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緋色の花④

     

 全ての授業を終え、一度寮に戻って服を着替える。制服のまま外に出ると誘拐される恐れがあるから、必ず私服に着替えるのが桜ノ宮の常識らしい。護身で武道を習う人もいるくらいだ。蓮は柔道をやっているらしい。
 頭にこれから赴く場所の光景を思い浮かべる。
 それに不釣り合いの、ジーンズ生地の短パンを穿く。トップスもカジュアルな物を選ぶ。可愛らしい服装をしても、何の意味も無い。ただ惨めな気持ちになるだけだ。以前一度だけ穿いたシフォン素材のスカートは、それに気付いてから一切穿いていない。
 外出届を出してから女子寮の前で待っていた蓮と合流して、学園の敷地から出た。

 広々とした店内、クラシカルな色調のソファと椅子、無駄な色彩を排除するかのような白い壁と天井と、シャンデリアのような照明。名前もわからないクラシックが静かに響く。そんな、お姫様がティータイムを楽しむようなカフェに、蓮と向かい合って座っている。
 まるで、デートだ。
 ティーカップの取手を摘まむように持ち、ゆっくりと紅茶を飲む蓮。大きな目が軽く閉じられる。こうしていると、普段は彼の言動で台無しになっている端整な顔立ちが、よく映える。
 初めてこの店に来た時、『Salonサロン de thé de la Reineレーヌ』の読み方がわからず、小声で模索していたあたしに、読みと、フランス語であることと、「女王様のティールーム」という意味であることをサラサラ解説してきた時も、育ってきた環境の違いを思い知らされた。
 ティーカップを置いた蓮が口を開く。
「なぁ、アレ、食わねーの?」
 蓮の言うアレとは、マリーアントワネットが愛したお菓子を揃えたアフタヌーンティーだ。イチゴのシャルロット、クグロフ、クッキーなどの焼き菓子。それらが小花柄の食器に載せられて、セットのローズティーには、食用のバラの花びらが浮かべられているのだとか。
「食べない」
 彼の質問に、苛立ちを込めて返答した。
 ここに来たのは、何度目だろうか。出逢って間もないのに、毎日のように来ている。
「じゃあ、スコーン一つずつ食べたかったんだけど」
「しないって」
 モンブランにフォークを突き立てた。そのまま口へ運ぶ。サクサクのメレンゲクッキー、細い糸を重ねたような和栗のクリーム、その中に包まれた生クリーム。三つの異なったハーモニーが口内で広がる。
 甘い、甘い、甘い。上品な甘さだけど、店の雰囲気、流れる音楽、綺麗に整ったスイーツ、そして目の前の蓮。ここにある全てによって、甘さが何倍にも増していく。やがてそれはドロドロと混ざり合って、胸やけのような憤懣ふんまんへと変貌する。あたしには絶対不釣り合いの甘さに耐えきれなくなって、紅茶を流し込んだ。
 対する蓮はフォレノワールにフォークを通して不満そうに口に運んでいた。
「スコーン食べたいならスコーンにすればよかったのに」
ちげェんだよ。一人でスコーン食いたいわけじゃねーの」
 完全に嫌味で言ったのに、真面目に返されると、余計に腹が立つ。

 初めてここへ来た時は、あたしだって、まるでお姫様になった気分だった。カジュアルな服を着て来たのを後悔したくらいだ。
 蓮のこと、嫌いではなかった。
 あたしなんかが通うべきではない学園で、何もかもが違う同級生達と居ることに、窮屈さがあった。皆親切だったが、洗練された言葉使い、仕草、振る舞い、純潔さ、その全てが、自分という人間を居辛くさせた。
 不躾な態度に嫌悪感が無かったと言えば嘘になるが、蓮の振る舞いは、桜ノ宮の生徒の中で、一番接するのに気が楽だった。何でも言えた。どんな態度でも取れた。互いに我儘をぶつけ合うようなやり取りが、いつしか楽しくなっていた。
 そんな蓮が連れて来てくれた、お姫様の行きつけのようなカフェ。
 平凡な中一が、休息の一時ひとときを彩るのに、こんな夢のような空間、初めて見るに決まっていた。
 目の前の蓮も、王子様に見えたくらいだ。
 それなのに。
 初めて来た時、当然のようにアフタヌーンティーを注文されそうになった。
 まるで、これしかないだろ、とでも言うように。
 そこで、奇妙な違和感……確信に近い疑念を抱いた。
 彼は、普段ここへは別の女の子と来ているのではないか?
 その女の子が、このアフタヌーンティーを注文するのではないか?
 彼にはそういう仲である女の子、つまり――彼女がいるのではないか?
 その疑念は、あながち間違いではないかもしれないと、二回目に来て、皿に二つ載ったスコーンを一つずつ食べた時に感じた。
 アフタヌーンティーを断ったら不満そうな顔をしたクセに、スコーンを一つずつ食べた時は嬉しそうに笑っていた。そして、誰かとの思い出に浸るような遠い目で、優しく微笑んでいた。
 あの時確実に、一緒にスコーンを食べたあたしを通して、別の人物を思い浮かべていた。
 あのカフェに行くならカジュアルな服装はやめようと、一回目に来た時に感じた疑念は気のせいだったことにして、シフォン素材のスカートを穿いて行った時の出来事だ。柄にもなくオシャレしたのを後悔した。机の下で握り締めたスカートの柔らかさすら忌々しかった。

 あたしは、誰かの代用品にされている。
 一瞬でも、あたしは彼にとって特別な人なのかと思ったのが悔しくて、惨めで、何度も頬を叩いてやろうかと思った。
が、毎回理性がそれを食い止める。
「なぁ、何で怒ってんの?」
「……別に、怒ってない」
 あたしにも非はある。
 彼はあたしにそういう興味は無いとわかりながらも、結局こうしてついて来ているのだから。
 嫌ならどんなに強引に誘われても行かなければいい。すっぽかしてしまえばいい。
 けれど、一縷いちるの望みに賭けてみたかった。
 彼は大した用事も無いのにあたしのクラスにやって来て、とりとめもない会話をしたり、こうして出掛けに誘ってくる。
 あたしじゃなくてはいけない理由があるのかもしれない。
 このまま、この座をあたしのものにできるかもしれない。
 そんな卑怯な思惑が一ミリも無いとは、言えないのだから。
「じゃ、次来た時な」
 それでも、当然のように「次」の話をする彼は、やはり憎い。
「彼女いるクセに」
「……居ねーよ」
 だったら、そんな微妙なを空けて言うな。見え透いた嘘を言う彼を責めるように続ける。
「蓮があたしに隠してること教えてくれたら、考えてあげる」
 そもそも、不可解過ぎる。
 彼は性別も年齢も超えて相手と話せるだけのコミュニケーション能力がある。桜ノ宮で一目いちもく置かれるだけの家柄の人でもある。黙っていれば容姿だって、見惚れてしまうくらいには良い。一緒に居る相手など選んでは捨てられる立場にいる。
 わざわざ下級生の何の後ろ盾もないあたしを、こうして何度も連れ回す必要なんて無い。前の学校の制服の件を面白がっているのなら、それはとっくに終わった話だ。
 彼の陰に隠れている別の女の子の代わりが、あたしでないと駄目だと言うのなら、その理由が知りたかった。
「それを言うなら、紗羅もだろ」
 ドクリと心臓が鳴る。
 あたしが意地の悪い言い方をしたのにも一切動じず、フォークの先を向けて、咎めるように彼は続けた。
「お前、長崎県一家無理心中事件の生き残りだよな」

 何の変哲もない、いつも通りの夕食になるはずだった。
 父と母が並んで座り、その向かい側に、あたしは座る。
 母が熱心に父に話し掛け、父は何も答えずに箸を進める。時折向けられる父と母からの視線に気付かないフリをして、あたしも黙々と箸を進めた。いつもと変わらぬ風景。
 の、はずだった。
 これが、家族の最後の晩餐になった。
 突然血を吐き苦しむ両親。
 口に手を当て、咳をするように血を何度も吐き出した。喉を掴んで苦しそうに身体を曲げる。
 机の食器が倒れる。味噌汁が床に落ちてビチャビチャと跳ねる。酢の物の匂いよりも血の匂いが充満していった。白いご飯は真っ赤に染まり、血まみれのハンバーグは肉塊のようだった。
 動かなくなった両親を視界の端に映しながら、あたしは必死で電話に手を伸ばし、途切れ途切れの声で救急車を呼んだ。
 キッチンから母が常用していた薬が発見され、母親が犯人の事件として捜査が行われた。母に何か変わった様子はなかったかと聞かれたが、いつからか夫婦仲がどこか冷めているようだった、くらいしか思い浮かばなかった。父の浮気が疑われたが、そのような相手も見つからず、夫婦喧嘩で一家無理心中を図った、という陳腐な結論が出され、事件に終止符が打たれた。
 大きくニュースなることもなく、地方紙に「毒で一家無理心中し、子供だけが助かった」とだけ記されていた。その後も、事件の追加情報は何も報道されていない。とても小さな記事で、子供の年齢も様子も何も記載がなく、生き残った子供――あたしへの配慮が徹底されていた。
 中学生という、これから親子関係を築くには難があり、養育費もかかり、さらに事件の生き残りという厄介な事情まで抱えたあたしを、引き取りたいと名乗り出る親族は現れなかった。もともと深い交流があったわけでもなく、むしろ疎遠だったから当然だ。長崎県内の施設にでも入れられると思っていたのに、東京の桜ノ宮学園へ行かないかと持ち掛けられた。
 幼稚舎から大学までの一貫校であるこの学園には、お金持ちの子供達ばかりが通っている。学力よりもまず先に、お金が必要なはず。
 親族からは、お金のことは気にしなくていいから、と転校試験を受けるように勧められた。受けるだけ受けてみたら、合格通知が届いた。最初に言われた通り、親族全員何も渋る様子も無く、喜んでこの学園に送られた。
 あたしが知らないだけでお金持ちの親族が居たのか、それとも無理矢理にでもお金をかき集めたのか、真相はわからない。
 中等部高等部は全寮制で、入学さえできてしまえば住まいは要らない。
 要は、厄介払いされたのだ。
 温室育ちで綺麗なものしか知らない子供達を、外界の汚れから遮断するような、閉鎖的なこの学園に。あたしが試験に合格しなかったら、親族達はいったいどこにあたしを隔離するつもりだったのだろう。

 この一連の出来事を、不幸だとは思わない。
 常に遠慮と余所余所よそよそしさを漂わせながら私生活を送る方が苦痛だし、事件を詮索する人がいない方が、気が楽だった。
 同意のもとで桜ノ宮に来たし、事故で両親を亡くした人、という方が、扱われ方が楽だから、家庭事情も誤魔化した。
 なのになぜ彼が、あたしが一家無理心中事件の生き残りだと知っているのか。
「……両親を事故で亡くしたから、っていう話になってるはずなんだけど」
「どうしてわざわざ長崎から桜ノ宮に転校してきたんだよ」
「話聞けよ」
「俺の台詞」
 警戒するあたしとは反対に、蓮の声は好奇心ではなく、微かな怒気を孕んでいた。
 一度、聞こえるように深いため息を吐いた。
「そう。一家無理心中事件の生き残り。親族に引き取り手がいなくて、意地でもあたしと縁を切りたかったようで、桜ノ宮に転校することになったの」
「……ふーん」
 頬杖をつきながら、一切の表情無く見つめてくる。まるで、真実を探り出すかのように。
 ……居心地が悪い。
「……蓮はどうしてこのこと知ってるの」
「親の職業柄」
「……まさか、警察?」
「それは違うから安心しろヽヽヽヽ
 彼の口元に見慣れた三日月が浮かぶ。
 その一言で、なんとなく、蓮にはあたしの秘密が一つヽヽ、バレている気がした。
 それでも言及して来ないのは、優しさなのか、無関心なのか。嬉しさとどこか寂しい気持ちが、胸の中を渦巻いた。
「蓮って、あの学園の何なの? そんなに偉い人なの?」
「俺は偉くもないし、親族関係でお零れもらってるだけだよ。まぁ――」
 一度言葉を区切る。こちらが促すよりも前に、言葉が紡がれた。
「今はまだ、何も知らないヽヽヽヽヽヽままでいてくれよ」
 彼に似つかわしくない孤独が漂うその笑みに、あたしはそれ以上踏み込めなかった。
「俺は紗羅と、こういうどこにでもあるような風景で居たいんだよ」
 そう言って、再びフォレノワールを口に運び始める。黒いココアのスポンジを隠すように白い生クリームが付いている。まるで、からぬ行いを偽りの潔白で覆い隠しているように。
「……じゃあ、他の女のこと考えながらあたしと一緒に居るの、やめたら?」
「だから、考えてねーって!」
 先ほどよりも、強く否定する。彼の大きな目は、感情をはっきりと主張する。疑惑が晴れず、不服を示していた。
「違うんだよ。そういうのじゃねーっつーの」
 自分に言い聞かせるように、呟いた。片手で頭を押さえて俯いている。思い悩むような姿を見せられても、形だけのポージングにしか見えない。
 何が違って、何がそういうの、を指しているのか。他の女を何とも思っていないのか、それともあたしを何とも思っていないのか。どちらにしても、最悪な憶測しか立たない。
 今の自分の思考回路で、彼への信頼の無さと、彼との心の距離を実感した。苦笑が零れる。
「蓮は、何であたしとこうして居るの?」
 彼の口だけの根拠の無い否定を聞くより、遥かに真実が見える質問だと思った。
 いくらでも口が回る彼には効果的ではないかもしれないけれど、どれだけ嘘を見破れるか、試してみたかった。少しでも、彼を信じない方に、天秤を大きく傾けたかった。彼があたしに振り向いてはくれないのだとはっきりわかれば、こんな気持ちになる必要も無い。
 どんな甘い毒を囁かれたとしても、惑わされまいと気を引き締める。
だが、紡がれた言葉は予想外のものだった。
「見張ってないと、死にそうだから」
 耳を疑った。あたしが、死ぬ? 見張ってないと、とは、不慮の事故で死ぬわけではなく、自ら命を絶とうとしているように見えると言うのか。
「馬鹿なの?」
 一切の躊躇いなく放たれた言葉と、自分は正しいのだと言うように動じない目を見返した。
「あたしはあたしを自分で諦めたりなんかしない。あたしの平和を脅かす人がいたら、ソイツを許さない」

   

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