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緑玉で君を想い眠る②

一話:祝福が呪いに変わる
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森城もりしろ叶羽様
 結婚を取り止めろ。
 でないと純白の式が血で染まる。
 いつも貴女を見ている。
                         貴女のアイ

 月曜日、帰宅したらポストの中に入っていたという手紙を見て、真っ先に思った。
「あの事件の犯人が、私を狙っている」と。
 あの事件から、もう十五年経っている。
 なぜ、今になって……。

 この手紙を先に見つけたのは、婚約者の由貴ゆきだ。私宛になっている真っ白な封筒を見て、叶羽さん宛ですよー、といつも通りの口調で渡してきた。
 差出人名は勿論書かれていない。よく見ると切手も消印も無い。が、封を切って中身を確認するまで、そんなこと、気にも留めていなかった。由貴との結婚の話を聞いた誰かが、手紙でも送ってくれたのかと、浮かれたことを考えていた。

 中身を見た私は、その場で硬直した。
 私の名前、結婚、血、いつも見ている……。目に飛び込んだ文字が、小さな針となって全身の血管を巡って、内側に刺さっていくようだった。体のあちこちが疼き、次第に血の気が引いていく。

「……叶羽さーん?」

 由貴が、いつも通りのどこかのんびりした口調で、私を呼んだ。
 光で透けるコバルトグリーンの海みたいに綺麗な瞳が、私を見ている。

「叶羽さん……?」

 少し緊張した声色で、再度呼び掛けられた。
 何でも無い、気にしないで。
 そう言いたいのに、あの事件の恐怖が、全身を支配する。
 何も見えない、聞こえない、匂いすらもわからない。何も手掛かりが無い。

 ……無いはずの左目が、痛み始める。

 反応が無い私を不審に思ったのか、不安と恐怖が顔に出ていたのか、彼は眉をひそめて私の隣にやって来て、手紙の中を見た。

「何ですか、これ……」

 普段の彼の口調は消え去って、今まで聞いたことがない、張り詰めた声で言われた。

 これはきっと、あの事件の犯人が。今もどこかで私を見ているらしくて。
 そんな、答えになっていない言葉すら吐き出せない。
 唇は震えて、すぐそこにある空気すら振動させることができない。その震えはやがて顎に、肩に、手に、足に伝わる。

 どうして、今なのだろう。
 やっとの思いで立ち上げた会社、シロノ化粧品もようやく軌道に乗って、愛する人との結婚もできるという、このタイミングで……。

 ぼやけ始めた視界と苦しくなってきた呼吸で倒れそうになっていた私を、不意に何かが包み込んだ。

「ボクが、ついてますから」

 由貴の声が、耳元で聞こえた。
 私を包み込んた何かは由貴の腕だった。私よりも一つ歳下で、身長も平均より低いし細身なのに、その腕は易々と私を包み込んでいる。じんわりと芯まで温まるような躰温ぬくもりが伝わってくる。

 その熱に、張り詰めていた糸が切れたように、足の力が抜けた。その場にしゃがみ込み、右目からポロポロと、何かが落ちていく。偽物の左目からも、同じものが落ちてくる。
 少しして、私は声を上げて泣いていることに気付いた。由貴は私を離さずに、より強く抱き締めたまま、右手で頭を撫でてくれていた。



「ごめんなさい。急にあんな……」
「気にしないでください」

 落ち着きを取り戻した私は、ソファーに座って由貴が淹れてくれたカモミールティーを飲んだ。「これ、リラックス効果があるみたいなんです。デカフェなので、夜飲んでも安心ですよー」と言って、同棲を始めて少しして由貴が買って来た物だ。

 由貴が座り心地を気に入って選んだ、クッション部分が青緑色のソファー。肘掛けと足の部分は唐茶からちゃ色だ。その色合いに近い色で合わせて私が選んだ、ローテーブル。ダイニングテーブルと椅子も、二人で似た色合いで使い心地の良い物を探して決めた。カーテンの色はアイボリー。夜でも明るい雰囲気が出て気に入っている。由貴が一目惚れして買った、葉先に透明感がある観葉植物のハオルチアは、他の観葉植物と一緒に出窓に置かれている。昼間は日の光を浴びて、その葉は文字通り透けている。アーモンドみたいな形の葉がロゼット形に育つそれを初めてみた時、思わず「美味しそう!」と言ってしまった。「叶羽さん見てください」と、珍しくキラキラした目を向けていた彼は、私の言葉を聞いた後、青い顔をしながら体の後ろにハオルチアを隠して「食べちゃ駄目ですよ」と言っていたのを、今でもよく覚えている。

 彼と一緒に探して住み始めたマンションは、お気に入りの物で揃えられて、それがいつしか身体に馴染んで、安心感を得られる空間となっていた。
 由貴も隣に座って、カモミールティーを飲んでいる。そして、何も聞こうとはしない。
 落ち着きを取り戻した私は、ゆっくりと口を開いた。

「……由貴は、どうするべきだと思う?」

 これから結婚する仲だ。
 何も話し合わないままでいるわけにもいかない。
 彼は、これが私の……過去の事件と関係があると、察したに違いない。私が取り乱した直後だから、あえて何も切り出さないのだろう。

「……ボクは、あの事件の犯人からだと思いますよ。警戒はした方がいいと思います」

 私を必要以上に不安にさせないためか、声に先程のような緊張感はない。

「犯人、まだ捕まってないんですよね?」

「捕まっていない、というか、もうとっくに時効になってるし、結局犯人がどんな人なのかもわからないままだから……」

「男か女か、何歳だったのか、叶羽さんとは他人なのか知り合いなのか、全く何もわからないわけですね」

 そう言って、彼は机に置いていた封筒を手に取り、再び脅迫状に目を通した。

「森城叶羽ってフルネームで書いてあること、叶羽さんが近々結婚する予定を知っているということは、知人かもしれないですね。この『アイ』って名前に心辺り無いですよね?」

「昔の友達にも同級生にも、アイって名前の人も、アイって呼ばれてた人もいない」

「ですよねー。犯人が好きでつけた名前なんでしょうか? だったら女性なのかとも思ったんですけど、『見ている』と『貴女の』って表現から、叶羽さんに対する執着と、文章全体から漂う粘着質な感じが、男性っぽく思えるんですよね」

 そう言って、彼は一度口を閉ざした。肝心な部分の言及を避けたまま。
 しばらくして、彼が言ったのは、

「結婚式、延期しますか?」

 脅迫状から彼に視線を移すと、バチリと目が合った。表情の変化が乏しい、いつも通りの表情。どこか物事に冷めているような、関心が無さそうな印象を受ける。
 が、目にははっきりとした強い意志が表れている。

「ボクは、叶羽さんと予定通り結婚式を挙げることよりも、叶羽さんの身に何かが起きる方が嫌ですから」

 声のトーンは変わらない。
 それでも、表情に隠された、内にある誠実さや彼なりのやさしさをが滲み出る。それだけで、彼の真剣さは痛いほどストレートに伝わってくる。

 結婚式は、今週の土曜日だ。もう一週間もない。
式は少人数ウエディングでほとんど親しい人だけを招待している。延期しても、多くの人を巻き込むわけではない。しかし、製品開発に協力してもらってお世話になっている矢切やぎり製薬のれん社長と紗羅さらさんまで予定を調整してくれている。招待客に迷惑を掛けたくない。何よりも。

「……私、これまで身を隠し続けてきた犯人が目の前に現れるとしたら、結婚式の時だと思うの。わざわざこんな物送りつけてくるんだから。その機会を逃したら、もう一生捕まえられない気がする」

 それを聞いて、由貴は苦い表情になった。

「だから、このまま式を挙げたい」

「……せめて、警察に相談しませんか?」

「事件が起こる前じゃ、何もしてくれないと思う。これまでにストーカー被害を相談してたとかなら多少話は聞いてくれそうだけど、いきなり送られてきた脅迫状一枚じゃ、それも、会社に関することじゃなくて、痴情のもつれみたいな内容じゃ、相手にされないと思う。起きた後でさえ、必ず解決できるわけでもないし」

 それを聞いて、彼はより一層表情を曇らせた。何か思案するように目を逸らして、やがて、固く閉ざしていた口を開いた。

「…………こんなこと言うの、酷いかもしれないんですけど、」

 次に彼が何を言うのか、なんとなく想像できた。
 その想像が当たらないようにと心の片隅で願うが、小さな願いはいとも簡単に打ち砕かれる。

まもるさんに、聞いてみたらどうですか?」

 逸らされていた彼の目は、再び私を捉えた。
 変化が無い顔の中で唯一、怒り、疑念、嫉妬、様々な想いが混ざって複雑になった感情を示す彼の目が、まっすぐに私を見る。

「これを送ったのは、守さんじゃないか、って」

   


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