シリーズ「霊の中に生きる」 No.7人の霊(7) ④

シリーズ「霊の中に生きる」 No.7
人の霊(7) ④

人の霊(7) - 牧師の書斎

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

『霊の中に生きる=深〜い、神への立ち帰り』

雷鳴驚き天の時(カイロス)を知る、

ここで簡単なテストをしてみましょう。神が望んでおられることを私たちがどのように聞いているか、霊の中で聞いているのか、それともたましいで聞いているのかを見分けるテストです。

以下のことばを聞いて、自分がどんな反応を示すのかでそれが分かります。

Ⅰテサロニケ5章16~18節にあるみことばで試してみます。ここには「・・しなさい」という三つのことばがあります。それはいつも神が私たちに望んでおられることです。

「いつも喜んでいなさい。」😇


最初のことばに対してどのような反応が起こったでしょうか。

馬鹿じゃあるまいし、いつも喜んでいるなんてとてもできないと思うなら、それはたましいで聞いているのです。

しかし、霊の中で聞くならどうなるでしょうか。

「アーメン」となります。

なぜなら、そこに御霊も働くからです。神のみことばに対して「アーメン」と言えるなら、その人は神の子どもであることを証ししていることになります。

以下のことばも同様です。

「絶えず祈りなさい。」
(これは絶えず神と交わっていなさいという意味で、お経のように祈りのことばを出していなさいという意味ではありません。)

「すべてのことにおいて感謝しなさい。」


人の霊の中に語られているのですから、たましいで聞くなら「アーメン」とは言えないのです。

神のことばをあるがままに受け入れることが霊の中では可能なのです。

私たちは霊とたましいを区別して考えていないかもしれません。

しかし以下のみことばは、神のことばが生きて働く時にはそれがなされることを記しています。

『神の言の剣はたましいと霊を切り分ける』

【新改訳2017】
ヘブル人への手紙4章12節


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごと(=動機)を見分けることができます。

【新改訳2017】
ローマ人への手紙8章16節


御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

●ここに、「神の霊」と「人の霊」がともに働いている(=ミングリングしている)ことがわかります。人の霊の中で御霊とともにイェシュアのことば(レーマ)を聞いて、あるいはイェシュアのなされた一連の事実を聞いて、それを信じることによって、「いのち」がもたらされるのです。

神が人に対して「新しいこと」(新創造)をなすために、神の霊を人の霊とミングリングさせることから始められたのです。

そこが神の出発点です。そしてそこから神は人のたましい(心)とからだを回復させるのです。

「霊」を新しくして、「新しい心」を造り、「からだ」を癒やして、健やかにしていきます。

そしてやがてイェシュアと同じように「御霊のからだ」としてくださるのです。それを証しするのがキリストの復活の事実です。

初穂とは、キリストを信じるあなたもキリストの復活のからだと同じようになる(=変えられる)という保証です。

もしこれがなされなければ、神の国を相続する(=受け継ぐ)ことはできないのです。

【新改訳2017】
Ⅰコリント人への手紙15章50~54節


50

兄弟たち、私はこのことを言っておきます。
血肉のからだは神の国を相続できません。

朽ちるものは、
朽ちないものを相続できません。


51

聞きなさい。

私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。


52

終わりのラッパの響きとともに、瞬く間に(たちまち)、一瞬のうちに変えられます。

ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。


53

この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。


54

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。

55

「死は勝利に呑み込まれた。」

「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。


56

死のとげは罪である。
罪の力は律法(主義)である。


57

しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

アーメン

『私たちは神の自己表現』

キリストにある者が「朽ちないものによみがえり」、御霊のからだに変えられるということは、すでに天において包括的に実現しています。
そのいのちは隠されていますが、保証されています。

しかし空中再臨による携挙が来て引き上げられるまでは個別的には実現されません。ですから実体化することを信じて待つことが求められます。

ある人は言います。 ↓

ウォッチマン、ニー

『神の御国の前味を味わう生涯』

三一の神なる御霊(聖霊)が私たち人の霊にシェーム、イェシュアによって油注がれる時、
その隠されたいのちはいつでも私たちの内なる霊(人の霊に働く御霊なる聖霊)より発動して
神の奇跡的な御業を私たちを通して実証いたします。

十字架の死と復活によってなされた神の客観的事実を実体化、実証化していくことが、聖書のいう「信仰」なのです

神のご計画の全体像、この神の御心をわずかながらでもこの数十年の地上での生活を通して、私たちを通して実証し具現化していく、
このことのために私たちは天地創造以前より
御国の『生命の書』にその名が記され、この御国の神の許より今の、現代社会に遣わされております。

私たちはこの神のご計画を現代地上世界に表現するために御国より遣わされた一人ひとり。
私たち一人ひとりの存在は『神の自己表現』たるべき尊い存在、尊いお一人おひとりなのです。

神の御国よりこの世に遣わされし者たち


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?