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緋色の花③

1ー1:赤名あかな紗羅さら

     

 己の消失とともに、全てを焼き殺そうとする残暑が立ち込めているであろう窓の外。開けたら蝉の鳴き声も聞こえるかもしれない。だが、中学でもエアコンが完備されていて暑さとは無縁の校内で、わざわざそんな愚行に走ろうとは思わなかった。
 眩し過ぎる日の光に耐えられなくなったのか、窓際の席の生徒がカーテンを閉める。
 転校生は窓際の一番後ろの席になると思っていたのに、あたしの席は廊下から三番目の列の一番後ろだった。何も知らない転校生を、角の心許ない席に追いやらず、前方と左右の生徒でしっかりフォローしようという姿勢を感じた。
 勉強面は問題無かった。理系は得意科目で、転校試験でも数学と、特に理科の点数に助けられたのではないかと自負している。地方の公立中学からの転校で授業についていけるのかという不安があったけれど、杞憂に終わった。
 人付き合いは助けられた。早く馴染めるようにと気遣ってくれたのか、休憩時間には近くの席のクラスメイトが積極的に声を掛けてくれた。転校してきた理由はいつしか訊ねるのはタブーとなり、地元の思い出を聞くこともされず、何気無い世間話をしてくれた。
 ありがたかった。でも、いたたまれなくもなった。
 彼等彼女等は真っ白で、眩しい。真っ黒なあたしとは全然違って。
 少しずつ新しい学校、新しいクラスメイトへの緊張は無くなっても、心理的な距離は全く縮まらなかった。
 それが身分格差からくるものなのか、事件の影響によるものなのか、あたしとここの生徒とでは何もかもが違いすぎて、わからなかった。
 そして、転校して無事一カ月を終えようとしている今、あたしに話し掛けようとする人はいなくなっていた。
『彼』が近付いてきたことによって。
 ……瞼が少し下がってくる。
 クラスメイトが話し掛けてくれていた間はなんとか耐えられていたのに。まだ四限目が残っているのに。今朝も寝坊して一限目に遅れたのに。
 いや、今日遅れた原因は寝坊じゃない。あのまま寮部屋の前から立ち去れていたら、ギリギリ間に合っていた。
 いざ部屋を出て鍵を掛けて校舎へ向かおうとしても、ドアノブから手を離したら、鍵が本当に掛かっているか、不安になってしまう。記憶では確かに今鍵を掛けたけれど、もう一度ドアノブに手を掛けて、開かないか確かめる。それを、何度も何度も繰り返してしまう。
 朝ちゃんと起きられたらこの行動をしても間に合うかもしれないが、夜寝ようとしてもなかなか眠れない。暗い部屋で寝るのが嫌だから、電気を点けたままベッドに入る。仰向けも抵抗があるから横向きになる。内側から鍵を掛けていてもドアに背を向けて寝るのも不安だから、必然的に灯りのある方を向く。いずれ眠りに落ちても、明るい部屋で熟睡できるはずがない。
 長崎での出来事がきっかけで不眠の症状が現れるようになったのだと思っている教師と同級生は、あたしの度重なる遅刻と居眠りを多めに見てくれていた。それもこれも、小テストで点を取れているからだろう。このまま定期テストも問題なく乗り越えたら、あとは出席日数を落とさなければギリギリどうにかなる。
 現段階で危機が迫っているのは、体育の授業だ。苦手ではないから出席さえできたら問題無い。だが、授業前に体調を崩すことが多く、出席すらできない。制服のリボンを解いて、ボタンに手を掛けて――気分が悪くなってしまう。着替えることすらできない。
 不眠も漠然とした不安も、生活の中で十分に悪影響をもたらしていた。
 いつから自分はこうなってしまったのだろう、と思い返しても、長崎での出来事が原因だと、とうにわかっていた。
 もとに戻りたい。前の自分に戻りたい。
 そんなの、叶わないけれど。
 叶わないんだから、これからどう生きるかを考えなければ。長崎に居る時はそう思っていた。
 でも、ここへ来て、自分と同い歳の女子がこうも真っ白で眩しいと、羨ましくなってしまう。
 過去を呪おうとする時があれば、強く生きようと奮い立とうとする時もあって、相反する感情の狭間で揺れる。
 揺れて、揺れて……、それは睡魔に変わる。
 ここで目を閉じたら、何もかも元通りになってくれないだろうか。真っ白な人間に囲まれて生活していたら、真っ黒なあたしも、オセロのように反転して、同じ色になれないだろうか。
 現実逃避が余計に瞼を重くする。次の授業を終えたら昼休みだから、耐えたいのに。
「さーらー!」
 窓とは逆方向から、名前を呼ばれた。一年生の教室の前方のドアを占領するように、三年生の男子が立っていた。
 その人物を見て、教室で囁き合う声が飛び交う。
 赤名あかなさんって、れんさんとどういうご関係なんだ? 蓮さんのお知り合い? ご親戚か何か? 矢切やぎり家って長崎にご親戚の方いたかしら? とても親しくしてらっしゃるものね?
 先程までの眠気は吹っ飛んだ。
 音を立てて席を立ち、早足に教室を出て彼のもとへ行き、声を抑えながら言った。
「ちょっと! 学校で馴れ馴れしくしないでって、いつも言ってるじゃん!」
 あたしを真っ黒だと不躾に言ってきた例の『彼』は、どうやらお嬢様とお坊ちゃんばかりが通うこの学園の中でも、特に有名人だったらしい。
 本来この学園とはえん所縁ゆかりもなかったはずのあたしに、必要以上の教養と立ち振る舞いを幼い頃から教育されたクラスメイトは、近付き過ぎず離れ過ぎず、の距離感で接してくれていた。
「事故で両親を亡くした」ことになっているからかもしれないが、そういう事情を考慮していたとしても、異物あたしに対して必要以上に踏み込んでこない態度には安心していた。
 その距離感でよかった。友達はできなくても、普通っぽく生活できるなら。
 なのに、前の学校の制服がきっかけで興味を持たれ、三年生なのにしばしば一年の教室まで来るようになった彼と接するようになってからは、少し距離を取られるようになってしまった。
「やっぱ、白あんま似合わねーな。あと青も」
 あたしの苦情には聞く耳を持たず、先日からようやく袖を通し始めたさくらみや学園の制服とあたしの顔を見ながら、口元に三日月を描いた。白いワンピースも中等部の青のリボンも似合わないという彼の発言は、これで何度目だったか。
「そういう蓮だって、似合わない」
 ライトグレーのスラックスと白いシャツ。出会った時よりも涼し気な服装であるはずなのに、クラスの男子とは違い、爽やかさに欠ける。中等部の深緑色のネクタイをしていない、そういう反抗的な面も影響しているのだろう。
「紗羅よりは似合ってるし。それより、今日の放課後空いてんの? 空いてなくても空けろよ」
 こちらの言い分など聞く前に、背を向け、手をひらひらと振る。こうして無理矢理に約束を取り付けられるのも、何度目だろう。
 最初は強引さに不快感しかなかったこのやり取りも、今では彼の姿が見えなくなるまで背中を眺めてしまう。
 教室に一歩足を踏み入れると、クラスメイトからの視線が集まる。目を向けると、誰と合ったわけでもないのに、その視線はまばらに散った。
 やっぱりお付き合いされているのかしら? 蓮さんなら誰を選んでもおかしくない気もするけど。何で赤名さんなんだ?
 どこからともなく聞こえてくる声に、悪意は全く感じない。どれも純粋な疑問で、彼等にとっては誰かに聞いて確かめないといけないくらいには重要な事柄らしい。
 ただ、話の渦中にいる人物が同じクラスにいるのに、直接聞こうとする人は、誰一人としていなかった。ついこの前まで、仲が良いとは言えないかもしれないが、クラスメイトとして普通に接してくれていたのに。自分達では近付けないとでも言うように、一線を引かれている。
 彼、矢切蓮は、桜ノ宮学園中等部三年で、幼稚舎からこの学園に通うれっきとしたお坊ちゃんで、なのにそれらしい言動は見られない、粗野な人物。強引で、それは我儘とも言い替えられて、ある意味で育ちのいい人。あたしは、ここまでしか彼を知らない。
 彼はそういう性格だからか、堅苦しいことを嫌い、一年のあたしに、敬称と敬語の使用を禁じた。本人が言うならばとそれに従ったが、どうやら桜ノ宮ここでは間違った行動だったらしい。転校早々、蓮を名前で呼び捨てにしてタメ口で話す様子を見たクラスメイトは、彼等の足元にも及ばない一般人のあたしから一歩引き下がるようになった。まるで、軽々しく近付けない存在のように。
 クラスメイトから蓮との関係を囁かれる中、歩みを進める。自席が妙に遠く感じた。
 席に辿り着くと、周囲の視線から逃れるように机に伏した。同時に眠気が蘇ってくる。始業のチャイムで起きたら、問題無い。溶けていく思考に、微かに声が届いてきた。
「そう言えば、レイさん、まだ学校お休みされてるんですって」
「もう新学期が始まって一カ月近く経つわよ」
「高等部だから会う機会がないけれど、心配だわ」
 近くの席の女子が、心配と不安が混じった声色で密やかに話していた。高等部の人を中等部の人が気にしても、どうしようもないのに。そう思ったが、桜ノ宮ここでは初等部で知り合い、そのまま仲良くなることもあるのかもしれない。あたしには無いその関係性が羨ましくなり、同時に疎外感を覚えた。
 仕方がない。あたしは本来桜ノ宮こんなところにいるべきではない存在だ。白鳥の彼女達とは身分違いなんだ。彼女達はこれからもいろいろな人と心を通わして、そのうち誰かと結ばれて、幸せな人生を辿る。あたしには訪れないそういう未来を、彼女達は手に入れられるんだ。

   

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