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赤毛のアンシリーズ読了。

去年より読み返していた、「赤毛のアン」シリーズ。
ついに最終巻の、「アンの娘リラ」を読み終わった。
創作とは言え、カナダの片田舎に住むひとりの名もなき女性の人生を、ごく近くで見守ってきたようなリアルな気持ちだった。
当時の生々しい、ありのままの生活が、そこにはあった。
19世紀のカナダがそれまで培ってきた、美しく洗練された文化。
男性は紳士であり、女性は淑女であった。
キリスト教文化が深く根を下ろし、伝統や戒律を窮屈に感じつつも、笑いや皮肉やユーモアが生活を彩っていた。

日曜日の教会へ行く時の装い、婦人会の集まり。“ヨセフの言葉”が通じない、実際的な人たちとのちぐはぐなやりとり。
鳶色の瞳、赤褐色の髪。バラの模様の寝間着、モスリンのドレス。
すみれ色に染まった谷、あきのきりん草、妖精の泉…。

21世紀の日本に生きる私にはまるでおとぎ話のように胸に響くけれど、この小説はいたって現実的なものだ。アンブックスは、ファンタジーではない。当時のリアルな、平凡な日常を、モンゴメリの類稀なる筆力で描かれたある意味でドキュメンタリーだ。
何でもない日常の風景を、ここまで魅力的に鮮やかに浮き上がらせる事ができるなんて…と、今更ながら感動する。
モンゴメリの、圧倒的な観察眼。
常に観察者であり、同時に当事者だったのだろう。
それは当時、普通の生き方をするにはとてもしんどい人生だったのではないかしら。
だからこそ物語を書かずにはいられなかったのだろうけど。。

全10巻にも及ぶ、最終巻の「アンの娘リラ」は第一次世界大戦の話だ。
9巻までの穏やかで優しい日常が、ここで一変してしまう。所々、読むのが辛くてナナメ読みしてしまった。戦争が始まって、不穏な日々がはじまっても、朝は来るしお腹はすくし、どうしても生活はしていかなければならない。それが生きるって事だから。

不安や苦しみの中でも人は笑いを見つけるし、新たな生きがいや喜びを見出すこともできる。人間の勝手にも関わらず季節はめぐり、自然は変わらず美しく世界を彩る。
そこに暮らす人々の、なんと頼もしいことか!!

読むのが辛かったのは、つい今の世界の情勢と重ね合わせてしまうから。
いつ、この(一見)平和な世の中が一変してしまうかわからない。私達はいつの時代も、世界のてっぺんにいる一握りの人達の都合で、簡単に翻弄される将棋の駒のようなものだから。
でも…でも、この本で描かれている市井の人々は、なんと生き生きと生命力にあふれていることか!
私達は、運命を簡単に操作される単なる将棋の駒なんかじゃあない…それがすごくよくわかった。

ジェムはジェムらしく、ウォルターは最後までウォルターであった。マンデイは素晴らしい生き様を見せてくれた。幼かったリラは美しく強い女性に成長して、アンもギルバートもいつまでも恋人同士のようにお互いを思い合っている。
そして、おお、われらがスーザン!愛すべき炉辺荘の料理人スーザン!このような世の中においてスーザンのような実際的な人がいなかったら私は生きていかれないわ。

ひとりひとりの人間がそれぞれの命を輝かせて生きている。ジグソーパズルのピースのように、誰かとしっかり繋がって補い合って生きている。どんな状況下においてもだ。
だから大丈夫だ、と私は思った。

どんな狂った世の中になろうとも、私は死ぬまで自分であり続けるし、自分の居場所から自分の目と心を通した世界を“たのしむ”のだろうということがわかった。
それは確かに意味のあることなのだ。無駄な人なんてこの世にたったの1人もいないのだ。

アンシリーズが私の人生に深く根を下ろしていることの喜びよ。これからもたびたび読み返して心の栄養にする事でしょう。この世に魔法の杖はこんなふうにたくさん、存在しているのだ。

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