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緋色の花⑦
2
「遅刻よ」
彼女の腕時計の長針は約束の時刻より三分過ぎていた。
先に席に着いていた珠莉がムッとした表情で見上げてくる。小柄な彼女が椅子に座った状態でそうすると、自然と上目遣いになる。
大きな目、上を向いた長い睫毛、小鹿みたいな足、ほんのりバラ色に染まった頬、ウェービーロングヘア。小さくて、守りたくなる、可愛いを詰め込んだような彼女は、「女王様のティールーム」の名がついたカフェがよく似合っている。お嬢様学校で知られている、汀女子中学校の一年生。教養は桜ノ宮の生徒に劣らない。なのに性格は勝ち気で、黙っていればお姫様なのに、出会った頃から桜ノ宮生に物怖じせず言葉を返す。
「悪ィ。ちょっと捕まってた」
「蓮を捕まえる人なんているのかしら」
「こう見えて人気者なんだよ」
「それより、桜ノ宮の生徒がこんな頻繁に放課後に外に出て来ていいの?」
「敷地内に居る方がダルいし、外出届はちゃんと出してるから、規則には反してない」
「意外と真面目なのね」
「行方不明になったって家に連絡入れられる方が、よっぽど面倒だからな」
親父が俺を侮蔑する視線と諦め交じりで叱咤する顔が目に浮かぶ。
「相変わらず、桜ノ宮に通うお坊ちゃんのクセに、反抗期真っ盛りね」
「その言い方やめろよ」
珠莉は口元を軽く押さえながら笑う。そういうちょっとした仕草で、心臓がつつかれる。
彼女とこうして過ごすようになって、一カ月近くになるだろうか。
最初に声を掛けてきたのは彼女の方だった。
――あの、先日はハンカチを拾ってくださって、ありがとうございました。
ちょうど、この『Salon de thé de la Reine』に入れ違いで入退店する時だった。
通り過ぎざま、彼女がそう声を掛けてきた。
そのハンカチは父親からもらい、母親がイニシャルの刺繍を施してくれた大切な物だそうだ。
俺を見ながら、再会したという喜びの他に、何か期待の混じった眼差しを向けられていた。キラキラ光るその目は、思春期の一番淡くて貴重な感情を表しているように見えた。
――人違いじゃね?
全く身に覚えが無かったし、目の前の小柄な彼女も初めて見た。
――つーか、それって逆ナン?
初対面だったけれど、理想のお姫様を具現化したような彼女に、きっと一瞬で心を掴まれた。
彼女の顔は見る見るうちに衝撃、羞恥、怒りの感情に染まり、ほんのり赤くなった顔で、
――ただの人違いでした! 呼び止めてしまって失礼したわね!
そう言い返して、踵を返して足早に店を出て行った。
お姫様然とした雰囲気をぶち壊す物言いが、可愛らしかった。
汀中の濃紺のジャンパースカートとウェービーロングヘアを揺らす後ろ姿を眺めながら、また会いたいと思った。
同じ場所に同じくらいの時間に来たら会えるかもしれないなんて思って来てみたら、案の定彼女はここにいた。俺の顔を見るなり嫌そうに顔を歪めていた。
何度も会ううちに、恋人にまでなったわけだけど。
寮生活で親元を離れていても、学校では一つ上の兄貴の存在がいつだってすぐそこにあった俺にとって、珠莉と過ごす時間は安らぎを得られた。矢切家の次男でも、兄貴の弟でもなく、矢切蓮としていられる瞬間だ。
向かい側の席に座ると、彼女は思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日二年生と合同の茶道の授業があって、花園麗華先輩という方がいらっしゃったの。桜錦家と所縁のある花園家かと思ったけど、だとしたら桜ノ宮に通ってるはずよね?」
桜錦家は旧財閥一族だ。今でも日本経済に多大な影響をもたらしている。
花園家は茶道の家元。現当主は公華さんで、桜錦家の末娘、万李子さんと結婚している。二人の間に生まれた跡取りの栄華は、現在桜ノ宮学園初等部四年だ。
麗華という娘は、公華さんの姉、美華さんの子供だろう。美華さんが当主になるはずだったが、とある男性を追いかけて家を飛び出したという。結局彼女の恋は上手くいかず、自殺したと噂で聞いた。その男性との子供なのか、別の男性との間にできたのか、残った子供が花園家に引き取られたとも聞いた。美華さんの行動は許されるものではなく、一族の恥を隠すように、その子供とは会わせてもらったことがない。栄華は口外を固く禁じられているのか、頑なに口を閉ざしている。従兄弟妹の中で美華さんの血を引いた子供がどうしているのか、栄華以外知っている者はいない。桜ノ宮にはいないようだったけれど、汀に通っていたのか。
「……別の花園さんなんじゃねーの?」
珠莉の一言で、親族の謎の一つが確信に近い答えに辿り着いた。しかし、それを口にするわけにはいかなかった。
「そうね。花園って苗字だけで判断するなんて、安直よね。ご子息ご令嬢のお名前も存じ上げないのに」
そう言って、花弁のような小さな口を一度閉じる。
珠莉にこんな嘘を吐くのは、あと何回あるだろう。
俺達はまだ中学生だ。結婚なんて、まだまだ先の話だ。
だが、父の理人は、桜錦家の李緒と結婚したため、俺は桜錦の血を引いている。次男であっても、跡取りでなくても、人生に期待されていなくても、それなりに生きる道は制限される。
美華さんの件以来、親達の間で子供の相手について、より一層注意を払っているのも事実だ。
従兄弟妹の中で一番仲がいい、二学年上の久弥は、桜ノ宮の高等部には通わず、別の私立高校に通っている。高等部に進学する学力は十分過ぎるほど足りていたのに。
長男ではないというだけで桜錦家の頭首になれなかった李樹也さんも、女というだけで自社のトップに立たせてもらえず、第一子まで流産して肩身の狭い思いをしてきた弥生さんも、久弥だけが希望のように、彼に心血を注いできた。なのに、「別の世界を見てみたくなった」と、これまで両親の大き過ぎる期待に応えようとしていた彼にしてはらしくない答えと、だからこそ納得してしまう理由で、桜ノ宮の高等部へは進学しなかった。
しかし、これはご法度だ。久弥が高校生になってから、篁家は親族会を欠席している。
自分の生きる現実をまざまざと見せつけられた気がした。
桜錦と繋がりがある限り、暗黙のうちに定められた道から外れてはならない。
跡取りではなくても、進むべき道の正解と不正解は決まっている。
どんなに言動がその道から外れていても、人生的な道が間違っていなければセーフだ。
それはこれまでの俺の人生で証明されている。
汀に通う珠莉は、家柄も知性も品格も、何も問題無い。唯一勝ち気な性格が心配だが、どうせ親父は兄貴の将来の相手を深く気に掛けるに決まっているし、桜錦の義兄姉弟妹達に恥じない相手だとわかれば、問題視しないだろう。
矢切家の真の権力者である母親も、よほどのことがない限り自由にさせてくれる。
あとは、こんな仰々しく面倒な親族・親子関係がある俺と、珠莉はそれでも一緒に居たいと思うのか……。
俺と居るのを望むということは、首という首に枷を取り付けられることを意味するのだから。
「どうしたの? 珍しく難しい顔して」
珠莉に言われ、何度考えたかわからない己の小さな人生から、一時離脱する。
「大したことじゃねーよ」
「蓮でも難しいこと考えるのね」
「これでも一年の頃から学年トップの成績なんだけどな」
どんなに順位で一の数字を取ろうと、総合点は兄貴より低い。三年生の結果はまだわからないけれど、残りのテストでも越えられないだろう。
「それ本当の話なの? 蓮の作り話なんじゃないの?」
「そこまで話盛るかよ」
肩を小さく揺らしながら、笑う珠莉。軽口を言えるくらいには、心を許し合っている。
「珠莉に渡すプレゼント考えてた」
「あら、誕生日でもクリスマスでもないのにプレゼントだなんて」
「何か欲しい物ある?」
「相手が何をもらって喜ぶかを考えるのがプレゼントしょう? 自分で考えなさいよ」
「そんな手厳しいこと言うなよ」
もし婚約指輪を渡されたらどうするつもりなのだろう。
勿論、そんな物をあげる勇気も覚悟も、無いのだけれど。
放課後は夕食の前だから、とアフタヌーンティーではなく、スコーンを注文することが多い。一つの皿に二つ載ったスコーンを、二人で一つずつ食べる。珠莉の紅茶はローズティー。彼女がティータイムを楽しむ姿は、フランスのお姫様のように優美だ。
「ねぇ、来た時に捕まってたって言ってたけど、いったい誰に捕まってたの?」
スコーンを上下半分に千切り、クロテッドクリームを塗っていた。優雅な手つきだ。
だが、向けられる視線は鋭利だった。
「花屋の店員。男」
「蓮が花屋? 花、嫌いでしょ?」
「あんまよく見ねーで入っちまったの」
珠莉はふぅん、と疑いの目を向けながら、スコーンを飲み込み、カップに口を付けた。
「男だって。女じゃねーから」
「本当は桜ノ宮の女子生徒に捕まってたんじゃないの?」
「皆俺より兄貴に夢中だって」
俺達は見た目が似ているけれど、兄貴の方が少し背は高いし、顔立ちも品がある。微笑を浮かべていれば、それはもう俺なんかより正当な王子だった。
「お兄さんにフラれた人が蓮に寄って来るかもしれないじゃない」
「まぁ、無くはないな」
キッと睨みつけられる。
「兄貴の代用品になんてならねーよ」
「お兄さんじゃなくて、最初から蓮を好きなコもいるかもしれない」
「さぁ? それはどうなんだろうな」
そんなの、俺の知ったことでは無い。
「従妹で仲のいい女の子もいるって言ってたじゃない」
「瑠依のこと? アイツはただの従妹だって」
事実を述べただけなのに、珠莉は不愉快そうに口の端を下げた。
「蓮は私の王子様よ。私だけの王子様なの」
大きな瞳が上に向けられる。それによってできた下の白い余白に、光るものが混じっていた。
「そうだよ。俺は珠莉のもの。珠莉だけのもの」
余計な心配をする珠莉を安心させるように、声を落として、できるだけ優しく言葉を紡いだ。
相手に寄り添いたいと、自分ではない他人を大切にしたいと想う気持ちがやさしさと言うならば、俺にやさしさを教えてくれたのは、間違いなく珠莉だ。
「そんなの愚問だって」
身近な人間を嫌悪し続けて、自分自身も嫌悪してきた俺が、他人に好意を抱くなんて思ってもいなかった。やさしくなりたいと思うなんて、無縁の人生だと思っていた。
「……わかってるならいいのよ」
「何でそんな心配するわけ」
「……私は、桜ノ宮の人間じゃないから」
汀だって、お嬢様学校だ。
だが、桜ノ宮はその何倍も格があるとされている。桜錦家とその縁戚の人間が代々通っているからだろう。それに、桜ノ宮は少し異質だ。中高は全寮制。ヨーロッパの寄宿学校のようなものだと言えば聞こえはいい。だが、その裏には、同等の格を持った人間とだけ関わり、外界からの悪影響を受けないようにするため、という目的があるのではないかと、俺は考えている。
まさに、白鳥のための鳥籠だ。
俺はカラスだけど。
「……高校は桜ノ宮の高等部を受験しようかしら。白川女子の高等部か明条高校を考えていたけど、今から頑張れば、受かる可能性だってあるわよね」
基本は幼稚舎、遅くても初等部で大半の生徒が入学する。稀に中学、高校、大学進学のタイミングで、外部受験合格者が少数入学する時があるが、それは非常に珍しい。幼い頃より英才教育を受けた人物しか、受験に受からないし、高い学費を払えないと入学できないからだ。
桜ノ宮を受験するにしても、珠莉の家柄的には十分だ。勉強も、彼女の言う通り今から対策しておけば、汀なら受かる可能性はある。
「珠莉が桜ノ宮に来たら、高校の一年間だけは一緒に過ごせるな」
正直、異質な桜ノ宮を全面的にオススメはできないけれど。
しかし、珠莉との学園生活も夢見てしまう。
二学年差があるから、高等部で共に過ごせるのはたった一年だけれど。
「それに、蓮はわかってないのよ。自分の魅力を」
「へー、俺の魅力って何?」
笑みを隠す気なんてなかった。珠莉の口から、その内容が聞けるなら。
「それを聞く前に、私を不安にさせたことへのお詫びをしなさいよ」
「乱暴なお姫様だな」
「三分でも遅刻は遅刻よ。花屋だなんて噓まで言って。もっとマシなこと言いなさいよ」
「花屋は本当だって」
咎めるような目を向けられる。
仕方がない。花が嫌いなのは珠莉もすでに知っている。信じられないのも当然だ。
これまで、他の花は綺麗な環境で育ってそれに見合う美しい花を咲かせるのに、自分は泥水を吸うだけなのだと思っていた。ハスがきちんと花を、しかも美しい花を咲かせるのだと、今日初めて知った。
あのお気楽な店員の顔を思い出す。
まさかこんな事態になるなんて思いもしなかったけれど。
「親父からの電話でイラついてたから、気持ち落ち着かせるために適当に寄り道しただけだよ」
「花屋であると気付かずにお店に入るだなんて、よほど周りが見えていなかったのね」
彼女の言葉は擁護ではない。不満そうな目がそう告げている。
これは本当に、詫びの品でも考えた方がよさそうだ。
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