「少女 歌劇 レヴュースタァライトTV版&劇場版」感想

 「歌とダンスが織りなす魅惑の舞台。最もキラめいたレヴューを魅せてくれた方にはトップスタァへの道が開かれるでしょう」

(―――少女歌劇レヴュースタァライト 第1話 きりんより)

 「少女 歌劇 レヴュースタァライト」最大の見所と言っても良い「レヴュー」。本作は舞台少女9人の現実たる日常とこの「レヴュー」を交互に描きます。劇中劇のようになっていますが、現実のレヴューとは異なったものとなります。現実のように舞台を演じるだけではなく、その舞台、照明、音響が現実離れした動きをする。

 「舞台少女のキラめきを感じれば感じるほど、照明機材が、音響装置が、舞台機構が勝手に動き出す。芝居に、歌に、ダンスに舞台少女のキラめきにこの舞台は応じてくれる」

(―――少女歌劇レヴュースタァライト 第7話 きりんより)

 7話できりんが説明してくれますが、本作での「レヴュー」では「キラめき」(この場合はスター性)が強いほど、舞台の照明機材、音響装置、舞台機構が舞台少女に都合よく動く。これはお約束。ここのお約束の了解さえ取れれば、台詞、シナリオ、歌、殺陣、さらにアニメでしかできない舞台機構、照明の動き、を全て融合させた極上のエンターテインメントを味わうことができると思います。

 画面効果としてだけではなく、キャラクター描写にも一役買っています。「レヴュー」では彼女らは舞台に上がって“演じている”ので台詞に照れがない。日常ではぶつけない本音を「レヴュー」がさらけ出すのも役割の一つですが、自己肯定感が高く、非常に格好良い台詞を吐き出す様が良いです。「私はいつだってかわいいわ!」「私に見惚れろ、全ての角度で!」「夢咲く舞台に、輝け、私!」なんか照れなんぞ感じず、むしろ格好良く……いや、舞台に入り込むような感覚で、台詞に酔う感覚を味わえます。そんな台詞が大量に用意されているのも魅力の一つでしょう。

 「人には定めの星がある。綺羅星、明星、流れ星。己の星は見えずとも。見上げる私は今日限り。99期生 星見純那。掴んで見せます自分星。」

(―――少女歌劇レヴュウースタァライト 第9話 星見 純那より)

 さらに「レヴュー」は彼女たちの学校や寮生活のような日常描写が映える効果もあると思います。例えば9話の「レヴュー」ではない時に、純那が「レヴュー」での登場時の口上を、ななに言うシーン。馬鹿にしているわけでは決してないのですが、ななが「こんなに楽しい純那ちゃん、初めて」と返答する。このななの言葉にちょっと恥ずかしがる純那など、現実だとどうしても照れが入る。これにより現実味が強調され、引いては彼女らの心情描写が強調され、日常部分で人間味のあるキャラクターにまで仕立て上げています。

 物語自体はストレートな成長物語。ただ、基本的に「キラめき」「再生産」「運命の舞台」などのキーワードに対して、言葉での説明はあまり入れないですし、場面転換の多さや、情報の小出しなどで初見では物語の大筋はわかるのですが、意図までははっきりと説明を入れる形ではなく、解釈は観客に委ねる形になっています(オーディションの語り手=主催者のキリンからの説明らしい説明があったのなんて12話くらい)。これにより物語の構成としては、説明を極力省いたことで、物語を冗長にさせないことに一役買っています。しかも、説明を放棄しているわけではなく映像、音、歌、演技で、キーワードを言い方、魅せ方を変えつつも9人の舞台少女で描きます。

 「そういうのは天堂さんとクロちゃんでしょ。歌も踊りも舞台に立った時のキラめきも、やっぱ全然叶わないなー」

(―――少女歌劇レヴュースタァライト 第1話 愛城 華恋)

 例えば華恋。ひかりが居ないとき、序盤の華恋は「キラめき」が無い(少ない)形で描かれている。ひかりが来てからではオーディションに選ばれることすらない。主役を張り合う気すらない。ひかりが目の前に再び現れたことで、ひかりとスタァライトで主役になるという過去の約束、主役を手に入れるよう努力し始める。ひかりと共にスタァライトで主役になるまでがTV版となっている。

 大場なながそうであったように、12話の華恋の「私にとって舞台はひかりちゃん」という発言からもわかるように、華恋もまた、TV版最終話では「運命の舞台(ひかり)」に囚われてしまっていたことが明かされるのが劇場版。同時にひかりは華恋の「キラめき」に魅せられライバルとして並び立てないのではないかと怖くなってしまう。

 「一緒だね。わたしも上手に演じられるか怖かった。今もまだこわいよ。でも決めたから、舞台で生きていくって」

(―――劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト 第7話 露崎 まひるより)

 ひかりはまひるとの「レヴュー」でライバルとしての自覚を持つ。(TV版ではまひるは華恋とのレヴューでお世話の押し付けになっていたのが、劇場版では相手を想ってしっかりとしたお世話になっているので、まひるの成長がわかり、さらに言えばTV版で皆の「キラめき」に怖くなっていたまひるをこの配役に当てているのが良いですね)

 「普通の喜び、女の子の楽しみ。すべてを焼き尽くし、遥かな煌めきをめざす。それが舞台少女。その覚悟があなたに?」

(―――少女歌劇レヴュースタァライト 第1話 きりんより)

 劇場版では今まで過去をほとんど語られなかった華恋の過去を描く。TV版で最初に言及された舞台少女の定義にある“すべてを焼き尽く”すを映像で表現しつつ、華恋の「再生産」。ひかりの「キラめき」に魅せられ二人で一つだったスタァライト=「運命の舞台」から降り、ライバルとして新たな舞台へと再出発する形になっている。

 このように「キラめき」「再生産」「運命の舞台」といったキーワードを軸とした物語を展開していきます。しかし、これらを本編中に言葉で直接説明することをほとんどしない。ただ、演出、舞台装置の動き、曲、歌が彼女らの心情を意図し、「レヴュー」で一気に叩き込んでくる情報量の多さ。これにより描写としては“わかりやすい”(すべての意図を、ではなくどれかだけでもわかる)。そして彼女らの心情を表すこれらの描写から、我々は彼女らの心情を想像する。製作者は観客側が物語を“読む”楽しみをわかっているともいえます

 つまり、演出、舞台装置の動き、曲、歌を9人の舞台少女のキャラクター描写に叩き込んだ。しかも、叩き込む描写はどれも一級品のものを用意して。舞台少女たちが魅力的に映るのは当然と言えば当然。そんな9人の純粋な想いのぶつかり合い、素直な成長シナリオを描く。だからこそ、たったの12話+劇場版と決して長くはない時間で、この人数のキャラクターにここまでの深みを与えることに成功している。そしてそんな魅力的な彼女たちが放つひたすらに格好良い台詞を大量に用意し、全編に渡って描くのだから、その爽快感たるや。

 そもそもの映像作品として非常に気持ちが良く、しかも観れば観るほど、9人の舞台少女の想いが伝わってくる。何回見ても全く飽きを感じさせない作品です。

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