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「本物」を見る価値について

本物を見たほうがいい。
学生時代、美術の先生が言っていた。
作品の出来の良し悪しの「本物」ではなくて、「現物」を見ろ、という意味で。

今は、限りなく本物に近い映像を見ることができる。
最新技術を用いた設備なら、肉眼で見る以上に美しい映像を映し出すことも可能だろう。
「美しさ」は遜色なく表現される。

作品の真贋や良し悪しを判断できないのなら、わざわざ「本物」を見る価値はあるのだろうか?

正直なところ、私にはわからない。
真贋の判断はできないし、良し悪しは自分の主観でしか下せないからだ。
でも、「本物」を見て、衝撃を受けた経験はある。
その経験を感じることには、価値があるような気がする。

京都を訪れた際、フォーエバー現代美術館(2019年に閉館されているようだ)で草間彌生氏の作品を見たときの、いっそ暴力的な衝撃を書いていく。

動けなくなるほどの衝撃

恥ずかしながらそれまで草間彌生氏への認識は、水玉の人、だった。教科書でも何度か作品を見たことがあったので、まあ有名なんだろう、くらい。

美術館があることも知らなくて、京都を散策中、たまたま美術館の看板を見つけた同行者がファンだったので、行ってみることになった。

私の知る「美術館」のイメージとかけ離れた日本建築の建物に足を踏み入れた先、最初の展示で殴られたみたいな衝撃を受けた。

なにこれ、暴力か。

手足が冷たくなる感覚がして、目が釘付けになった。
殴られているのかと思うくらい、強烈なインパクト。
教科書を見ていた時とまるで違う。
言葉が悪すぎるけれど、暴力みたいな「執念」の塊がそこにあった。

美しさではない何か

日本建築を移動しながら、執拗に描かれた執念を、ひとつひとつ見ていった。見終わる頃にはすっかり疲弊していて、同行者とともにへたり込んでしまった。

何とか目を通した解説に、幻覚や幻聴から逃れるためにこれらの絵を描いたとの記載を見つけ、妙な納得感と、背筋を這うような恐怖を感じた。

感じたのは美しさではなかった。
少なくとも、私は。

水玉模様の執拗な繰り返し。
執念でなければ描けないような緻密さ。
見ている人間に暴力的なまでに与えるエネルギー。

これを、私は映像で感じられただろうか。
最新技術の映像で。
解像度を上げたカメラで。
限りなく本物の、本物以上に美しく見える、映像で。

「本物」を見る価値について

美しさは映せると思う。
実際、私は画面に映し出される美しい映像を見て、きっと肉眼で見る以上に美しいと感じているはずだ。
「見せる」ことのプロフェッショナルが、最新の技術で表現する美しさは、本物以上の価値を宿すのかもしれない。

けれど。
あの暴力的なまでのエネルギーを表す技術は、この世界にあるのだろうか。

もしもそんな技術ができたなら、その時は「本物」を見る必要がなくなるのかもしれない。
あるいは、映像だけで全てを受け取れるだけの感受性を、あらゆる人が持つ日がきたら。

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