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□国立競技場の歴史と新国立競技場問題

今更だけど国立競技場についてまとめてみました。
新国立の経緯はニュースで見たし、建築雑誌の記事も読んだ。
それでも世の中の人がザハを悪者にしたり隈さんを批判しているのに対して、きちんと説明できないのが悔しいので、自分なりに簡潔にまとめておきます。

…まずは前提として…

・江戸時代に青山家の大名屋敷があったこの地一帯は、明治維新以降の版籍奉還により朝廷に返還され、徴兵令により集めた兵の育成のため青山練兵場として使われた。

・1924年に嘉納治五郎(最近大河で役所広司が演ってる)の提案をきっかけに陸上競技場(明治神宮外苑競技場)として整備され、1958年アジア競技大会と国民体育大会の会場とするため建設省設計のもと国家予算により現在の国立霞ヶ関陸上競技場が建設された。
さらに1964年東京オリンピックメインスタジアムとしてスタンドの増築が行われ、収容能力は5万人となった。

・ちなみに同じ頃丹下健三による国立代々木競技場が建設されたが、こちらは東京オリンピック開催決定後に設計者選定から始まったため、1962年から設計を始めわずか20ヶ月で竣工させなければならなかった。

・1968年から天皇杯が開催、1976年から全国高校サッカー選手権が開催されるようになり、「国立」と言えば高校サッカーの聖地と見なされるようになった。

・2002年日韓W杯が開催されるも、FIFAの仕様(2/3以上の屋根)を満たさず候補から外された。
陸上競技場としても走行レーンの少なさやサブトラックの短さから現在の国際規格を満たさないため、2020年の東京オリンピックメインスタジアムとして生まれ変わるため解体されることになった。

・2009年時点ではメインスタジアムは晴海に新設される予定であったが、2011年に森喜朗を含む有識者会議により国立の改築案へと変更された。
改築にあたっては8万人収容の全天候型、コンサート利用、災害時の避難場所という3つの柱が軸とされた。
総工事費は1300億円と見込まれた。

・2012年夏にコンペ公募開始、募集要項は安藤忠雄を座長としてノーマンフォスターなどの海外勢も含む著名建築家11名が取りまとめ、わずか2ヶ月で46作品が集まった。
11月半ば最終結果が発表され、ザハが最優秀、コックスが優秀賞、SANAAと日建が入選した。
これほどまでに性急に事を進めた理由はIOCに開催を認めてもらえる案を決めるためであり、このコンペは実際に作る競技場の案を募るものではなかったとの見解もある。
またザハはあくまでもデザイン監修者であり、実施は日本の設計者が担当する形式となっていたこと、競技場所有者であるJSC(独立行政法人日本スポーツ振興センター)らも応募案が公募条件を逸脱していたことは理解していたものの事後修正すればいいと考えていたことが後に報道された。

・2015年夏に有識者会議にて総工事費2520億円のザハ案が承認されたが、その1週間後には安部首相による白紙撤回が表明された。
同年秋デザインビルド方式による再コンペが実施され、約1490億の隈さん案に決定された。

…ここから新国立問題について…

・そもそもなぜ改築することになったのか…
2016年東京五輪招致では晴海・夢の島を中心とした安藤案が描かれていたが、海風の影響や羽田空路に係る問題でIOC(国際オリンピック委員会)から却下された。
この時点でメインスタジアムの問題は一時据え置きされたが、3.11後にラグビーW杯開催が決定したことで国立の改築案が急激に浮上した。
そもそも3.11後の混乱状態(その後の急激な物価スライドも含め)にあった日本経済で1000億円規模のプロジェクトを進めるには無理があったとの意見もある。
だが災害復興の意味でも五輪招致の熱は高まった。

・デザインコンクールという形式について…
FUKUSHIMA後の風評被害払拭とともに「開かれた日本のアピール」という国側の要望により国際コンペとなったため、国内コンペより準備に手間取るのは当然のこと。
応募要項の雛形もなく、特殊なプログラムを複雑に組み合わせた上で地震に耐え得る建物にするには相当の検討期間が必要。
にも関わらず2020年五輪招致のIOCの〆切は間近に迫っていたため、まずはアイコンを決めるデザインコンクールが開催された。
これはデザイン監修者を選ぶ目的で行われ、通常の設計競技と異なり敷地条件や予算規模、設備等発注者側の与条件は整っておらず、インパクト重視のコンペであった。
デザイン監修者を募るコンペは世界的にも民間では多く行われてきたが、公共建築では責任の所在を明確にする必要があるため避けられていた。
応募条件にはプリツカー等国際的に認められていることが必須であり、限られた期間・条件の中で多くの案を募るため座長である安藤から直接建築家への働きかけもあったという。

・なぜザハが選ばれたのか…
ザハは与条件を無視したダイナミックな案(カタールスタジアムコンペの使い回し?)を提示したが、様々な観点からの評価が加えられ最優秀とされた。
JSCも当然それを承認した。
ザハのデザインの良し悪しは抜きにしても、実際にこの競技場イメージが東京五輪招致の大きな一手になったことは間違いない。
安藤忠雄もザハ(やゲーリー)のような複雑な三次曲面の建築が日本で実現することには大きな意味があると告げた。
しかしこの時の審査の不透明さがザハ案がメディアから批判される大きな要因となっている。
当初から現在のこじんまりした案で進めていた場合五輪招致は適わなかったのか、今となってはわからない。

・なぜ予算を大幅にオーバーしたのか…
デザイン監修者選定後、実施設計者として日建・日設・梓・アラップが選ばれた。
ここから各所調整、行政協議が行われ、おそらく大概算で建設費は予算の2倍以上に膨らんだ。
これには3つの要因が考えられる。

①日本でBIMの普及が遅れていたことで設計リスクや施工リスクが十分に予知しきれず数字が膨らんだこと。

②当初想定以上に3.11の影響で日本の建材費、人件費が跳ね上がっており物価スライドの見通しが立たなかったこと。

③29万平米で1300億円ということは坪単価130万円となる。
他国のオリンピックスタジアムに対して2,3倍の規模が求められ、開閉式屋根、可動式の座席、商業施設、ジム、博物館、災害対策の免震など過剰な設備が見込まれており、この応募条件ではそもそも納まらなかったのでは、ということ。

2年後の積算で予算の1.8倍程度に落ち着いたが、これがどこまで詰めた数字だったのかは定かでない。
他国でもコンペ時には大見得を切った絵を描き、その後の調整で規模を縮小するのはよくある話だそうで、ザハ側もロンドンオリンピックを受けてこうした流れは予測していたのではないかと思われる。
しかしJSCはザハ側の提示した更なるVE・CD案を仕様が違うと退けて審議せず、2520億円を承認した。
それは発注者側に国の決めた仕様の変更を審議できるだけの知識と能力と権力がなかったからではないだろうか。
だとすればそれで発注者と言えるのか。

・なぜザハが批判されるのか…
デザインが奇抜、施工が複雑、工事費が高すぎることからザハが批判されているが、ザハはあくまでデザイン監修者として選ばれたのでそれらの責任をとる立場にいない。
さらにザハ側は価格高騰を日本の業者選定とインフレの影響と弁明したが、これは紛れも無い事実である。
(ザハデザインの複雑さが影響していないとは言わないけれども。)
しかし日本のメディアとも企業とも利権の問題からJSC(とバックにいる国)を表立って批判することが出来なかったのではないか。
結果ザハは槍玉に挙げられ、プロジェクトから解放された後にザハとアラップという利権に囚われない海外勢だけがプロジェクトの進め方に対して声をあげた。
プロジェクトの白紙撤回はザハ側に正式通知されるより前にメディアで報道されたという。
そんなことは社会通念上あり得ない話だが、それが起きてしまう状況がまさにJSCがプロジェクトをコントロールする能力と権限を持っていなかったことの証明ではないか。

・なぜ白紙撤回されたのか…
デザインビルド方式となった再コンペには結局、伊東豊雄と隈研吾の2案しか応募されなかった。
スーゼネ、大手組織設計がタッグを組んだ(組まされた?)あの状況では多くの建築家が応募を断念せざるを得なかった。
しかも再コンペの2案は工事費や工期もほぼ同等の出来レースだったとの話も広く聞こえる。
旧計画でスタンドの工事契約を結び、すでに33億円分の資材発注をしていた大成が受注することはほぼ確定していたということで、新計画のスタンドの角度と柱位置は旧計画と完全に一致する。
しかしなぜそれが隈さんだったのかはわからないし、あの案を本当に隈さんが考えたのかどうかもわからない。
聖火台を作り忘れたのが隈さんなのかも…。
あえて言うならば、伊東豊雄と隈研吾のどちらが大人の事情を飲み込みやすいかと言ったら後者なのかなと思う程度で、結局のところ真偽は不明である。
ただ隈さんは後にリスクを背負ってでもやる価値のあるプロジェクトだったと語っている。
いずれにしても計画を白紙撤回したことで予算を圧迫する最大の要因であった開閉式屋根や8万人収容規模、博物館などオーバースペックであった仕様のほとんどが見直され、シンプルなスタジアムとなっている。
むしろこうすることでしか、仕様変更はできなかったのかもしれない。

…まとめてみて…

結論として今だに情報が錯乱していて、何が間違っていたのか、誰が悪いのか、どうあるべきだったのか明確な答えは見つけられませんでした。
上記には憶測に過ぎない意見や間違っている点も多くあるかもしれません。
ただ一つ言えるのはやはり、内藤廣が再三言っていたように震災後に混乱した情勢の中にも関わらずあまりにも時間がなさ過ぎたのでしょう。
それを上の人間がわかっていなかった。
日本でありがちな、筋道ある見通しを立てずにとりあえず広げてみた風呂敷をたためる人間がいなかったということ。
そして建築家は図面を描くことが仕事ではないのだから、顧客の要望をまとめて調整し形にする責任がある。
しかし顧客自身が自分の要望を理解できていなければ調整のしようもない。
ましてや国家プロジェクトの場合は政治的権力が働き個人の意見など無いに等しいのだから、単純にキーパーソンからヒアリングしてその意図を読み取ればよいという交渉力の話でもない。
どんなデザインをするにしても建築家は魔法使いではないのだから、顧客側、設計側、施工側各方面に然るべき決断や判断をする責任者が必要不可欠であるにも関わらず、今回顧客側に責任者が存在しなかったということ。
偏った報道をしたメディア(に圧力をかけた行政?)も、それを鵜呑みにした国民もそんな単純なことすら理解できなかったのかな。
個人的にはザハの遺作としてスタジアム建設が適わなかったことは残念でなりませんが、奇しくもザハの遺作である台湾の複合施設を日本企業が建設することになったことで、日本のゼネコンでもザハの建築が作れるんだということを証明して欲しいなと思います。

#国立 #新国立 #ザハ #建築家

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