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波紋〜ただ、それだけだった。〜⑤

    
 学校ではね、息の詰まるような瞬間があった。
 いじめは、陽太と一緒にいるようになってから、陰湿さが増してたから。
 人の目に留まるような暴力はなくなったけれど、その分いかに巧妙に狙い撃つかってやり方に変わっていたんだ。ある時はお弁当を盗られていたり、ペンケースの中にカッターの刃を入れられていたり。ノートを千切られていたり、教科書に落書きをされることは変わらなかった。
 でも、前ほど痛みは感じなかった。だって、僕の世界には、明るく照らしてくれる、太陽が現れたから。
 だから、例え何をされたとしても、耐えられた。
 むしろ、その状況を彼に知られる方が怖かった。こんなことをされている情けない自分の姿を、されるがままの惨めな姿を見られたくなかった。本当の自分は卑屈で根暗で、彼の思うような凄い能力を持った人でも彼の隣に居てもいいような立派な人でもなかったから。
 僕が、これを上手く隠して耐えたらいい。クラス替えの時まで……、いや、もしかしたら高校進学までかかっていたかもしれない。けど、とにかく、少しの辛抱だと、そう思っていた。
 どうして人生って、上手くいかないんだろうね。自分がこうなってほしくないと願えば願うほど、進んでほしくない方向に転がり落ちていく。

 三学期の出来事だった。年明けの席替えで、僕と陽太は前後の席になったんだ。一番窓際の列の、前から二番目が陽太で、その後ろが僕。この席順になった時、僕は心の中で手を上げて喜んだよ。
 だけど同時に、陽太に僕の置かれている状況を知られないようにするのに必死だった。
 いつバレるかとヒヤヒヤしながら、ペンケースの中に入れられた刃物を取り除いて、慎重にノートを開いて、弁当が無くなっていた時には平静を装って購買に行った。
 でも、そんな誤魔化しは長く続かなかったんだ。
「陸、ちょっと教科書貸してくれないか? 忘れちゃって……。後で隣のクラスで借りて来るけど、その前に見ておきたいページがあって」そんなことを言って、返事も待たずに、彼は机に置いてあった僕の数学の教科書に手を伸ばした。慌てた僕は教科書を取ろうとして、そのまま弾いて落としてしまったんだ。その拍子にページが捲れて……。その一瞬を、陽太は見逃さなかった。彼よりも先に教科書を取ろうとしたけれど、残念ながら陽太が早かった。僕は反射神経まで全く無いだなんて、もう笑っちゃうよね。
 ここで僕が先に教科書を拾えてたら、少しは違う未来になっていたかもしれないのに。
 虚しく宙に浮いた手を引っ込めて、恐る恐る彼の顔色を伺った。彼は教科書をパラパラと捲り、中を確認すると、氷付いた表情で呟いた。「何だよ……これ」僕に向けられた言葉なのか、一人言なのか判断はつかなかった。どちらにせよ、僕はその言葉に答えられなかった。彼が僕を見る。その視線から逃れるようにして、目を逸らした。とても、直視出来なかった。「陸、これ」いつもより低いトーンの声で語り掛けられた。
 知られたくなかった。陽太には。だけど、ついに知られてしまった。
 何て答えたらいいかわからず、目を逸らしたまま黙るしかなかった。
「おい! 誰だよ、こんなことした奴!」次に彼は教室にいるクラスメイトに向かって叫んだ。その声は室内のざわめきを消すには十分な音量で、その場にいた全員が陽太を見た。そして彼は、「次こんなことしたら許さないからな!」って言い放った。
 彼があんな風に、僕に向けられた悪意を跳ね返そうとしてくれたのは、今思い返しても嬉しいよ。皆の前で、嫌われ者を助けようとするなんて、並大抵の覚悟じゃできない。いったいどれほどの勇気が必要だったんだろうと、今でも思うよ。
 でも、僕は彼にそうさせるべきではなかった。
 彼の行動を止めるべきだったし、あの時にちゃんと罪悪感を持つべきだった。
 その日は、それだけで何事も無く終わった。事件が起きたのは、翌日だった。
 朝教室に入ると、陽太が机をこするような仕草をしていた。近付いて声を掛けると、彼は慌ててタオルで机を隠した。その様子に違和感を覚えて、何を隠したのか問いただした。「別に、何も」そう言って誤魔化そうとするところが、余計に不自然だった。僕は無理矢理彼を押し退けて、隠していたものを見た。
 薄くなっていたけれど、僕の教科書やノートに書かれる言葉の類いが、そこにあった。陽太を見ると、顔を歪めて僕と目が合わないように視線を逸らした。どこからか、クスクスと押し殺した笑い声が聞こえる。その人達が誰だか、僕にはすぐわかった。
 もう、それ以上のものは不要だった。
 自分がその時どうしたのか、詳しくは覚えてない。気付いたら弾かれたみたいに身体が動いていて、奴等に飛びかかっていた。こんな力が自分の中にあったのかと思うくらいに、相手を殴っていたんだ。
 あぁ、そんな顔しないでよ。確かに、僕は自分の手で生身の人間を殴った。でも、アイツ等はずっと僕をいじめていたんだ。これまでされたことを、やり返しただけだよ。
 いじめられていたことを、誰かに言えばよかった? 相談すればよかった? それで本当に、何もかも綺麗に解決するの? 事実を咎められたら、今度はそれが露呈しないように、もっと卑怯なやり方をしてくるに決まってる。
 七美にはわからないだろうけど、学校って、教室って、異常だよ。
 小さな箱の中にしか、自分の居場所が無いって錯覚するくらいには閉鎖的だし、誰かとつるんでいないと自分の価値がゼロに等しくなる。
 教えてもらえるのは勉学だけで、自分の唯一無二の能力は決して伸ばしてはくれない。出る杭は打たれて、他と統一される。まるでその能力が悪いみたいに。
 自らの思考も個性も何もかも切り取られて、指導者の思想と同じ形に変えられる。一日の半分以上を学校で過ごすんだから、その中で扱いやすいように組み替えられるのって、やっぱり仕方がないのかな。同じ形に作り変えられた中で疎外されるって、つまり、その人こそが、僕が、間違いなく異物なのかな。
 ……話を戻そう。アイツ等を殴っていた僕は周りにいた人達に取り押さえられた。女子生徒の切羽詰まった声と共に先生が駆け付けて、騒動は強制沈下させられた。
 でも、その時に僕へのいじめが事件の根本にあるとわかって、奴等は生徒指導の先生に酷く叱られたようだった。殴った僕も勿論注意は受けた。腑に落ちなかったけど。だからかな。御影の高等部じゃなくて、別の高校に行こうと思ったのは。
 それから幸いにもいじめはなくなったし、三年生のクラス替えでようやく僕は奴等から解放された。

   

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