見出し画像

パーキンソン病の兄との日々─何処にでもある兄と妹の物語


新聞記者時代の兄(29)、姉(27)、私(18)

兄が亡くなった時、
「人って簡単に死んじゃうんだね」
 
と姉は言いました。
姉の声はいつもきれい。

兄は居るだけでユニークな存在でした。
歩いたり食べたり話したり
ためいきをついたりあきれたり、
怒ったり無関心だったりする
そのいちいちが全部、
退屈と真逆でした。

何かしてもらうことを期待することなく、
居るだけで良かった存在。 
居るだけでうれしかった存在。


訃報

2020年2月12日、朝5時半ごろ、
兄は介護付き施設で
頭痛がすると言って薬をもらい、
朝ごはんまで眠るうちに、
いつのまにか、
亡くなっていました。
五十七歳でした。

死因は脳出血。
難病パーキンソン病発症から十四年でした。
 
あと三十年は生きるって言ったのに。
でもそれは兄のせいじゃない。


兄が死んだ次の日から、
姉と手分けして
電話をかけなければなりませんでした。

なるべく平静な声でと気をつけながら
兄の友人に電話をすると、
とたんに涙があふれました。

泣きながら亡くなったことを伝えて、
泣きながら経緯を話して、
泣きながらうわーんどうしよう、、、
と声が出ました。

じっと聞いていた兄の友人は、
「申し訳ない・・・!」
「なかなか会いに行けなくて申し訳ない・・・!」
と言って、
電話口で頭を下げてくれました。

私は思いがけないことに
びっくりしました。
一つの空間を
共有したみたいでした。

そして、いつのまにか
泣きやんでいました。

兄の友人はずっと話を聞いてくれて、
学生時代、親しかった友人たちに
お知らせていいですかと、
さりげなく気をきかせてくれました。

おかげで、
兄のマンションでおこなった小さな葬儀に
学生時代の友人20人が参列してくれました。

兄の友人の手紙

兄の友人は兄との
おもしろいエピソードを聞かせてくれて
「お兄さんは文章が上手くて誠実な人でした。」
「困ったことがあれば力になれる人を
紹介するので言ってください。」
と言ってくださいました。

お盆には姉宛で
バームクーヘンと手紙を送ってくれました。

時々、尚さんのことを
思い出しています。

先日も「美女と野獣」のビデオを見て、
彼とイエローストーン国立公園に行って、
たくさんのバイソンに囲まれて
びっくりして怖い思いをしたこと、

デンバーへの帰途で
Point of interests の看板につられて
寄り道をしすぎ、あわや
飛行機に乗り遅れそうになったことを
思い出しました。

思わず笑みがこぼれ、
元気をもらえました。

「さりげなく人柄が滲み出ていて本当に素敵!」
姉と私は絶賛しました。

「美女と野獣」の野獣は
兄のことかもしれない。

たくさんのバイソンは
兄が亡くなってから見ている
この世界かもしれない。

エピソードの中で過去の誰かとつながり
映像のような多面性とつながる経験は
初めてでした。

晴れたま昼の、夏の思い出です。


兄が死んで、悲しくて悲しくて
ずっと兄のことを考えていたのに
「兄の友人のような人間力を身につけたい。」
と思うようになりました。

いつもの日常が戻って
いつも通りに仕事をして
人と会ってお茶をのんで
私は元気を取り戻しました。

一方で
兄が亡くなったことによる手続きはつづいて
世はコロナ禍で
心が重くゆううつになることもありました。

兄はどうすれば幸せだったのだろう。

兄はもういない。

兄がいなくなってしまった。

亡くなる少し前のこと

──介護施設入居の経緯──
2019.10.11. ベッド脇で不慮の事故。
2019.10.28. リハビリテーション病院で3ヶ月のリハビリ。
2020.1.28. 医療付き介護施設入居。
─────────────

2019年10月
兄はパーキンソン病の症状が重くなって
手術を視野に入れることになり
術後のケアをしてくれる
医療付き介護施設入居を迫られました。

引っ越し準備を始めるさなか
兄はベッド脇で転倒し、入院。
右上肢 筋挫滅症候群の診断。

右手は動かず
一人でご飯を食べることも
文字を書くこともできませんでした。

リハビリ病院に入院して
兄は車椅子生活になり
ナースコールで看護婦さんが
何でもやってくれるようになって
自分では何もできなくなりました。

そのうち、会話が難しくなりました。
話すことも
聞くことも
むずかしくなりました。
兄が兄でなくなっていくようで
怖かったです。

リハビリ病院には規制がたくさんあって
兄は自由や尊厳を害するものが大嫌いでした。

エナジー

2020年1月18日、
兄の一番たいせつな人が
お見舞いに来てくれました。

数ヶ月ぶりに会った彼は
兄を二時間以上介助し
じっくり話を聞いて
時おり質問したり
自分のことも話してくれました。

その日を境に
兄は元気になっていきました。

「お兄ちゃんのたいせつな人が
お見舞いに来てくれたからかな!」
おどろいて私が言うと

「そうかもなあ〜!
生きてて良かったな
って思ったよ。」

兄は嬉しそうに
感慨深げに言いました。

リハビリ病院を退院して移った
医療付き介護施設では
兄の自由を一番に尊重すると
約束してくれました。

看護師さんやスタッフさんはとても良い人で
兄は初日から立って歩き
自分でご飯を食べ
信じられないくらい元気になりました。

「リハビリ病院の500倍は良いよー」

兄は生きるエネルギーに満ちあふれていました。

「ここに来て良かった。
みなさん、よくやってくれて・・・」 

兄は施設に友だちを呼びよせ
楽しくて楽しくて楽しい時を過ごして
二週間後に亡くなってしまったのでした。

兄はもういない。


あてどもない文

私は兄について書くかどうか迷いました。

私的なことだし
兄をネタに公に向かって書くなんて。
いくら私が兄の見護りをきっかけに
ライターになったからって。

いくら亡くなる時
もっとも身近な存在の一人だったからって。
そんなの、何だか違う気がする。

それに、言いたいことなんて
何も持っていない。
テーマもない。

兄について書いているうちに
私はぴたっと止まってしまいます。
いつもそう。
いざとなると、どこまで書いて良いかわからなくて
途方にくれてしまう。

私は兄を盲目的に崇拝しすぎだし
感情的になってしまう。
たくさんの人に向かって
書くことでもないような気がしてしまう。
悲しみや怒りを深堀りしなくてもいい気がする。
書くのはまだ早い気がする。

私はきまって夏のお盆過ぎに兄のことを考え
気持ちがゆらゆらしました。
そのうちに私はとてもくたびれて
書くのをやめてしまうのでした。

そうして2年がたって
「ずっとつづく幸せって何だろう?」と考えたとき
過去は今の基礎になったのだから
書いて冷凍保存してしまおうと思いました。

病院でピアノを弾く兄の教え子Mさん

兄のこと

兄は四十四歳で
1000人に1人~1.5人と言われる
パーキンソン病を発症し
五十七歳で亡くなりました。

兄は私より10歳上だけれど
時々とても子どもっぽい。
わがままだし
弱いし
かわいらしい。

冬でも日にやけてるし
笑顔がさわやか。

数学も文章も得意だし
何でも良く知ってる。

兄はやさしい。
兄は神経質。
兄はユニーク。

兄は、どこまでも
自由でいたかったかしら。

兄は、どこまでも
自尊心を守りたかったかしら。

私はいっとき
誰かと会っている時も
家に一人いる時も
兄のことを考えていました。

記者時代に兄がもらったTシャツ


兄は新聞記者

外交官を目指していた兄が
新聞記者になった理由は
兄いわく
「新聞記者は面白そうじゃない?」
という母の一言だったそう。

けれども、そんな母も心の奥では
建物の中で快適に過ごせ
野垂れ死ぬことのない
大蔵官僚とかを望んでいたそう。
 
もっとも
兄が新聞記者になると決めた理由はちゃんとあって
「ペンは剣よりも強し」に憧れた
ということを
いつか聞きました。

 兄が新聞記者になった理由は

(一)
新聞という情報媒体がもつ役割、
影響力の大きさ、
論議の自由、
多様性を認める、など
自分の信じるところを主張できるという点で、
自分を偽らずにすむ



(二)
国民の視点、第三世界の視点
というものを常にもっている

の二つで、

外からの批判について、
内部の論理を踏まえた上で
応答しなければならない。

けれど、そのための時間も紙面もない。

結局、きれいごとを言って
終わりにするのがおち。

内部に入って、
内部の論理を崩さなければ
現実は変わらない。

というのが記者になる前の
兄の想いでした。

けれども、新聞記者になっても
希望の部署にいけるかわかりません。

もし入ってから辞めたくなったら
と考えると
そう安易に決められない。

兄は家族と友人に相談してから
2ヶ月も迷いました。
あまりに悩みすぎて
しばらくボケっとしたら
日が過ぎていたそう。

外交官や大蔵官僚は聞こえがいい。

商社マンはカッコいい。
銀行員は給料がいい。

それに比べて新聞記者は・・・。

などと、
人から笑われそうなことを考えている。
もし、自分が官僚や商社マンだったら
と考えることは、
自分という人間に自信がないということだ。

新聞記者であろうと、
外交官であろうと、
関係ないだろう。

それでも、というところに、
理屈で割り切れない部分がある。

イメージではない、仕事の中身だ。

自分が本当にやりたいこと、

やって面白いこと、

そして世の中のためになることをやる。
そう自分に言い聞かせている。


自分が本当にやりたいこと
やって面白いこと、
そして世の中のためになることをやる。

そうして兄は新聞記者になり
35年がたちました。

新聞記者を選んで良かった?

兄が亡くなる一週間前
兄のマンションで一緒に引っ越し準備をして
ご飯を食べている時
「お兄ちゃんは新聞記者を選んで良かった?」
と聞いてみたら、兄は
「うーん。。。良かった、とは言えないな。」
とこたえました。

私はふうん、とだけ、
返事をしました。

ほんとうは、兄にきいてみたいことが
百くらいありました。

どうして良かったと言えないの、とか
やりたかったことはできたの、とか
どんな人生が良かったの、とか。

でも、そんなことはきけなくて
引っ越し準備のための
兄の貴重な脳エネルギーを
消耗してはいけないと思って
やめました。

エネルギーを使うなら前向きに使うべきだし
会社組織の論理というのは
妹の私からは
あまり触れてはいけないかなと思います。

きっと
新聞記者は熟練するまでに
いろんな部署を経験して
部署が変わったらとたんに新米。
仕事も人間関係も上手にやらないといけないし
使命感、責任感という重圧に
つぶされてしまいそうになるなど
いろいろあるのだろうと思います。


引っ越しの荷物選定はとても大変だったけれど
兄の大好きなアイスクリームとか
チョコレートケーキとか
コーヒー牛乳とか
エネルギーを補給して、
施設に持っていく衣類の整理をして
今日はがんばってすごいねすごいね
と言って、満ち足りて帰りました。

介護施設の車に迎えに来てもらって
兄はサーティーワンによってと言って、
車の中で
ホイップクリームとチョコレートソースのかかった
二スクープのアイスクリームを食べて
やっぱり満ち足りて帰りました。

……ちなみに
糖質のとりすぎは体に悪影響があるんだよ
と言ったことがあるのですが、
「そんなの、科学で証明されてないよー」
と煙に巻かれました。

私も、兄の幸福を奪うのは
気がひけました。
でも、瞬間的な幸せを求めつづけて
本当にいいのかな、
と心の中で思っていました。

夜のコンビニ

兄が介護施設に入居して十日ほどたって
一緒に買い物に行くことがありました。

夕食時間の十八時、
施設近くのコンビニに
ご飯を買いに行くと言ったら
「僕も行くよ」とついてきました。

(施設入居日、私は注文したお寿司を取りに行って
道に迷って2時間帰ってこなかったので
心配だったのだと思います)

真っ暗のなか外に出て
びゅうびゅう車がはしる道路脇を歩くと兄は
「足がふらふらする。
やっぱり夜に歩くのは怖いな。」
と言って腕にしがみついてきました。
私は両腕に力を込めて
兄を支えるように歩きました。

「まるで恋人みたい」
と思う反面
「何かあったらどうしよう・・・」
と不安になりました。

兄があまりに元気で
少し前まで車椅子生活だったことを
忘れていたのです。

私はそわそわして
気が気ではありませんでした。

コンビニで兄は
ハーゲンダッツアイス4個と
あんぱんを籠に入れ
チョコレートコーナーで選定を始めました。

門限(十七時半)を過ぎていたし
夕食の時間も
薬を飲む時間も過ぎて
私はドキドキしました。

「もう帰らないと。
薬が切れて動けなくなっちゃう。
お菓子は次回にしよう。」

時計は十八時十五分をさしています。
兄にとっては全然
問題じゃないみたいでした。

施設の夕食は魚料理、
兄の好きな鯵のホイル焼きでした。
みそしるもある。
小鉢もある。
おやつの茶饅頭もついてる。

私はコンビニで買った
握り寿司を食べました。
食堂には、私たちと
おばあちゃん一人。

「人間は決断に脳のエネルギーを使って
疲れちゃうから、
スティーブ・ジョブズも
マーク・ザッカーバーグも
決断の回数を減らすために
毎日同じものを着るんだって。」

私が言うと
「へー。服を選ぶのも脳のエネルギーを使うんだ」
と兄は言いました。

ただでさえ貴重な兄の脳エネルギーだから
兄も毎日同じ服でいいんじゃないかしら。
兄は脳エネルギーが切れると
意識を失って眠ってしまいます。
(2020.2.7.のこと)

荷物

兄はジレンマを抱えていました。
6畳ベッド付きの施設へ引っ越すのに、

衣類、衣装ケース、小タンス、
39インチテレビ&テレビ台、
テーブル、ソファ、スタンドランプ、
DVDプレイヤー、ステレオ、パソコン、
カメラ、机、椅子、本、器、
思い出のテディベア…を持っていくという兄。

本やパソコン、
思い出のテディベアはわかるけど
家具や電化製品、器も
「必要欠くべからざる物」
と言うのでおどろきます。

人間だから、
物は豊かな方がいい。
自由はあったほうがいい。
そう考えるのは、
それを十分に享受し、使いこなし、
そこから利益を受けている
人間のみが言えることだ。

物はなくとも、
または自由はなくとも、
生活に困る必要もなく、
毎日のんびりと働いて一生を送る方が、
実は幸せなのかもしれない。

兄は昔このように言ったけれど
物も自由も手放すのは簡単じゃない。

Nikonの一眼レフは兄のお気に入りで
手が上手に使えなくなってからは飾りだったけど、
「自分は新聞記者で、記事の写真も自分で撮っていた」
とまわりの人に話すときは
兄が自分の記者人生を好きみたいでした。


施設の部屋は暗くて
不思議にしずかな気持ちになりました。

まだ荷物が少ない棚の上には
私が持ってきたぬいぐるみ作家
山本ヨーコさんの本が置かれていて
カラフルで際立っていました。

本には、私が兄にアドバイスをもらった
インタビュー記事が載っています。

yokodollbook

「わー立派な本ができたじゃなーい!
これはいかにも女の子が喜びそうだねえ。
もらっていい?
次は、クマのぬいぐるみ特集をすると良いよ。」
兄は言いました。

兄はメルヘンチックでもあります。

兄とブランド

兄のワードローブには
服がたくさんありました。

物持ちが良く
学生時代のポロシャツやユニフォーム、
ウールのセーターがたくさんありました。

Tシャツはどれもベーシックで、
ユニクロ、
GAP、バナナリパブリック、
HELLY HANSENのベアT…。

さわやかなシャツなど
古いものがたくさん見つかり、
いつの時代もブレず保守的で
兄らしいと思いました。

いずれにしても、目立つブランドものが嫌いでした。

学生時代に友人が応募し取材を受けたcancam。
「目立つブランドものが好きじゃない」のコメント。
ウエッジウッド・クタニクレーンマグカップ。
花に囲まれた孔雀が描かれたシノワズリ。

兄が家に来た時、
父と母が使っていた
ウエッジウッド・クタニクレーンマグカップで
紅茶をいれたことがありました。

「ウエッジウッドって良いよね」
私が言うと、
「どこそこのブランドだから良い、
というのは自分のセンスが磨けないぞ。
ブランドで選ぶのはダサいよ。
ブランドよりも中身、心が大切だよ。」 
と言いました。


もっとも、それを聞いた時、
私はブランドの魅惑に
身も心も委ねていたのだけれど・・・。
子どもだったから。
今なら、「そうだよね」と言います。

そうだよね。
自分で感じることや
考えることが大切だよね。 

それでも
ブランドから滲み出る品の良さ
美しさ
脳内価値は、
いつでも人を高揚させます。
そこにストーリーがあるなら、尚更。

兄は自分の学歴も
隠そうと考えていたことがありました。
人もブランドより中身が大切だ、
というふうでした。

出木杉くんではなく、
のび太くんを選んだ、しずかちゃん。
そういうものに憧れていました。
たぶん。

ささいな喧嘩

兄と生活を共にすることは
なにもかも全然ちがう目で世界をみるということで
とてもたのしいことであった反面、
同時にこれまでめったになかった
些細な兄妹喧嘩が勃発することでもありました。

落ち着いた精神状態で過ごすには
私は実に無知でした。

施設に友人が訪ねてきたあと
兄はコンビニで買ったキットカット大袋と
DARSチョコレートを枕元に置いたまま眠って
夜中に食べているようでした。

「ベッドのチョコレート、引き出しにしまうよ。
見た目も美しくないし
食べ過ぎも防げるし。」

私が言うと兄は目の色をかえて
「しまわないで!
僕は小さいころお菓子をあまり食べなかったから、
お菓子に対する罪悪感みたいなものは全く無いんだ!」
と言います。

兄の部屋の床に貯金箱の小銭が散らばって
そのまま出かけようとしたので
「小銭拾わなくちゃ」
私が拾おうとすると
「小銭なんか気にしてたら生きてけないよー!」
とかえします。

…兄はこんなに大雑把だったかしら?
パーキンソン病って
几帳面で神経質な人が
なりやすいんじゃなかったかしら。

兄は、兄を中心に地球が回っているわけじゃないことを
わかっているかしら。
(友人にも家族にも甘え過ぎだと思ったのは
もう百万年も昔のことです)

兄は一体どうして自分みたいなのだろう。
兄は一体どうして──。

今思えば、兄の言うように
小さなことなんか気にしていたら
生きていけない。
兄は悟ったのです。

そして
何かにつけて怒りっぽかったのは
脳の病気のせい。
もしくは糖質過多と塩分過多のせい。

亡くなる2日前から
顔面がパンパンに腫れたり
手が麻痺したり
手が冷たかったり
おかしな前兆はありました。

知らないというのは
おそろしいことです。

あの時、もう少し知識があったら。
もう少し気をつけていたら──。

ささいな幸福

世はバレンタインだったので
兄に20粒入のチョコレートBOXを差し入れました。
「バレンタインがあるのって良いよね。」
と言いながら美味いうまいと食べる兄。

ご機嫌になったところで
兄のマンション売却の見積もりをみせると   
「やっぱり、不動産売却は
人生の楽しいイベントごとだよね。」
と言う兄。

あれ、住み慣れたマンションに
思い入れはないのね?
おどろきました。

私はほっとして
家族で投資話というのは
いつだっていいものだなと思いました。

兄が楽しそうだと
心からよかったと思うし、
ほのぼのして心も豊かになります。

弱い存在

2015年に兄が会社を休職するとき、
心配になって
「お兄ちゃんは社交的だし
家に一人でいるより
人と会うのが良いんじゃない?」
と言ったら

「そうだな!大学時代の友だちを総動員するか!」
と、びっくりするほど
友人にたよるようになりました。

もう金光の姓でない姉と、
私の自立を考えてのことだと思います。

自分の無力さを認め


深くあきらめてはじめて


「他力」「友だちの力」を

真剣に欲する。

ただ、兄はもともと
「他力」「友だちの力」を

真剣に欲するタイプでした。

施設入居が決まってから、
昨日は友人Yと東急ストアへ買物、
今日は友人T&Yとご飯、
明日はMとマンション整理…
と予定を立てました。

「少しは遠慮すべし」
と言ってみると
「ああいう性格だから
迷惑と感じず気軽に来てくれる。
来てくれるから
僕が甘え過ぎているかもしれない
ということはわかった。」
と言う兄。

ばか者だったなあと思います。
勿論私はこう言うべきだったのです。

いいねいいね。
お兄ちゃんも楽しいし
お姉ちゃんも私もたすかる。

友だちの数で寿命はきまるんだって。
人との「つながり」が最高の健康法なんだって。
孤独な人は死亡率2倍なんだって
、と。

人とたすけあう関係を持っている人は幸せ
ということは科学で明らかにされているそうです。 

けれど、それは知識を得た、
いまだからいえることです。
かつての私は
兄にはひやひやさせられるばかりでした。

それは兄もそうで
兄も私もお互いを
「特殊」だと思っていたのです。

ときどき、男と女の違いを考えます。
女性は遠慮したり
気負ったりが激しいけれど
(つめたい、あるいはあつい)
男性はゆるいのではないかと考察します。
(ぬるい、あるいはあたたかい)


兄の友だちは本当に良い人、
というのは折に触れて話しました。

毎週兄のところにいって
生存を確かめてくれる友人。
多用のなか合間をぬって
来てくれる友人。

そして、こんな友人もいました。

「こないだ、すごいしんどかったんだよ。
だから、何年も会ってない友だちのとこに
電話してみたらさ。
今日これから行こうか、って来てくれたの。
ずっと夜まで居てくれて
買い物にも付き合ってくれてさ。」

だから友だちは大事だよ、と言いました。

兄は亡くなる前
ものすごく幸せだったのはたぶん
この依存と関係があるのです。

永遠に手に入らないもの

たよってばかりの兄に
私も圧倒的にたすけられてきました。

文章を添削してもらう時に・・・。
それ以外で
あまりたすけられた記憶はありません。

(兄が友人をたよっていたのは
姉や私をたすけていた、
ということでもあります)

姉は、兄にたよっても
たよりないことを知っていました。
なので、話は聞いてもらっても
兄にたよったりは
あまりしなかったようです。

兄も姉も病弱でした。
二人とも
どちらがつらいか
比べられないほど
体調が悪い時がありました。

あるとき
姉の体調が良くなったみたいと話すと
「よかったね〜。
ぼくも電話するよ。
空元気出してさ。」
と兄は言いました。

そのうち、姉は元気になって・・・。
撮った写真を一冊にまとめ、
兄にみてもらいに行きました。

花の写真を見て
兄はこう言ったそうです。

花は、永遠に手に入らないものの象徴のようなものだから・・・

引っくり返るようなコメントです。
「花は、永遠に手に入らない」というのは
「女性は、男性の自由にはならない」
という暗示みたいで
素晴らしくぞくぞくします。

通り一編のコメントをよせない兄。

女性はやっぱり
つめたいか、あついか、
なのかしら。

女性が高学歴、高収入で、強い
(つまり依存しない)と、
そういうものかしら。

そうでなくとも
おなじ部屋のなかにいても
べつべつのことをして
お互いに相手のやり方を
ばかげていると思っているなら、
そうなのかしら。

兄は花を
永遠に手に入らないものだとあきらめて、
がまん強く運命に従順に
生き切ったのかなあ
と想像します。

兄の曇天

「元気?」
兄からよく電話がかかってきました。
「うん。元気?」
「うーん。。。あまり元気じゃない。」

声は元気そうだよ、と言うと
「よく言われるんだよ〜。
本当は元気じゃないんだけどね。」
兄も姉も声がいい。

私は兄の曇天が好きでした。
いつ話しても、曇天の空気。
安心します。

中庸だからでなく
いつも悪いのがふつうだから。

それに、自由でした。
余分も制約も一切ない、
というひろびろした感じが
兄にはありました。

個人的なことを忘れて
まわりの風景を眺めるような自由さ、が、
兄にはありました。
くる日もくる日も曇り。

兄は話好きで
鬱々とするとときどき
誰かと喋りたいのだと思います。

兄は部屋の中にとじこめられて
からだの無動や筋固縮、
抑うつ、幻覚とのたたかいです。

話すと、空気が流れる。
何にもならないけど、
そうやって空気をかきまわしているのだ
ということが、よくわかりました。

兄の文章

私がライター兼デザイナーとして
活動を始めたころ、
「お兄ちゃんの本を作る手伝いがしたい。」
と言ったことがありました。

「僕には売れるようなコンテンツはない。
本を出すことは99.9%ない」  
と兄は言いました。

もし本を出したら
読んでくれるのは
せいぜい友人くらいだ。

それに、口述筆記じゃあ
僕の納得する文章は書けない。
香織はプロでもないし。
そもそも、僕には伝えたいことがない。

早く自立して
プロ並みの文章が書けるようになりなさい、
と言いました。


私が兄の文章を初めて読んだのは
高校生の時の入選論文でした。

内容は覚えていないけれど
『檸檬』という題で
梶井基次郎の『檸檬』が取り上げられていました。
小論文なのにどこか文学的でした。

兄の文章はいつもどこか大人びて
客観的で正直で
世界が正しいバランスを保っていました。

どちらかというと理系が得意な兄は
左脳で整序された構成を考え
右脳で美しい描写を織りなしていたのでは
と想像します。

母の文章

母はエッセイを書きました。
兄と同じパーキンソン病でした。

(左)母のエッセイ集 (右)晩年の闘病日記/父製本

「お母さんはオーバー。カッコつけすぎる。」
母のエッセイ集を読んで
兄が言いました。

兄は文章のことでは
私よりずっと容赦のない性質だったので
母の書く文章は
好きじゃないと言いました。
(兄は私にも子供にも容赦なかったです)

パーキンソン病になってからの母は
光を追い求め、まっ暗闇のなか
小さな灯を
灯そう灯そうとする人でした。

負けてたまるか!
頑張らねば!
一日一日を大切に…!

兄は中庸で
少しネガティブで
慎重で
だからこそ批評家精神を発揮して
仕事では役立っていたと思います。

世間では

「人間として大成していくためには
、
大病、失業、倒産、浪人、失恋、離婚…
などの経験が必要であり
、
そうした経験を経て初めて
人物として大きく花開いていくのだ」

と言われます。

もちろん、
そうした経験は
望むことではないけれど
、
そうした経験を通じて
内省的な期間を持つことで
自分を深く見つめることができるそう。

パーキンソン病の
マイケル・J・フォックスは
著書『ラッキーマン』の中で
パーキンソン病は天からの贈り物
と書きました。

──(中略)──

こんな贈り物などいらないと
人は言うだろうが、
この病気にならなかったら、
自分がこの十年近く歩んできた心豊かな
深みのある人生は送れなかった。

ハリウッドのスターとして
有頂天になっていた
病気以前の自分には
決して戻りたいとは思わない。

この病気のおかげで、
ぼくはいまのような自分になれたのだ。
だから自分のことを
幸運な男(ラッキーマン)
だと思うのだ。

──(中略)──

『ラッキーマン/マイケル・J・フォックス』

母はパーキンソン病を発病して4年目に
自分宛の手紙を書きました。

──(中略)──

私の病は、手足が硬直して、
自分の意思では動かせなくなる
難病の一つです。

歩くことも字を書くことも、
思い通りにはなりません。
絶望の底で、
昨日も明日もない、
ただ「在る」今日を
精一杯生きようと決意して
生きてきました。

というより、
必死の思いで
病と闘ってきました。

「病気なんかに、
絶対に負けてたまるか!」
と、いきまいていました。

私が力づくで病に挑めば、
病の方も平然と
無言で立ち向かってきました。
その結果残されたものは、
むなしい疲労感だけ。
なんと哀しい結末でしょう!

──(中略)──

最後にひとこと、
「健康に勝る宝物はない!」
ということ。

『愛しいあなたに/六十歳からの出発(1996)』

「汝自身を知れ」、
「分をわきまえて受け入れて生きよう」、
というメッセージが
自分宛(母宛)の手紙として
書かれていました。

母の本を読むと
ひとときでも
苦しみを共感することができるとともに
「現実をうけいれよう」
という気持ちになります。

うけいれられない現実が
あるわけではないのだけれど、
それでもとにかく
いろんなことをうけいれよう、
と思うのです。

「大丈夫大丈夫
お母さんだって苦しくても
これだけできたんだから大丈夫」
というような、
あかるくて楽ちんになる気持ちです。

激情家ながら
「日記だけが唯一の心の支え」
と書く母はどこか
さびしげで美しい。

つらいことを書く日は
つらかったはずだけれど
花を見て美しいと感じた日は
少し幸せそうにみえます。

「一日一枚の絵手紙を描くことで
かろうじて心身の均衡を保っている」
と言う母は
健康人の私から見てもカッコいいです。

亡くなる前の2年3ヶ月、800枚以上の絵手紙を描いた

兄の居場所

「仕方なかったけど
仕事はやめない方がよかったね。

ボランティアでもすれば良いんだよ。」

2017年秋、
兄の体調が悪くなったとき
兄のかかりつけ医は言いました。

びっくりしました。
兄の方こそボランティアの手が欲しい
と思ったからです。

「わかっていたけど
仕事はやめない方がよかった。」

兄も言いました。

大切なのは役割があること?
誰かと心が通うこと?
自分の居場所がある、というのは
最終的にそういうことなのだし。

私は兄の居る場所が
なくならないようにしよう
と思いました。

期待はずれ

兄は退屈していました。
退屈だといろんなことを考えます。
存在…理由…みたいなこと。

毎日ながい時間を部屋で過ごし
退屈にすっかり倦んだ兄は
その日、私に電話をしました。

そして二人は喧嘩しました。
兄が亡くなる前日(引っ越し前日)
のことです。

喧嘩は
エネルギーを浪費してしまいます。
私たちはすっかりくたびれました。

兄は子どもみたいでした。
兄からの電話に機嫌よく出ると
突然怒られました。

「なんだよ、この見積もりー。
僕は引っ越し業者に納得してない。
大事な荷物だから
信頼できる引っ越し業者にしたい。
引っ越しは延期したい。」

これは、私を
ほんとうにかなしくさせました。
今思えば兄に同情するのだけれど
(何に価値を置くか、のすり合わせのないまま
引っ越し前日になっていた
というのが齟齬の原因らしい)、

私の中の秩序が
ガラガラと崩壊しました。

きっと言い訳は心のせい。
引っ越し荷物の
決心がぐらついているせい。
自分がもう少し迷っていたいために
怒っているんじゃないかしら。

そうだとしたら、
避難がましくじゃなく
素直にそう言えばいいのに。

そして、私は
あの忌まわしいセリフを
発してしまったのです。

「お兄ちゃんは自分の周りに居る人が

もしかしたらものすごく大変な思いをして
そこに居てくれるっていうことは考えないの?」

「お兄ちゃんは退屈だから
脳が不安を感じてるだけだよ。
不安の96%は現実には起こらないから大丈夫だよ。
引っ越しはもう決めたことでしょ、男でしょ!」

「男とか女とか関係ない!」
電話口で兄の大きな声が聞こえたけれど、
「明日14時には荷物と一緒に施設に行くから。」
と言って電話を切りました。

仲直りの電話をしようかと思ったけど
明日午後には引っ越しが終わる。
仲直りしておいしいものを食べる。

その光景を思い描いたら安堵して
怒りのエネルギーを使った疲労で
死んだように眠りました。

これが、未熟だった私と兄の最後。
相手を理解せず
自我を抑えることができなかった
二人の最後です。
(2020.2.11. pm16:30)

兄の死

次の朝、
施設から電話がかかってきて
兄が亡くなったと聞かされました。
そのときの
ぞっとするような悲しみは
忘れられません。

どうしよう。
嘘でしょう。

もっと兄のことを
理解してあげれば良かった。
兄は誠実だから
きっと内側にストレスを
ためてしまったに違いない。

そのあと、
心臓からひろがっていく虚無感。
あんまりにも思いがけなくて、
むしろ兄に
裏切られた気持ちがしました。

今思いだしてもかなしい。
くやしい。
とりかえしがつかない。
というのがどういうことか、
あの瞬間に学んだと思います。

せつない、という感情の
とても残酷な学習でした。
(2020.2.12. am8:30)

もう思い出はふえない

兄はもういない。
もう思い出はふえない。
ふえない思い出は
そのときどきの私の
自由な解釈ができます。

兄は自分を愛して
自由を愛して、
だから最後は私に
自由を与えたのかもしれない。

もしくは
兄は不自由で
自由になりたかったのかもしれない。
私は今自由だから、
誰かのために不自由になることができるように。

「人が幸せを感じるためには愛が必要である」、
もっと具体的に表現すると、
「心から支えられていると感じられている人間関係である」
(ハーバード大学 心理学研究)

兄はたくさん失ったけれど、その分、
友人や家族、周りの人に
失う前以上にたくさん与えられていました。

私は至らなかったことを反省し
経験に学び、
柔軟な心と謙虚な気持ちで
自分に足りないものを見つけていきたいです。

友人からのメッセージ

生前、兄の調子が悪かったとき
来てくださった友人の方が
メッセージをくださいました。

あれから毎日、
尚くんのことを思い出しています。

これからもきっと
そうなんだろうなと思います。

彼に恥じないように
毎日をちゃんと生きようと思います。

それでもだらけてしまいますけど。(笑)


きっとそんな私を
どこかで笑ってみてくれていると思います。

人間関係はその人が死んでしまうと
一気に消えてなくなるけれど
心の中に思い出として残ることは
いいなあと思います。

兄の学生時代の友人は
みんな違う職業で比べることもなく
相談できる人がいることは
安心感につながっていたと思います。

兄は謙虚ではなかったけれど
私は兄の友人から
謙虚であることを学びました。

謙虚というのは必ずしもそう
ストイックなものじゃなく、
つつましいながらも豊かで、
みちたりたものを相手に感じさせるものだと
兄の友人は教えてくれました。

兄が残したもの

兄は新聞記者で
新聞記事や雑誌記事は
スクラップしておかなければ流れてしまうけれど、
兄が取材班デスクをした
2年間のプロジェクト・連載が
本になりました。

『新聞と昭和/朝日新聞出版』

このプロジェクトは、
入江昭・ハーバード大名誉教授も
客員編集委員として加わり、
厳しい意見をいただき
兄がとても刺激を受けたそうです。

なぜ、戦争に至ったのか、
敗戦を迎えたのか、
どんな教訓を得て、出直したのか、
その道のりはどうだったのか。

『新聞と昭和/朝日新聞出版(まえがきにかえてより)』

過去を知ることは
未来への道しるべにも
なるのではないでしょうか。

兄が生まれ
生きて死んでいくまでに
いくつか輝く瞬間があったと思うけれど、
新しい価値を創り
形として残るものがあって
良かったと思います。

『新聞と昭和』あとがき1
「検証・昭和報道」取材班デスク/金光尚
『新聞と昭和』あとがき2

兄の書く文章は
出来事が正しい大きさで
正しい位置にあるような気がします。

兄がその場面で何を考えていたか
鮮明に意識できます。

以前、兄に
インタビューのアドバイスをもらった時、

この場面で相手は何を考えていたか、
何を狙っていたか、
何を求めていたか、
深掘りできていない。

と言われました。

「なぜ、どんな過程を経て、そう報じたのか(あとがき2頁)」
これを見ると
兄が文章をよむ時に
神経をかよわせていることが、
よくわかります。

頭で理解するのではなく
体が直接理解します。

私にとってふだん
触れることのないタイプの文章だから
新鮮で清潔な空気をすいこんだみたい。
記憶の滞在時間がながい気がします。

兄もそれを知っていて
満足しているかもしれない。

朝日新聞社から届いた追悼文

朝日新聞社より届いた社内報冊子

朝日新聞社から姉宛てで
社内報冊子が届きました。

兄の追悼文は、
兄と親しくさせていただいた
同期 鈴木直哉氏が書いてくださいました。

気持ち中庸に、新鮮に、
ありがたく拝読しました。
兄について書いてくれたことは
その通りなのだと思います。

いつも淡々と準備を整え
理性的で合理的な奴。

天才肌でも器用でもなく、
課題を愚直にこなす努力の男だったと思う。

鈴木直哉さん

天才肌でもなく器用でもなく
愚直にこなす努力の男だった、
というのは
残念でもあるし
誇らしいことでもあると言えます。

身のほどを知ったのかもしれないし
愚直の大切さを知っていたのかもしれないし
理想主義をどこかであきらめたのかもしれません。

完全主義者や理想主義者は
挫折にもろいところがあると聞きます。

書いてくださったように
兄はとても合理的です。

仕事での結果の‘質’を追い求める過程で疲弊し、
(必然、周りの人間関係もうまくいかなくなり)
やがてあきらめ
課題を愚直にこなす人になった、
のかもしれません。

兄は
「記事を書くのが人より時間がかかるんだ・・・」
「(社内で)奇譚のない意見をもらってありがたい」
と姉に言ったそうです。

世の中には
「あらゆる情報を仕入れて細かく吟味する派」と
「ある程度でOK派」がいて、
兄はどちらかといえば
「あらゆる情報を仕入れて細かく吟味する派」でした。

一度、私のクライアントの着物屋さんが
東京に来ているから一緒に
食事に行かないかと誘った時
「着物業界のことも、
この着物屋さんのことも調べてないから、
アドバイスは無理だよ。」
と言いました。

兄らしいなあと思いました。
(アドバイスしなくて良いよ、
と言って一緒にご飯を食べました)

「パーキンソン病そのもので死ぬことはないらしいよ」

──病気の話になると、どこか客観的で
いらだちを見せることもなかった。

彼なりの人生観だったのかもしれない。

だが、その底に、深い不安や葛藤があったで
あろうことは想像に難くない。」

鈴木直哉氏

兄はたまに
「これは人生最大の難問だ」とか
「神様は試練をたくさん与えてくれるな」とか
弱音を吐くことがありました。
何億万回思ったうちの一つだったと思います。


兄は54歳のたんじょう日(2016年)、
私たちにこんなことを伝えてくれました。

──それまで一緒にいた
家族が居なくなって、
この病気に勝てるかと心配になったけれど、
最初のうちは薬も効いていたし、

だけどやっぱり10年も経ってみると
病気は確実に進んでいて、
一人でこの病気と戦うっていうことは
如何に大変かってことを、
この一年痛感しています。

もっと若々しくて元気いっぱいで、
カッコよく在りたかったです。

だけど、こうやって月に1、2回会うのだって、
ものすごく大変な思いをして
遊んでいるんだってことは
覚えていてほしい。

もっとカッコいい僕で在って欲しいと
思う時もあるかもしれないけど、
こうやって生きてるってことだけでも
大変なんだってことを
、
ちょっとでも理解してくれるとうれしい。

カッコ良くないけど
、僕にとっては
生きてるってこと自体がカッコ良いんだ。

時々めげそうになるけどね。
だけど、(たいせつな人の)成長を
見届けなくちゃいかんと、
それはいつも考えてるから。

お兄ちゃん、がんばったね。
あの苦しい時に
お兄ちゃんはよくがんばり抜いたね。

兄の容体

兄は2016年秋から体調が悪く
調子の悪い時に飲む薬はないか、
かかりつけ医の先生に訴えました。

椅子に座っていられない。
抑うつ症状が出る。
夜2~3時間しか眠れない。
山あり谷ありの
谷の部分がえぐれてきたよう。

先生は、
「調子が悪いときだけ
飲む薬というのもあるけれど
薬はもう増やさない方がいいね。
オフが長くなってきたという今が、
手術をして次のステージに
進むときではないか。」
と手術を勧めました。

兄は手術が本当に怖かったので
(血を見ると気絶するので)、
手術はできる限り引き延ばしたい、
と言いました。

そうも言ってられない状況になり、
けれど、残念ながら
パーキンソン病治療として勧められる
脳深部刺激療法も
iPS細胞を用いた手術も
適性がありませんでした。

良い時と悪い時の波、
幻視や睡眠障害がある場合は
それらの適性がないそうです。

デュオドーパ*は適性があるかもしれない
ということで
介護施設入居が落ち着いたら
適正検査をして手術をする、
という予定でした。

デュオドーパ*:
十二指腸へカテーテルでLドーパを持続的に注入。
胃瘻を作るため腹壁に穴をあける手術が必要。
一定速度で薬が補給される。
理論上、オフはない。

施設入居の日


兄が伝えたかったこと

兄永眠の一ヶ月ほど前、
兄はたいせつな人の手を握りながら
振り絞るように伝えました。
(このときは話すことも困難でした)

「一瞬一瞬を大切に」
「友だちは大事だよ・・・」
「エスカレーター式にいけるからといって満足せず、より高い目標を持って」

私は残りの人生を何に使うか考えた時、
自分が生かされる場所で
兄の言葉を思い出して
兄に対しても償いになるようなことが
できたら良いなあと思います。

兄は幸せだったか

周りの人にめぐまれて
兄は幸せだったと思う反面、
もし、「お兄ちゃんは幸せだった?」と聞いたら兄は、
「うーん。。。幸せだった、とは言えないな。」
とこたえると思います。

だから、私は、兄が亡くなって、
「よく生き幸せな人生だったと思うには
どうしたらいいのか」
考えるようになりました。

兄は知識がある方だったと思うけれど、
健康や幸せについての知識は
あまりありませんでした。

兄が失ったものは大きいけれど
周りには良い人がたくさんいました。
 
兄のように
健康を失くし
家族を失くし
仕事を失くしたとしても、
おもしろい友だちが居てくれたら
ワクワクした楽しい気持ちになります。

もしかしたら
介護施設に入って
これから本当の幸せな人生が
始まるところだった、
かもしれません。

ただ、兄は
パーキンソン病に
レビー小体型認知症も併発していたので、
一時的・瞬間的にでも幸せMAXの
一番いい時に亡くなったのかもしれません。


エピローグ

ネガティブなことも書いたけれど、
兄の美点は、親切、誠実、まじめ、
そしてユニークなところでした。

兄を理解して
受けとめてあげればよかった、
と思います。

でも、兄も私も
それまでお互いをたくさん受けとめた、
と思っているからこそ
喧嘩したのです。

喧嘩のせいで
兄との思い出が
暗いイメージに脚色されて
苦い思いをしました。

母、父につづいて兄までも
思い出の中の人になってしまったのが
さびしいけれど、
へんな感傷は、
やめようと思います。

「東京オリンピックはこの目で見たい」と言っていた兄

在るけど無い。
大切なことは、私がいること。
その在るに対する無いこと。
すなわち、否定が強ければ肯定が強くなる。

小さくとも目標を持って一日一日を大切に生きること。

母の日記より

ということを
母と兄から教わりました。

兄の死を悲しんでばかりいた頃もあったけれど
なぜ、とばかり考えていたらやりきれません。

兄はもう苦行することなく
天国に遊んでいてほしい。

もう会えないのが信じられないほど

生き生きと私の心の中に思い描かれるし

生きていた時よりも兄とは

話ができるような気がします。

困った時に電話したら

気の利いたアドバイスをくれるような兄が

今も居てくれたら良かったけど。

これまで兄のことは
あまり触れることがなかったし、
これからも触れる機会は
あまりないと思います。

この記事を書くまでの2年間に
学びをくれた方々
この記事を読んでくれた方に
心からの感謝をこめて。

追記(2022.10.11):
2014年、兄入院の思い出。
大切な人に空柄レターセットでお手紙書きました。


サポートいただいたら喜びますo(>ω<)o