社会の近さと社会の目
私はあと2ヶ月で30歳というタイミングで結婚した。友人たちも同じような歳に結婚をしているけれど、私はまだまだ先かなと思っていたのでびっくり。でも世間的には、田舎的には、ゆっくりなんだろうな。
田舎にいて20代後半となれば、きっとプライベートに迫る質問って浴びせられるだろう。でも、ありがたいことに「まだ結婚しないの?」「こどもがほしいならもうそろそろ考えなきゃね。」みたいなことを言われる環境に私はいなかった。
20代後半の女はこうあるべきという社会一般的な視線にさらされずに、のびのびと過ごせたことにより、自分というものが確立していた。
私は私、自分は自分と思える環境で、仕事に打ち込み、趣味や自分の時間を楽しんだ。
赤子が産まれてからはそれが一変した。赤子を抱っこ紐に入れてスーパーに行けば、今まで声をかけてこなかったような人たちが「かわいいね。何ヶ月?」と気軽に質問してくれる。この人たちにとって私はこの子の母親でしかなく、母という枠組みに入れて、母に対する一般的な質問をする。その会話はありがたいことでもあるけれど、私の中で母であることが大きくなり、私という存在が薄れていくような感覚。
この人は母親という視線を浴び、社会の目を感じるにつれ、母親としてこれは正解なのか不正解なのか、という判断まで迫り来る。まだ小さいのにこんなに連れ出してかわいそうとか、寒いのに靴下はいてないじゃないとかとか。良かれと思ってしたことでも気軽に「こうした方がいいんじゃない?」というアドバイス。それにより、『母としてこうあるべき』が段々と刷り込まれていく。
迫られた先にあるものは、世間一般的に良しとされる母親像だ。はたして、私はそれになりたいのか?
もちろん、一般論に従うこともある。けれど、世間的な理想の母親像になるつもりはない。それは色んな人がつくった像だから、私ではない。
赤子といると社会の近さを感じる。それでも、自分のためにも、赤子のためにも、自分を忘れず、自分を大切に生きたい。決して理想の母親ではなく、自分らしく母を楽しみたい。
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