルとビルの間に店を構えている。近くにジュエリーショップの路面店があって、「ジュエリーはなかなか買えないけど、庶民でもケーキは買えるからさ。代わりに買ってもらおうと思って」などと小豆田さんは冗談めかして言っていた。

 しかし、実際に小豆田さんのケーキは、初見の感想通り、宝石のように色鮮やかに輝いている物が多い。表面はツヤっと。華やか過ぎず、シンプル過ぎず、品がある。

 こんな目立たないところよりも、もっと銀座らしい通りのテナントでも借りたらよかったのでは、と思った。が、八年も続いているだけあって、売れ行きは年々順調らしい。昨今では「推し活」ムーブもあり、若い女性客も増えているとか。


 四月下旬、早速『FUKUSHI』で働き始めた私は、接客時の基本的な挨拶から教わり、レジ打ちを教わった。レジは商品名がパネルに表示されており、それをタッチすると、自動で金額が打ち込まれていくので、商品名さえ覚えたらレジ打ち自体は簡単だ。

 しかし、その商品名を覚えるのが難しい。私が知っているのは、ショートケーキやチョコレートケーキという一般的な呼び名がほとんどだ。『FUKUSHI』ではフランス語がもとになっているようで、ショートケーキだとイチゴ生クリームという意味になる、フレーズシャンティと呼ばれている。

 その他にも、品物の並べ方、包装する時の箱や、ケーキが倒れたり箱や他のケーキにぶつかったりしないように仕切るための厚紙やテープをしまっている場所、それらの補充の仕方、お釣りの渡し方や五千円や一万円札など、金額が大きな紙幣で会計する時の注意点など、細かい作業内容を教わった。

 味をお客様に説明できるように、と休憩中にケーキをもらったり、帰宅時にもまだたべていないケーキを渡された。全種類制覇するまで試食は続いた。フレジェを食べた時のお皿やフォークは、新作を従業員が試食する用の物だったらしい。

 仕事内容自体はシンプルだが、一番難しいのは、「接客そのもの」だろう。

 ちょっとしたプレゼント用に焼き菓子を買いたいのだけれど。お酒が入っていなくて子供も食べられる物はあるか。配送のサービスは行っているのか……。相手の生活の一部が垣間見える、そんな相談をされることもしばしばだ。

 まだ入ったばかりだというのもあるが、それら一つ一つの可不可を、わらびさんに確認して、彼女の応対を間近で見て、勉強していった。

「ミニギフト用に販売されているものはこちらの紙袋に入った物になります。中身のカスタマイズはできないのですが、バラ売りの物をギフト用でお包みすることは可能です」「お酒が入っていないのは、こちらのシュークリームとプリンとフレーズシャンティと――」「申し訳ございません。当店では配送サービスは行っておりません」

 ふわふわとしていて先輩っぽさを感じない彼女だが、いざ店頭に立つと、柔らかい空気をそのままにきっちりと丁寧な応対をしていく。その姿はやはり、デパコスのBAのようだった。

 しかし、ふわふわしているだけではない。
 ケーキを補充するためにやって来た小豆田さんがお客様――女性に、これでもかというほど綺麗な笑顔で声を掛けようものなら、

「小豆田さーん、まだお仕事中ですよ? 早く持ち場に戻ってくださいね」

 とやさしーい声と笑顔でずるずる引きずって厨房へ送り届けている。そんな彼女は「わらびが居ないと売り場が、主に小豆田の所為で回らない」と、柏森さんから絶大な信頼を得ているのだった。

 塩と砂糖を混ぜたような扱いをされているのに、小豆田さんも可愛いコは好きなのか、

「わらびちゃーん、今度の休みに僕とデートしない?」

 などとバックヤードでしょっちゅう話し掛けては、

「うふふ、小豆田さん、寝言は寝てから言いましょうね。なんならわたしがながーい眠りに落としてあげましょうか?」

 塩辛いを通り越した返事をされている。ながい、は「長い」ではなく「永い」の方だろう。
 小豆田さんは小豆田さんでこれに満足しているようで、

「わらびちゃん大好き」

 と、心臓の辺りに手を添えて、端から見てもキュンとしている。柏森さんも「わらびが本気で困っていないのなら、あのままにしていい」と、放置している。

 小豆田さんの病はドM精神から来ているのだろうか。転職先に選んだところを間違えたかもしれない。一時は本気でそう思った。

 しかし、ニ、三日経てば日常の光景になってしまった。人間の適応能力は時に恐ろしいものだ。

 売り場にやって来る小豆田さんは、それはもう綺麗な笑顔を振りまいている。

「小豆田さんは売るのもお好きなんですか? 私がこの店に来た時も、売り場にいましたし、とても嬉しそうにお仕事していますよね」

「あれは三月限定だよ。三月だけ、閉店三十分前から売り場にいるんだ」

「どうして三月だけなんですか?」

「僕に会うべくして会う人と出逢えるかもしれないでしょ」

 ドヤ顔で言われても、とてつもなく困る内容だった。

 その時期だけ、閉店三十分前に小豆田さんは売り場に出て、販売員は先にバックヤードの清掃をしているらしい。

 彼は一度わらびさんを見て、こちらを見ていないことを確認してから小声で続けた。

「昔柏森くんに『酷い顔で接客するな』って顔を殴られてから、笑顔の練習したんだ。だから営業スマイルもばっちりだよ」

 口角に両人指し指を当てながら笑った。

 不愛想に接客をする人には見えないし、そもそもパティシエだからメインの仕事は売り場ではない。
 しかし、なりたくてなった職業でも、仕事が嫌になる時もあるだろう。そう解釈した。

 わらびさんは秘密主義というわけではなく、本名、出身地、職務経歴などの個人情報を話すのが嫌なだけで、プライベートな話は始業前や終業後、お客様がいない時など、気さくに雑談をしてくれた。

 彼女は意外にも、インドアな人だった。休日は配信サイトでアニメやドラマ、映画を観たり、漫画や小説を読むそうだ。

 柏森さんから本を借りることがあるというは、いつの日かの終業後のバックヤードで本を返していたので知っている。背表紙がグレーで、やたら分厚いレンガのような文庫本を返して、別のレンガを借りていた。「柏森さん、その本好きなんですか?」と聞くと、「好きと言うか……」と言葉を詰まらせた。代わりにわらびさんが「はい、だーい好きなんですよ」と答えた。

 ドラマや映画は小豆田さんと柏森さんから教えてもらったものやその作品でしった役者関連の作品を観るらしい。好きな歌手はKURONA、推しはモデルで今は女優業にも活動の幅を広げている志音しおん。二人ともサブカルチャー寄りの人物だ。「今志音ちゃんが紫乃しのちゃんと医療関係者の一般人の友人と、三人お揃いで着けてるピンキーリングに憧れて、お金貯めてます」と笑顔で語った。

 観光地や夢の国に積極的に行ってそうなのに、そういった場所には行かないし、友人と会っている気配もなかった。

 てっきりわらびさんは「仕事が出来るキラキラ陽キャ女子」だと思っていたので、かなり以外な一面だった。


 そのお客様がいらっしゃったのは、転職して一週間が経ち、四月も終わりが見えた頃だ。

 見た目はわらびさんよりも若く見える。大学生だろうか。スーツ姿だが、なんだか不慣れな印象だ。

「今日ってもう、フォレノワール売り切れですよね?」

 ほとんど売れて空に近い状態のショーケースを見た彼女は言った。

「申し訳ございません。本日は残っているものだけになります」

 彼女はもう一度ショーケースの中を見た。

「ご予約や、お電話いただいて当日でも残っていたら、お取り置きすることも可能ですが」

「予約お願いします!」

 よほどフォレノワールが食べたかったのか、食い気味の反応だった。
 私は私で初めて予約を取るため、少しばかり緊張が走る。
 お客様がいない間に焼き菓子の売り場を整え直して在庫確認をしていたわらびさんがさりげなくレジに戻ってきて、予約表を取り出した私を斜め後ろから見守る。

「お名前とお電話番号、ご予約のお日にちと商品をお伺いさせていただきます」

岸田きしだです。電話番号は〇九〇――。明日の……今くらいの時間なら来られると思います」

「お品物はフォレノワールだけでよろしいでしょうか?」

「はい、一つお願いします」

「かしこまりました。ご予約の内容をご確認させていただきます。岸田様、お電話番号が、〇九〇――」

 予約内容に相違がないことを確認して、岸田様に予約表の写しを手渡す。

「明日のご来店、お待ちしております」

 無事に予約を取ることができて、ホッとした。自分の表情が和らぐのを感じていた。
 ホールケーキではないので、厨房に連絡する必要はない。明日出来上ったフォレノワールを一つ、取り置いておけばいい。

 岸田様は予約表を財布の中に入れて、またこちらを見た。意味ありげな視線だった。出口に向かわないで、遠慮がちに口を開いた。

「あの……、フォレノワールって、どんな意味があるんでしょうか……?」

 確か、フォレノワールが店頭に並ぶ前、店員用の試食分を小豆田さんからもらった時に、意味を聞いた。フランス語がもとになっていたはずだが、思い出せない。チラリとわらびさんの方を振り向いた。私と目が合ったわらびさんが、ふんわりと微笑んで、私の隣に立ち、

「フォレノワールはフランス語で『黒い森』という意味になります。もともとはドイツのお菓子で、『シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ』と呼ばれていました。こちらも、黒い森という意味になります。
 シュヴァルツヴェルダーは南ドイツの地方名で、さくらんぼの産地にもなります。樹海のように木が生い茂っており、その葉の色が黒く見えることから生まれたお菓子です。チョコレート風味のジェノワーズ生地が黒い森、白い生クリームが森に降る雪、削ったチョコレートが森の葉っぱをイメージして作られております。
 普通のスポンジ生地ではバターを使いませんが、ジェノワーズ生地ではバターを使用します。それによって、しっとりとした風味豊かな生地になります。生クリームとさくらんぼの酸味との相性もよく、食べ応えがあるケーキになります」

 呪文のような地名までスラスラと唱え、ケーキの由来から特徴まで説明するわらびさんは、まだここで働き始めて二年目だそうだ。記憶力がいいのか素質があるのか。いずれにせよ、彼女が売り場担当として信頼されるのは、きちんと理由がある。

「クリームとチョコの飾りって、雪と葉っぱだったんですね……。あ、すみません、フォレノワールっていう名前の意味じゃなくて……」

 わらびさんは少し首を傾げて瞬きをした。大きな目が瞼で隠れる様子がよくわかる。

「フォレノワールって、プレゼントしたりする時に、何か意味があったりするんでしょうか?」

 わらびさんは記憶を辿るように少し難しい顔をした。

「……勉強不足で申し訳ございません。存じません」

「いえいえすみません! そうですよね。普通、特に意味なんてないですよね……」

「どうかなさいましたか?」

 諦めるように呟いた岸田様に、わらびさんは寄り添うように訊ねた。

「今年のバレンタインに、ずっと好きだった幼馴染に告白したんです。彼、昔はあまり体が強くなくて。私は外遊びが嫌いだったし、家も近かったし、彼は他の男の子のみたいにやんちゃしなくて私の性格と合っていたから、よく一緒に遊んでいました。幼稚園から高校まで一緒で、大学はさすがに別々だったんですけど、何かあれば普通に会ってました。親友みたいな関係だったので、気まずくなるのが嫌だったんですけど、いずれ彼も誰かと結婚するんだって考えたら嫌で……告白したんです。そしたら、返事は五月頃まで待ってほしいと言われて。今月から新社会人になって、先日ようやく返事をもらえたんですけど、『これが俺の気持ちだから』って、フォレノワールを渡されて……」

 わらびさんは私を見た。視線がばちりと合う。お互いに首を傾げて、岸田様の話に再び耳を傾けた。

「私、いろいろ調べてみたんです。でも、出てくるのは由来とか作り方とかで、それ以上は出てこなくて」

「もしかして、お菓子言葉が関係しているのでしょうか?」

 私の言葉に、岸田様は答える。

「バレンタインのお返しのお菓子にも意味がある、っていう話を聞いたから、それも調べてみたんです。フォレノワールって、チョコレート菓子であっていますか?」

「わたしはチョコレート菓子に分類できると思います。あくまで個人の意見ですが」

 わらびさんは即答した。それを聞いて岸田様は溜め息を吐いた。

「ですよね。バレンタインのお返しでチョコレートを渡すのは、『これまでと同じ関係でいましょう』って意味らしいんです。チョコにチョコを返して何も変わっていないから、だそうなんですけど。それって、『幼馴染のままでいしょう』って意味ですよね」

「でも、わざわざ返事を待ってもらったり、お返しにケーキを用意するくらいだから、特別な意味があるのではないでしょうか?」

 思わず口を挟んでしまった。岸田様は疑うような目で言う。

「特別な意味って、何でしょう?」

「それは……、」

 いっちょ前にポジティブシンキングを押し付けても、こういう場合、あまり意味はない。

「もしかしたら店によって味が違うのかもとも思って、フォレノワールを売ってる店で買っては食べ比べてるんですけど、どこもチョコレートの味が強いんですよね。生クリームがチョコクリームのところもあったし……」

 好きか否かを抜きにしても、これまで多くの時間を共に過ごした相手からのメッセージだ。その意味を本人に聞かずに解読したくもなるだろう。

 それに、わざわざ返事を待たせるくらいだ。手の込んだお断りの意ではないはずだ。
 良い意味だとしても、そこにどんなメッセージが込められているのか。正解に近い答えを、自分で見つけたい。その気持ちを、少しでもお手伝いしたい。

「次回のご来店までに、わたくしどもでもどんな意味があるのか、調べてみます」

岸田様を店前までお見送りして、今日のところは閉店となった。


 売り場とバックヤードの掃除を済ませて着替え終えたところで、同じく着替えを済ませた小豆田さんと柏森さんに、わらびさんが聞いた。

「男性から女性にフォレノワールを渡すのって、何か意味があるんですか?」

「意味? 知らんぞ。フォレノワールを渡すこと自体に、意味なんかあるのか?」

「僕も聞いたことないな」

「ですよねぇ。じゃあ、バレンタインのお返しでお菓子を渡す時、お菓子言葉って気にしますか?」

「あぁ、花言葉みたいなやつか。そういうのがあるのは知っているが、その内容をわざわざ気にして選んだりはしないな。相手が喜ぶものが一番だろ」

「ですよねですよねぇ。柏森さん、凄く普通で捻りの無い回答しかしてくれませんが、もらう側としてもそれが一番なんですよねぇ」

 柏森さんはわらびさんに言い返したりはせず、やれやれと言った様子で小さく溜め息を吐いた。

「僕も気にしたりはしないけど、ケーキを渡すとなると、随分親しい人か、好意がある人しか渡さないかなぁ。特別感あるし」

「そうなんですよねぇ。ケーキなんて持ち運びにくいものわざわざ選んだりしませんよねぇ。マカロンだってプレゼント用はしっかり箱に詰めてもらえますし」

 右手を右頬に当てながら悩む彼女を見て、先に疑問を口にしてくれたのは柏森さんだった。

「いったい何があったんだ?」

 わらびさんではなく、私を見て問われた。実はですね、と二人に岸田様のことを話した。

「なるほどなるほどぉ。若い子は可愛いことするねー」

 腕を組み、エピソードに浸るように顔の筋肉を緩める小豆田さんを無視して、柏森さんは推測を続ける。

「わざわざ返事を半年近く待ってもらってケーキを渡すくらいだから、悪い意味ではないんじゃないのか?」

 その通りだ。断るのならその場で断ればいい。迷っていたから考える時間が必要だったとしても、チョコレートを渡して断るのなら、わざわざお返しの品でケーキを、それも販売期間が限られるフォレノワールを選択する必要はない。有名なチョコレートブランドならいくらでもあるし、ケーキを取り扱っているところもあるのだから、その中から選べばよかったはずだ。

「最初からフォレノワールを渡すつもりだったから、待ってもらっていた、ということですよね。フォレノワールに、黒い森以外に、自分で新たな意味付けでもしたんでしょうか」

 私の呟きに、わらびさんと柏森さんの視線が吸い寄せられた。そして、

「燈架ちゃん、良い線いってるんじゃない?」

 一人、意味ありげに小豆田さんが同意した。

「小豆田さん、わかったんですか?」

 彼の言葉にいち早く反応したのはわらびさんだった。

「わかったっていうか、ただの想像だよ」

「どういう意味があるんですか?」

「明日、岸田様には僕がフォレノワールを渡すよ。その時に岸田様にお伝えするから、近くで聞いていたらいいよ。でも、あくまで僕の勝手な想像、いや、妄想だからね」


 翌日やって来た岸田様は、今日もスーツ姿だ。

「お待ちしておりました、岸田様」

 彼女にすぐさま反応したのはわらびさんだ。昨日会ったばかりの店員に名前を呼ばれて、岸田様の顔が少し綻んだ。

「ただいまお品物をお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」

「他に追加でご購入されるものはございますでしょうか?」

「いえ、フォレノワールだけで大丈夫です」

「それではお先にお会計をさせていただきます」

 わらびさんの後を引き継ぎ、会計に進む。レジ打ちをしている間にわらびさんが小豆田さんと柏森さんと三人でやって来た。お会計を終えた後。柏森さんに小声で訊ねる。

「柏森さんも聞きに来たんですか?」

「いや、お客様が女性だと聞いたものだから、躾係として同行させてもらった」

 同行という言葉を使われると、小豆田さんが手のかかる大きな子供というより、珍獣か何かのように思えた。

「フォレノワール一点でお間違いないでしょうか?」

 小豆田さんが長方形のトレーに載せたフォレノワールを見せて、岸田様に確認した。品物の確認を終えて、持ち歩き時間を聞き、保冷剤と一緒に箱詰めし、手提げ袋に入れて、レジから出て岸田様に手渡した。

「フォレノワールをプレゼントする意味についてお調べだと伺ったのですが、意味はもうおわかりになりましたでしょうか?」

「いえ……、『これまでと同じ関係でいましょう』しか……」

「これは、僕の勝手な想像になるのですが、」

 小豆田さんは、そう前置きして、

「これは、幼馴染の方から岸田様への愛の告白だと思いますよ」

 静まり返った店内で、岸田様の動揺した空気が感じ取れた。

「でも、チョコレートのケーキですよね?」

「チョコレートを使ったケーキを渡したかったのなら、普通のチョコレートケーキやガトーショコラ、なんならオペラでも問題ないはずです。これらの商品は、大抵通年商品として取り扱われていますから。けれど、フォレノワールではないと駄目だったんです」

 岸田様は眉をひそめている。不快に思っているわけではなく、その意味を考えているのだろう。

「……私、さくらんぼが好きってわけでもないんですけど……」

 絞り出した答えに自分でも悩んでいる様子の岸田様に、小豆田さんは優しく微笑んだ。

「きっと、幼馴染の方にとって、岸田様は光のような存在だったのでしょう」

「光?」

「幼馴染の方は、昔はあまり体が強くなかったと伺いました。好みは人それぞれですので、男の子の中にも室内遊びが好きだった方はいらっしゃるでしょう。
しかし、体調が優れないとなると、状況は違ってきます。幼稚園も休みがちで、同い歳の友達がいなかったのではないでしょうか? 彼が一番親しいと思っていたのは、岸田様だったのではないかと思います。
 小学生にもなると、サッカーや野球の少年チームに入る子も増えます。同じクラブの仲間同士で友達や人間関係が構築されていきます。そんな中で幼馴染の方は、周りの同級生に、なかなか馴染めない期間が長かったのではないかと感じました。あの歳頃はスポーツができるかできないかで、男子の人気は決まります。同性からも異性からも。
 それによって周囲からの扱われ方も変わってきます。きっと彼にとって、岸田様だけが、自分に分け隔てなく接してくれる、唯一の人だったんです」

「……それとフォレノワールに、何の関係が……?」

「由来になっているシュヴァルツヴェルダーの森は、遠くから見ると本当に黒く見えるほど、濃い緑色だそうです。雪が降ったら、その雪の白色はよく映えるでしょう。
 しかし、黒も白も、光がなければそれが何色なのか、判断できません、暗闇の中だったら、黒色が本当は深緑だということもわからないし、白色は本当は薄水色かもしれない。光があってこそ、その世界が見えるのです。
 幼馴染の方にとって、岸田様は、自分に世界を見せてくれた光のような存在なのではないでしょうか。きっと、岸田様がいなければ、その方は世界から一線を引いた生き方をしていたのかもしれません」

 岸田様は息を飲んだように、小豆田さんを見ていた。

「ちなみに、さくらんぼの花の花言葉は、『幼い恋』『あなたに真実の心を捧げる』などがあります。きっと、幼い頃からずっと岸田様を想い続けていたのでしょう。それから、」

 小豆田さんは、一呼吸置いた。

「岸田様達は、新社会人だと伺いました。これからは大人として、生きてゆかねばなりません。
 フォレノワールは、お酒を使ったケーキです。なので、子供は食べられません。大人だけが楽しめるお菓子なんです。もしかしたら、これまでは幼馴染として、子供として、関係を良好に保っていたけれど、これからは大人として、責任がある関係――結婚を前提にしたお付き合いを、お相手の方は、お望みなのではないでしょうか」

 私は思わず手で口を塞いだ。声は出ていないが、心の中では叫びまくりだった。わらびさんも両手で口元を抑えている。眉間の辺りが多少険しく見える。

「今お話したことは、しがないパティシエの、ただの想像です。お菓子にちなんだ、甘くて、心地のいい。言い換えれば、都合のいい、夢物語であり、妄想。
 フォレノワールには昨日他の従業員が申しました通り、『黒い森』という意味しかありませんし、生地、クリーム、チョコレートの飾りとさくらんぼも、『黒い森』を模したものであり、それ以上の意味はありません。
 ですが、わざわざこの時期まで返事を待たせて、わざわざフォレノワールを渡すくらいなのですから、その裏にはしっかりした意味があるはずです。真実を、直接聞き出す価値はあると思いますよ」

 岸田様は小豆田さんが持っているフォレノワールの袋を凝視している。箱の中に入っているそれを、透視でもするように。

「もし、はっきり言葉にしないお相手の意味不明な言動に辟易としていましたら、代わりに僕とお付き合いしますか?」

 その時、柏森さんの目がキラッと光った。また昭和のごとき躾が始まるのかと思ったら、小豆田さんの右肩をガッと掴みに行っていた。平手は飛ばなかったが、ミシミシという音が聞こえそうなくらい、強く肩を掴んでいるのがわかる。

 彼が小豆田さんの右肩を掴むのと同じ速さで、わらびさんは小豆田さんの左腕を掴みに行っていた。にーっこりと可愛らしい微笑みを湛えているが、その背にはゴゴゴゴゴという効果音が付きそうな圧があった。

 二人に両側から制された小豆田さんは、笑顔を凍らせて、若干の冷や汗を垂らしている。

 そんな様子を見て、ようやく岸田様の顔も和らいだ。

「そうですよね……、考えても結局、短期間で何個もケーキ食べて終わってるだけですもんね。直接本人に聞いてみます」

 決心したように、岸田様は手提げ袋を少し強く握った。
 小豆田さんもそれ以上病を発症しないと判断されたのか、二人の圧の籠もった手から解放されて、安心したよつに、ふぅと息を吐いた。

「それにしても、パティシエさんは想像力が豊かでも、随分と嘘吐きですね」

 その言葉で、三人も、岸田様に視線を向けた。

「両想いかもしれない相手がいるとわかっているのに、しかもそれを教えたのは自分なのに、その相手を口説こうとするだなんて。本当はそんな気、一切無いんですよね? もしかして、フラれたいだけだったりして」

 その言葉を聞いて、小豆田さんはフッと笑った。
 営業用の、綺麗に作られた笑顔ではない。柔らかい、それでも裏は読めない表情だった。

「岸田様は、名探偵でいらっしゃるんですね。本当は、フォレノワールをもらった時、悪い意味では無いことだけは、気付いていらっしゃったのでは?」

「ケーキなんてもらったら、期待しますよ。ただ、そのケーキに具体的にどんな意味が込められているのかまではわからなくて調べてみたら、一パーセントでもそれを否定する要素が見つかってしまって……。後押しがほしかったんです」

「岸田様達の間には、駆け引きも何も無い、相手が一番居心地の良い相手だったという、純粋な想いだけがあると思いますよ」

「ありがとうございます。こんな、大勢の方に見届けていただく予定なかったんですけど」

 そう言って私達を見た。私と目が合った彼女は、小さく会釈しながら「ありがとうございます」と言った。それを見届けて小豆田さんが言った。

「とんでもないことでございます。当店が岸田様の人生の後押しになったのであれば、幸いでございます。岸田様に、新たな幸福が訪れますように。またのお越しを、お待ちしております」


 終業後、売り場組はバックヤードから売り場までの片付けをして、パティシエ組は明日の仕込みと厨房の掃除をして、着替えて店を出た。

 小豆田さんの首には、今日もネックレスチェーンが着いている。が、ペンダントトップは服の中に隠れて見えない。彼はいつもネックレスを着けているが、チェーンだけが見える状態だ。

 柏森さんもわらびさんも、彼のペンダントトップが隠れてしまっていることを言わないから、私は今日も何も言わない。服装が薄手になってからわかったのは、ペンダントトップは輪の形をしているらしい、ということ。

 服の中に隠れているのか隠しているのか、そのネックレスの留め具を見ながら聞いてみた。

「『FUKUSHI』って、もしかして福が始まるって書いて『福始ふくし』ですか?」

 働き始めてから今日まで、店名の意味や由来は一切教えられなかった。店の理念を伝えるために、まず初めに説明されそうなのに。

「正解。燈架ちゃんが自力で気付いてくれてよかったよ。自分の店の名前を自分で解説するなんて、いくつになっても照れ臭いからね」

 誤魔化すようにして頭の後ろで手を組み、空を見上げながら歩く小豆田さんに言う。

「なんだかちょっと和風な名前なんですね」

「小豆田の実家は和菓子屋だからな」

「ぇええ⁉」

 和菓子屋を継ぐのが嫌で両親と大喧嘩して家を飛び出したとか、そういう経緯でパティシエになったのだろうか。

「昔からずーっとお祝い事がある時は上生菓子食べてたし、皆で食べるお菓子も普段小腹が空いた時に腹を満たすのも、どら焼きとか最中もなかとか。和菓子ばっかり食べてたね。和菓子は嫌いじゃなかったけど、その分洋菓子への憧れも強くてね。クリスマスとか誕生日で友達がどんなケーキを食べたとか聞いてると、もう食べたくて食べたくて仕方がなかったんだよ」

「……で、親に無理矢理跡継ぎにされそうになったから、逃げて来てパティシエになったんですか……?」

 空に向かって愉快な笑い声が響いた。

「違う違う。小学生の、高学年かなぁ。誕生日にケーキ食べたいって言ったら、『だったらパティシエになって自分で作れ』って言われたのを真に受けてさ、そのまま本当になっちゃったわけ。ちなみに実家の方は優秀なスタッフが揃ってるから、僕が跡継ぎになる必要はないんだ」

 その言葉を受けて、わらびさんがこそっと耳打ちした。

「『えにし』って和菓子屋、ご存知ですか? そこが小豆田さんのご実家だそうです」

 確か、石川県では有名な和菓子屋だ。石川土産と言えば、と付くくらいの。
 関心している間に、話が戻る。

「燈架ちゃん、上生菓子は買ったことある?」

「いえ、ありません……」

「じゃあ何でもいいから、時間がある時にでも和菓子屋のサイト開いて、上生のかめいを見てみるといいよ」

「かめい?」
「お菓子のに、カネヘンに名前の名って書くめいで、菓銘かめい。そのお菓子に付けられた、名前のことだよ。趣深いものが多くて、見るだけでも楽しいよ。福始も、そこから知った単語でね。意味は書いて字の如く」

 右手の人差し指を立てながら小豆田さんはつらつらと解説してくれた。店名の意味は説明できなくても、一歩逸れた話は説明してくれるようだ。

 そんな彼に、フラれることを目的として告白なんてする彼に、私に告白した理由を聞いたら、答えてくれるだろうか。

 彼は、私にフラれる勝率を、感じ取っていたのだろうか。

 街灯とビルの灯りだけで照らされた彼は、例え今が昼間であっても、私には真実など明かしてくれそうもない。

 服で隠れてしまっている彼のペンダントトップのように、見えない何かで覆われている彼に光を当てることは、まだできそうもない。

   


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