玉砕パティシエ小豆田⑪
六.モンブランに秘す
五月も終わろうとしている頃、思っていたよりも早くに葛町さんから連絡が来た。定休日の昼に、わらびさんと三人で会い、食事に行った。
「『葛町さん』じゃなくて、朔乃とか朔ちゃんでいいよ」
厭味無く彼女の方から距離を詰められて、私は嬉しさと緊張でドキドキしっぱなしだった。
今年で四十歳だと言っていたが、とてもそうは見えないし、自分もこういう歳の取り方をしたいと思った。なんとなく柏森さんは歳下の人とお付き合いしそうだと思っていたけれど、今なら二歳上の彼女と夫婦だったというのも納得できる。
「じゃあ、朔乃さんで」
「朔ちゃん」とはさすがに私は呼べない。彼女をこんな風に呼べる人は、どんな人なのだろう。爽やかな人、根が良い人、それか、繊細な部分を隠してたくましく生きている人……。普段頑張っている分、朔乃さんの前では弱音や愚痴を吐く人かもしれない。そんな想像をしていた。
「この前女性専用のジム見つけたんだけど、わらびちゃん興味ある?」
「あります! いい加減外に出ないと、運動し無さ過ぎてマズいと思うんですよね」
極度のインドア派なわらびさんも、そこは気にしているようだ。
「場所、後でスマホに送っとくね。燈架ちゃんも、ジムとか興味ある?」
「そうですね。金額や場所にもよりますが、私も体力作りしたり筋トレした方がいいかなって、この仕事に就いて感じるようになりました」
立ち仕事だからか、毎日足腰が痛む。これまで座り仕事だったから、体力や筋力が低下しているのだろう。小豆田さんと柏森さんは、朝早くから立ちっぱなしだし、業務用の食材は重いはずなのに。毎日私の方が疲れている。柏森さん曰く、「筋力が弱いと、上半身を支える力も弱くなって、それに伴って姿勢も崩れて、体全体に負荷がかかる」とか。
「じゃあジムのホームページ、送るだけ送っとこうか? 連絡先、教えてもらえる?」
こんなに自然な流れで連絡先を交換してもらえるとは思わかった。
思わず感涙しそうになりながらスマホを取り出し、連絡先を交換したのだった。
わらびさんがこそっと耳打ちする。
「お休み明け、柏森さんに自慢したらいいですよ」
「……いや、柏森さん、もう連絡先知ってますよね?」
自慢も何も無いのでは。
休み明け、わらびさんが柏森さんに朔乃さんと食事に行ったという話をしていて、意味がようやくわかった。どうやら柏森さんよりも、わらびさんの方が朔乃さんと頻繁に連絡を取っているし、会ってもいるようだ。柏森さんの目がチベットスナギツネみたいになっている。
「燈架さんも朔乃さんと連絡先交換したんですよ」
の一言で、私にも視線が刺さる。
「……そんな、そんな目で私を見ないでください。誘ってきたのも連絡先を交換しようと言ったのも、朔乃さんです」
「そんな言い方をするな。本当に怒るぞ?」
もう怒ってるじゃないですか。普段小豆田さんやわらびさんを叱る時よりも。
その言葉は静かに燃える炎を極力早く沈下させるために、呑み込んだ。
『FUKSHI』で働き始めてまだ一カ月を無事に乗り越えたくらいだけれど、私でも、よく来てくれるお客様の顔くらいは覚えてきた。
わらびさんが「いらっしゃいませ。こんにちはぁ」と迎えて、ちょっとした世間話を交わすお客様が何人かいる。その人達は所謂常連さんで、いらっしゃいませとその他の言葉を組み合わせた挨拶をすると、とても嬉しそうに顔を綻ばせることがわかったのだ。
「『覚えてもらえている』というのは、相手に親近感や愛着を抱いてもらえるきっかけになるので、お仕事だけでなく、お客様お一人お一人のお顔も注意して覚えてくださいね」
と、わらびさん本人も言っていた。
私も数少ないが、特徴のあるお客様は少しだけ覚えた。
今、私の目の前でケーキを選んでいる女性が、その一人だ。
顔や服装は特に目立った特徴はない。焦げ茶色のセミロングの髪を緩く巻いた、オフィスカジュアルの服装。歳は二十代後半から三十歳くらい。店員の目を見て、時には笑顔を向けてくれる。接客をしていたらよくわかるが、大抵、相手は商品や支払いに夢中で、店員の顔など見ない。だから、店員の目を見てくれる人は、珍しいし、こちらとしても嬉しいのである。笑顔を向けてくれるとなると、なおさら。
爽やかですっきりとした印象のその女性は、毎週金曜日にケーキを二つ買って帰るのだ。仕事帰りと思しき時間帯に寄って、同じ種類のケーキを二つ。同じ物を二つだから、同棲中の相手か結婚相手と一緒に、週末の楽しみとして食べているのだろうか。
そんな妄想は、店員側の密かな楽しみだ。
女性が嬉しそうにケーキを受け取る様子を見るのが、毎週の楽しみになりつつあるのも、店員側だけの秘密だ。
「すみませーん、モンブランって、お酒入ってましたっけ?」
そんな彼女が、五月最後の金曜日、初めてケーキの材料を訊ねてきた。
これまで食材を気にした様子などなく、気になった物をポンと買っていたのに。
「はい、モンブランには洋酒を使用しております」
わらびさんを見倣って私もケーキ試食ノートを作成してみたが、全種類となると、まだ大雑把な味の説明しかできない。彼女は構成から細かな味、由来まで、スラスラ説明できる。相当量、暗唱の練習をしてきたのだ。
「洋酒を使用していないものですと、シュークリーム、プリン、フレーズシャンティ、オペラ、不定期販売しているヨーグルトムースシトロン。ショーケースの中では一本売りされているパウンドケーキもですが、こちらは焼き菓子コーナーで一枚切りから置いております。ケーキではなくなってしまいますが、焼き菓子コーナーのクッキーやマドレーヌ、フィナンシェも、洋酒は使用しておりません」
細かな説明はできないが、洋酒や特定原材料七品目が入っているか否かだけは、しっかり覚えた。せっかく楽しむために買っていただいたのに、苦しい思いをするなんて、あってはならない。ここはお客様にすぐに説明できる立場として、しっかり対応したい。
フランス語がもとになっている商品名が多いため、聞きなれない単語がほとんどだ。説明ははっきりと、丁寧に、わかりやすく、時には商品を指し示しながら。そうしないと、買う側は疑問が晴れず、長々と説明されると聞き返しにくく、次の来店のイメージが湧きにくくなる。わらびさんのちょっとした気遣いテクニックを真似させてもらっている。
「ありがとうございます! じゃあモンブランとフレーズシャンティを一つずつお願いします」
今日も、二つなのか。
週末に来客があるから、誰でも抵抗なく食べられる洋酒無しの物を探しているのかと思ったが、違うのかもしれない。
「かしこまりました。先にお会計いたしますので、レジにお並びくださいませ」
女性は今日も笑顔で嬉しそうに、「ありがとうございます」と言って、ケーキを大事そうに持って店を後にした。
翌週も、翌々週も、洋酒無しのケーキともう一つだけケーキを買って行った。
「あの、モンブランって、中の栗を抜いて作ってもらうことはできますか?」
今日は、月曜日だ。
月曜日に、その女性は来ていた。
いつも通り、仕事帰りの時間帯。
けれど、表情は暗く、窶れているように見える。
「確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
一言残し、急いで厨房へ確認に行く。
「柏森さん、モンブランの中の栗を抜いて作ってもらうことできますか?」
「中の栗を?」
訝しがる、というよりそれ以上に不思議そうな顔をして、彼は続ける。
「それくらいなら、できないことはないと思うが……。小豆田、モンブランの中の栗を抜いて作ってほしいそうなんだが」
「中の栗を?」
「店によっては中に栗が入っていないスタイルもあるが、わざわざうちでそういうオーダーをするっていうことは、うちのモンブランを食べたことあるってことだよな」
「だと思うけど……。燈架ちゃん、お客様は今店内に?」
「はい、週に一回来てくださっている方で、最近はモンブランを一つお買い上げになっています。あ、そういえば、いつも同じケーキを二つ購入してくださるんですけど、モンブランを買われ始めた頃から、洋酒無しのケーキを一つ買って行かれています」
「洋酒無し、か。僕が直接オーダーを取ってくるよ」
そう言って売り場に出ていく彼の後を急いで追った。
さすがにあの深刻そうな顔のお客様にいつもの余計な言葉は言わないだろうが……。何かあればブレーキの役割も従業員の務めだ。こんな業務内容が組み込まれているのも、おかしな話だが。
お客様のもとへ案内し、近くで品物を整理しながら、聞き耳を立てる。
「大変お待たせいたしました。ご注文の内容を詳しくお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、そんな複雑なものじゃなくて……、ただ、こちらで販売されているモンブランの、中の栗だけを抜いたものがほしくて……」
「普段洋酒を使用しているのですが、洋酒も使用しない方がよろしいでしょうか?」
「いえ、洋酒はもう大丈夫です。中の栗だけで」
「かしこまりました。本日はお作りすることができないので、恐縮ですが、別のお日にちでお客様のご都合のいい日程でご用意させていただいてもよろしいでしょうか?」
「今週の金曜日の、今くらいの時間帯に受け取りたいんですけど、大丈夫でしょうか?」
「かしこまりました。いくつご用意いたしましょうか?」
「二つお願いします」
「かしこまりました。お客様のお名前とお電話番号を控えさせていただけますでしょうか?」
「志村倫子、電話番号は――」
やり取りは滞りなく終わり、意外にも小豆田さんが病の発作を起こすこともなく、志村さんは私達に弱々しい笑みを向けて、店を出ていった。
「……小豆田さん、珍しく発作を起こしませんでしたね」
「いやぁ、さすがに……、あの状態の人に言うのは、ね」
小豆田さんも、弱々しく苦笑しながら言った。
彼には、志村様が抱える何かしらの事情がわかったのだろうか。
私が志村さんを見なくなったのはその週の金曜日に、中の栗無しモンブランをご購入されてからで、彼女が行方を眩ました理由を知るのは、それから二週間後だった。
志村様が栗無しモンブランを買った次の週、彼女はケーキを買いに来なかった。残業で遅くなってしまったのだろうかと思った次の週、一人の男性が店を訪ねてきた。
歳は三十五歳前後から三十代後半くらいだろうか。仕事疲れなのか、少しフケているようにも見えるが、小豆田さんと柏森さんと同年代くらいに見えた。スーツ姿でネクタイを揺るみなく締めている。中肉中背、どこにでもいそうな、サラリーマンだ。
どこか焦燥感に満ちた様子で、レジにやってきた。フレーズシャンティを三つ注文した後、こちらが本題だというように、切り出した。
「すみません、以前こちらで、中の栗無しモンブランを買った女性がいると思うのですが、あれからこちらに来てはいないでしょうか?」
従業員やお客様のことは、基本的に答えてはならない。個人情報がいついかなる場所で悪用されるかわからないからだ。
「申し訳ございません。従業員やお客様のことをお答えすることはできかねます」
「ぼくはそのモンブランを一緒に食べた人です! これまで倫子が何を買ってきたかもわかります! 中の栗無しモンブランの前は、普通モンブランばかり買っていました! モンブランと一緒に買っていたのは、シュークリーム、その前がプリン、その前がショートケーキで――」
全て、志村様が買っていたもので合っている。順番も同じだ。
買ったケーキについて話す相手は、限られて来るだろう。友人、恋人、家族……。志村さんと彼が親しい間柄だったことは、間違いないだろう。
わらびさんと視線が合う。彼女が小さく頷いたのを確認して、
「お客様、よろしければあちらでお話をお伺いいたします」
レジから離れて、店の隅に場所を移した。男性は先ほどのように焦燥感を滲ませて話した。
「倫子と音信不通で、マンションからも居なくなってしまって……」
「志村様は確かに中の栗無しモンブランをこちらでご購入されました。それ以前から何度かこちらにいらっしゃっていましたが、中の栗無しモンブランをご購入されてからは、お見かけしておりません」
「何か……、何か言っていませんでしたか? 引っ越すとか、旅行に行くとか……」
「申し訳ございませんが、そういったお話は、私どもは伺っておりません」
「どこへ行ってしまったんだ……」
「警察に相談された方が、よろしいのでは……?」
「それは……」
「お客様、どうかなさいましたか?」
「小豆田さん!」
小豆田さんが、状況説明を促すように、私をチラリと見た。
「二週間ほど前、中の栗無しモンブランをご購入された志村様が、音信不通で行方知れずだそうで……。それまで必ず、週に一回はお店にいらしていたのに」
「失礼ですが、お客様と志村様とのご関係は?」
「失礼いたしました。ぼくは森下と言います。倫子と付き合っていました。いつもこちらでケーキを買っていたので、何か手がかりはないかと伺ってみたのですが……」
小豆田さんは顎に右手を添えて、何か考えるようにして、森下様手元をじっと見つめている。釣られて彼の手元を見て、違和感を覚えた。森下様の言葉が弱々しく消えかけるように濁されたのを聞き届けて、
「手がかりと言いますか……、想像ならできるのですが」
小豆田さんの言葉に、私と森下様は一瞬きょとんとしてしまった。先に我に返ったのは森下様だった。
「そ、想像? いったいどういうことですか?」
「ただの想像なので、宛にならないと思うのですが……」
「何でもいいです! 何か少しでも手がかりになれば……!」
小豆田さんは困ったように笑みを浮かべている。
「でしたら、お時間に余裕がございましたら、閉店後にお話させていただいてもよろしいでしょうか? あと十五分ほどで店を閉めるので。お時間がないようでしたら、ご都合のいい日程で、改めてお話させていただいてもよろしいでしょうか?」
「な、なぜですか? 今ここで話してはくれないのですか?」
「今すぐお伝えして差し上げたい気持ちではあるのですが……、内容が内容なので」
個人情報、だろうか。しかしそれでは志村様について森下様にこうしてお話していることと、矛盾が生じる。
私と森下様は、再度首を傾げた。
「……森下様と志村様、お二人のご関係について立ち入ったことをお話することになると思うので」
小豆田さんはそう付け足した。
その言葉で納得したらしい森下様は、時間は大丈夫だからと、一度店から出て行った。ケーキはお預かりしておいて、後ほど改めてお渡しすることにした。十五分後に戻って来られた時、他にお客様は居なかった。Closedの看板を外に出して、ブラインドを下ろしていく。
「わらびちゃん、燈架ちゃん」
小豆田さんが私達を呼んで、手招きした。
「今日は売り場の掃除はやっておくから、帰っていいよ」
「いつも待ってもらってますし、終わるまで待ちますよ?」
わらびさんが言う。
「そんなこと言って、聞き耳立てるようなことされたら困るんだよ。お客様のプライバシーに関わるから」
わらびさんの申し出を、いつもより強めに断った。「ほら、帰った帰った」と追い出すように手で払う仕草をされる。
私とわらびさんは顔を見合わせて、その場を後にした。
「酷いです、小豆田さん。接客したのはわたし達なのに。志村様がいなくなった理由がわかったなら、わたし達にも教えてくれてもいいのに。わたしがここに来た時から、ずっとお見掛けしていた方なんですよ?」
着替えながら、わらびさんはボヤいた。
「燈架さんだって、志村様のこと、心配ですよね?」
「はい、ずっと感じの良い方だなって思ってて。ちょっと会うの楽しみだったんですよ」
「わかりますわかります。店員なのでお客様を選ぶような発言は慎むべきなんでしょうけど、『会うのが楽しみな店員』がいるように、『会うのが楽しみなお客様』だっているんですよね」
わらびさんは時折、どこかで接客業をしていたのではないかと臭わせる発言をする。
「わたし、明日どんな話をしたのか、聞いてみます」
「答えてくれますかね?」
そんなに気になるなら、帰るフリをして今からでも盗み聞きすればいいのに。それはしないらしい。
翌日、朝のバックヤードで、「いつも小豆田さんの茶番に付き合ってるのは誰ですか?」「わたしだって志村様が心配なんです」「安否だけでも教えてくれたっていいじゃないですか!」と段々と口調が強くなるわらびさんに、小豆田さんは根負けした。
「『そんなに良い話じゃない』じゃなくて、『全く良い話じゃない』んだけど」
「構いません」
「わらびちゃんも燈架ちゃんも、好きな話ではないと思うし、むしろ気分の悪い話だと思うけど」
「勿体ぶらないで!」
敬語が無くなったわらびさんを見て、小豆田さんは一つ溜め息を吐いた。
「これは僕の勝手な想像であることを前提に聞いてね」
そう前置きした彼は、目を伏せた。ゆっくり深呼吸しながら目を開く。
「志村様と森下様は、不倫をしていたんじゃないかな」
私とわらびちゃんは、一瞬言葉を失った。
「そ、そんな、不倫なんて、まさか」
なんとか紡げた言葉も、自身の浮気された経験があるため、覇気がない。
それ以上に、あの志村様が不倫をしていたかも、なんて、認めたくなかった。
「だから、これは僕の勝手な想像ね」
小豆田さんは、改めて釘を刺した。
「森下様は既婚者で、志村様が不倫相手だと思うよ」
「逆のパターンはないんですか?」
「森下様は結婚指輪を填めていた。でも、志村様は指輪をしていなかった」
違和感の正体がわかって、脳内に火花が散った。
わらびさんが小豆田さんから私に視線を移した。私は一度頷いた。
そんな私達二人のやり取りを見届けて、彼は続ける。
「まず、志村様がケーキを買っていたのは、毎週金曜日。個数は二つ。恐らく、金曜日の夜が、二人が会う日だったんだろう。
燈架ちゃんも、志村様が店に来る頻度について、『週に一回』と言っていた。
なのに森下様は志村様が買うケーキについて、『いつも』こちらでケーキを買っていたと言った。週に一回、ではなく、いつも、だ。それはきっと、森下様が志村様と会っていた、一週間のうちの一日だけを指しているから、そういう表現になっていたんだ」
右手の人差し指を立てた小豆田さんは続ける。
「次に、ケーキだ。志村様はこれまで、洋酒の有無を気にせず買っていたのに、ある日突然洋酒無しのケーキを、二つのうち一つ買い始めた。
今まで洋酒の有無を気にしていなかったのだから、志村様自身は洋酒が駄目なわけではないはずだ。
これまで一緒にケーキを食べていた相手とは違う相手とケーキを食べ始めた可能性も、無くはない。
ただ、洋酒入りのケーキを食べられなかったのは、一緒に食べる相手ではなく、志村様自身だった可能性が高い」
「なぜですか?」
わらびさんが問う。
「僕が栗無しモンブランのオーダーを取った時、洋酒の有無も念のため確認したんだ。そしたら志村様は、『洋酒はもう大丈夫です』と答えた。もう大丈夫、ということは、一時期は何らかの事情で食べられなかった、と考えられる」
「一緒にケーキを食べる相手が変わった可能性も捨てきれませんよね? それか、今まで自分一人で食べていたとか……」
「確かに、一人で二つのケーキを食べていたということもあり得なくない。だけど、洋酒を気にせず購入していた時は、同じケーキを二つ買っていたみたいだから、一人で同じケーキを二つ食べていたのではなく、誰かと一つずつ食べる習慣かあったと考えた方が自然だよね。
一緒に食べる相手が変わったのだとしたら、洋酒入りでも大丈夫な人と一緒に食べていた期間、洋酒が駄目な人と食べていた期間、そして最後にもう一度洋酒入りでも大丈夫な人と一緒にいた期間。最大で三人の人と過ごしたことになる。それも、時間を空けないで。その相手が家族や友人だった可能性も、勿論あると思う。
けどここで意味を持つのが、例の中の栗無しモンブランだと思うんだ」
負けじと反論していたわらびさんは、ここにきて口を閉ざした。彼女も、このケーキの意味だけはわからなかったのだろう。
「洋酒無しのケーキを買っていた時期、恐らく志村様は、妊娠していた」
「……だったら確かに、洋酒が入っていないケーキを食べていたのは、志村様自身になります」
「だとしても、栗無しモンブランと、何の関係があるんですか?」
私の呟きの後に、わらびさんは再び小豆田さんに問うた。
「志村様は森下様に、妊娠のことを告げようとした。けれど、関係性から、なかなか言い出せる事柄でもなかった。代わりに、モンブランでそれとなく伝えようとしたんじゃないかな」
「だから、なぜモンブランになるんです?」
「モンブランはフランス語で『白い山』っていう意味のケーキだけど、アメリカではとある隠語として使われるそうなんだ」
いつの間にか、小豆田さんの顔から表情が消えていた。
どことなく昏い目が向けられる。
「『娼婦』」
一度沈黙が訪れた。
それは一分にも満たない、わずかな間だった。それでも、その一瞬の無音が、重苦しい空気を纏っていた。
「なぜこういう意味合いになったのかは、よくわからないそうだ。
けど、志村様がこの隠語を知っていて、森下様とは公にできない関係性の自分をその言葉と重ねて、中に入っている栗を身籠っている子供に見立てているとしたら」
そこで小豆田さんは口を閉ざした。
それ以上説明しなくても、志村様がなぜモンブランを買い続けていたのか、私達でもわかると判断したのだろう。彼自身、説明したくなかったのかもしれない。
そこでまた、一瞬沈黙が訪れた。二、三秒の間だ。それでも、次に声を発するのは、躊躇われる。見えなくても確かな質量を持った空気に、耐えられない。
「……最後の、中の栗が入っていなかったのは……」
またもわらびさんが口を開いた。
ここまできたら嫌でも予想できるが、確かめずにはいられないのだろう。
「……恐らく、堕胎したんだろうね」
「……森下様に、反対されて?」
「いや、森下様はきっと、彼女の妊娠を知らなかった」
わらびさんと同じ予想をしていた私は「え?」と声が漏れた。わらびさんも目を丸くしている。
「気付いたのは多分、森下様の奥様だ。以前から森下様のことを疑っていたのかもしれないね。志村様に直接会った森下様の奥様が妊娠に気付いて、堕胎するよう説得したのかもしれない。森下様夫婦にはお子さんもいただろうし、志村様も説得に応じたのかも」
「森下様、お子さんがいらしたんですか⁉」
わらびさんが、これまで話を聞いていた中で一番大きな声を出した。大きな丸い目が溢れんばかりに見開かれる。
「うちに来た時、フレーズシャンティを三つ買って行った。パートナーと食べるなら、二つで十分なのに、三つも買った。小学生くらいの子供でも食べられる、普通の、でも小さな子供には人気のある、フレーズシャンティを、だ」
『FUKUSHI』は大人向けの商品が取り揃えられている中、見た目は洗練されていても馴染みのある商品――フレーズシャンティ、シュークリーム、プリン――がラインナップにあるな、とは思っていたが、それは子供用にも買って帰ることが想定されていたのかと、今さらながら気付いた。
「……志村様は、森下様と不倫していた。妊娠して、それを森下様に告げるタイミングを計っていたら、先に奥様から堕胎するよう説得された。堕胎したことを中の栗無しモンブランで伝えて、姿を眩ました。そういうことですか?」
わらびさんが志村様の行方について話を戻し、大まかな内容を整理した。
「志村様は、森下様が既婚者であることまでは知っていても、子供がいたことは知らなかったんじゃないかな。お互いの子供のためにも、何て言われたら……ね。洋酒無しのケーキを買っていた期間からしても、志村様は妊娠初期。体への負担も金銭的な負担も、まだ軽くて済む。堕胎費用はこちらで出すから、今後一切、夫との関係を断ち切ってくれ、という形で決着が着いたんじゃないかな。
森下様の奥様は、森下様の様子からしても、不倫については何も問い詰めなかったんだろうね。まだ小さい子供に、夫婦仲の不和を感じさせないよう、努めてきたんじゃないかな」
小豆田さんは苦い表情をしていたけれど、声は優しかった。森下様の奥様の気持ちを思うと、堕胎させたことを責めたりはできないのだろう。
志村様は、わらびさんが『FUKUSHI』に来た時から通ってくださっている。つまり、一年以上は関係が続いている。
結婚した相手が、子供までいる相手が、他の女と不倫していたのを、黙って、気付いていないフリをして、何年もやり過ごしていたのだとしたら……。きっと志村様も、抵抗も反発も悪あがきも、できなかったに違いない。
「ま、ぜーんぶ僕の想像、いや、妄想だけどね」
場を和ませようと明るい声を出しながら両手のひらを上に向けて左右に広げて、冗談をアピールするようなポーズを取る彼に、聞いてみた。
「森下様にも、同じことを告げたんですか?」
彼の嘘っぽい笑顔は、一瞬凍った。
少しの間視線を斜め上に投げて、そして下に下げた。それと同時に、また笑みが消えた。再び視線が合う。
「……僕の妄想がもし当たっていたら、肯定しなくていいから、志村様と奥様と二人の子供に、一生贖罪の気持ちを持て」
昏い目が、こちらを見ている。それは一瞬で、パッと消えた。
「そう言っておいた。あ、勿論こんな乱暴な言い方はしてないよ。あと、もしまた森下様が来ても、他のお客様と同じように接客すること。いいね?」
彼の顔から、誤魔化すように、笑みが零れた。
「さぁさぁ、僕の妄想をいつまでも聞いてないで、開店準備するよ」
空気を入れ替えるように、パンと手を叩いた。
俯いていたわらびさんに、「お前が聞いたんだろ。切り替えろ」と柏森さんが声をかける。「男女の関係なんて、やっぱりゴミです」と口を尖らせる彼女のぼやきを「そうだな」と軽く流して、売り場までわらびさんを送っていた。私もその後をついていく。
一度振り返って、一人厨房に入る小豆田さんを見た。
昨夜森下様と二人で店内にいたであろう彼は、あの目の、そこはかとない怒りを、隠しきることはできたのだろうか。
彼が渋々話してくれたのは多分、森下様は、もううちには来ないと思っているからだろう。
多分小豆田さんの想像は、合っている。細かい部分は違っていたとしても、おおむね合っている。
違っていたなら、彼の話が途中で森下様に否定されていなければならない。
しかし彼は、最後まで想像を話した。それを森下様は否定しなかった。
だから最後に彼は、『僕の妄想がもし当たっていたら』なんて前置きをして、森下様に告げたのだろう。森下様の、刑罰では処されない罪について。
『FUKUSHI』は、とても感じの良い常連の志村様と、もしかしたら今後もご愛顧いただけていたかもしれない森下様、二人のお客様を失った。志村様はもう二度とうちには来ないだろうし、森下様も、店員に不貞がバレたとなれば、足を運びにくいはずだ。そして、何かでうちの評判を知って訪れてくれたかもしれない森下様の奥様も、うちには来ない気がした。夫が不倫相手とどう過ごしていたのかを、どこまで知っているのかは全くわからないが。でもやっぱり、森下様がうちのケーキを志村様と食べていたことも、知っているのではないかと思った。そこまでは知っていなかったとしても、森下様が持ち帰ったフレーズシャンティで、バレたのではないだろうか。夫が不倫相手と食べていた店のケーキなんて、絶対に、もう二度と食べないだろう。
それでも。
中の栗無しモンブランと三つのフレーズシャンティを手渡したのは、小豆田さんだ。
きっと彼は、その時に言ったはずだ。
『新しい幸福が、訪れますように』
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