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緋色の花⑫

     

「ちょっと、誰よその女」
 いつものカフェで、珠莉に最近妙に機嫌がいいと指摘された。
 そんなの、珠莉に会うからに決まっているのに、ここへ来る前にいいことがあった、という雰囲気なのだと言う。
 そこで思い当たったのが、晴実だった。連絡先を交換したから、彼が店を手伝っている時は、必ず寄っている。寄るだけ寄って、彼と話してから珠莉に会いに来ていた。
「晴実は男だって」
「浮気してるだなんて。しかも初めて聞く名前よ。瑠依るいってコが怪しいと思ってたのに」
「瑠依はただの従妹いとこだって。晴実は花屋の店員。前花屋に寄ったって言ったろ? そこの店員」
「歳上ですって? 最低ね。しかも、花屋だなんて」
 何度弁解しても、まともに話を聞いてくれない。「女は感情的」と言われている理由がわかった気がした。先程から事実しか述べていないのに、疑いが晴れず、一向に話が進まない。
「本当に浮気してるならこんな馬鹿みたいに口滑らせるわけないだろ」
「あえて事実をもとに話して疑いを晴らす作戦かもしれないわ」
「そんな面倒なことするくらいなら浮気なんてしないで別れてるっつーの」
「開き直らないでよ」
「じゃあどう言ったら納得してくれるわけ?」
「だいたい蓮が何も――」
 そこで彼女は口を閉ざした。言い掛けた言葉を無理矢理飲み込むように、黙って俺を睨んだ。
「……ちゃんと説明してよ」
 代わりに絞り出された言葉は、振り出しに戻る内容だった。
「さっきから本当のことしか言ってないって」
 それでも彼女の目は納得していなかった。
「信じてくれないなら、俺本当に他の女に目移りするかもよ?」
 冗談だった。だって、そんなの、ありえないんだから。ちょっと大げさなことを言ったら、珠莉もさすがに諦めて、少しは話を聞いてくれるのではないかと思っただけだ。
 グサリ。そんな効果音がつきそうなくらいに、珠莉はクグロフにフォークを突き立てた。
 休日の昼下がり、お姫様に相応しいアフタヌーンティーを食しているのに。台無しだ。
 彼女の丸い目が、俺に鋭く突き刺さる。
「何よ、その目は。言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「いや、それは珠莉の方じゃね?」
 そう言うと、珠莉は黙った。突然言葉で責め立ててこなくなるのも、逆に怖い。
 彼女は決してこの場で怒り狂って叫んだり、ましてや手を上げるような人ではない。それでも、思わず両手で制するような仕草をしてしまった。
 それを見て、彼女はさらに不満そうな顔をした。だが、言葉を発する気配はない。
「……他の女に目移りするとか、冗談だって」
 折れるように、口からその言葉が出た。
「……蓮って、何考えてるのかわかんない」
 クグロフを一切れ、小さな口に運んだ。先程までの怒りは冷めているようだが、冷めてしまった分、その視界に俺は入っていないようにも見えた。視線も、俺からテーブルの上へと移動し、アフタヌーンティーの菓子に向けられている。
 冷えた空気が漂う。徐々に焦りを感じ始める。
「俺は珠莉のことしか考えてないよ」
 歯の浮くような台詞だと、言った後で気付いた。
 事実、いつだって、珠莉ばかり頭に浮かんだ。息苦しい現実から逃れるように彼女を想い、目の前にして、その砂糖菓子のような時間に溺れる。世界一幸福な毒だ。
 珠莉は一瞬こちらに視線を向けて、眉をひそめた。
 そしてクグロフの皿を俺に差し出して、イチゴのシャルロットを食べ始めた。無言で食べ続ける。あらかじめ八つに切られたクグロフは、まだ五切れ残っている。
「……いらねーの?」
「いいから食べて」
 言われるままにフォークを手にして一切れ食べる。フワフワの生地を噛むと、バターの香ばしさがオレンジピールの爽やかな香りと交じり合う。表面はカリッと焼き上がっていてデニッシュ生地を思わせる甘さがあるが、パンにしてはバターの風味が利いている。
「クグロフってね、お菓子なのよ」
 それは知っている。クグロフはお菓子だ。
 珠莉の言おうとしていることがわからず、続きを待った。
「パンみたいだけどね、お菓子なのよ。しかも、ちょっとリッチなお菓子として扱われてるから、クリスマスとか結婚式とか、特別な日の食べ物でもあるの。形も王冠みたいだしね。でも、パンみたいだから、ちょっと贅沢な朝食としても食べられたりするの」
 どう聞いてもクグロフの説明だ。クグロフについて、彼女は話している。
 茫然と彼女の話に耳を傾けていると、そこでようやく目が合った。責めるように俺を見ていた。これでも気付かないのか、という風に。
「蓮は自分から私を好きだとは言ってくれない。いつもいつも、私から言わないといけない。それらしい言葉はいつも私の言葉に便乗する形か、ご機嫌取りでしか言ってくれない。何なのよ。どっちなのよ。ふざけてんの?」
「……えーと、つまり……?」
「彼女だったとしても、ちゃんと相手は自分が好きなんだってわかんないと不安になるの。形だけの付き合いなんて、いくらでもできるんだから。心が伴ってないと駄目なのよ。不安になって相手を疑うの。気持ちを行動で示してよ」
 珠莉は二段のアフタヌーンティーの下段の皿からクッキーを掴み、俺の口に押し込んだ。反論はさせない、とでも言うように。おとなしくアイスボックスクッキーを嚙み砕く。表面に付けられたグラニュー糖の所為だろう。クグロフよりも甘い。いつだって、彼女から与えられるものは甘い。だけど今日は、どこか尖っていた。その棘を呑み下した後に、口を開いた。
「……ごめん」
「謝ればいい話じゃないのよ。駄目王子」
 ジトッとした目を向けられる。
「適当に耳触りのいいこと言ってれば済むなんて思ってたら、大間違いなんだから」
 珠莉もアイスボックスクッキーを噛み砕く。クッキーの白黒の市松模様が歪に崩れた。
 目が一度伏せられる。小さく深呼吸しているように見えた。ゆっくり目を開けて、俺と視線を合わせないようにテーブルを見ながら、静かに話し始めた。
「……私、この時間が永遠に続くなんて思ってない。まだ中学生なんだもの。だから、一生も永遠も、ここからは続かない。信じるほど夢見てない。そこまで馬鹿じゃない」
「……」
「でもね、それでも好きなの。将来を語り合うには未熟だし、永遠なんて語っても陳腐になるだけだけど。それでも、好きな気持ちは変わらないの。将来誰と一緒にいようが、今を生きてる白羽しらはね 珠莉は蓮が好きなの。だからせめて、蓮を信じるくらいはしたいの。信じたいの」
 他のテーブルは休日の華やかな時間が流れているのに、俺達のテーブルだけ時が止まったように、静まった。
 珠莉を想うこの気持ちが、将来的に自由になる保証は無い。
 自分の中だけに留めて置けば、過去の思い出になる。
 でもこれは、自分が傷付かないための言い訳だ。
「……俺は珠莉が好きだよ」
「……」
 珠莉は俺を注視する。真実を見極められる前に、自分で逃げ道を作る。
「今度どっか行こうか。珠莉の行きたいところ」
 彼女は無言で俺を見つめた。やがて小さな溜め息を吐いて、
「じゃあ、蓮の嫌いな場所に行きましょ」
 そう言って、バラの花びらが浮かぶローズティーを飲んだ。

   

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