シリーズ「霊の中に生きる」 No.5人の霊(5) ⑦


『御国の福音』

御国を地に植える

インマヌエル(イェシュアは私たちとともに生活し給う!)

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

人の霊(5) - 牧師の書斎

「上にあるもの」を求めよ!

たとえキリストのことばがからし種のように小さいものであったとしても、いのちを持った種であるがゆえに、山をも動かすことになるのです。これらのことを裏付ける聖書箇所は以下です。

【新改訳2017】
コロサイ人への手紙3章1~4節


1

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


2

上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。


3

あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。


4

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

「上にあるもの」を求めなさい、思いなさいとパウロは命じています。

その「上にあるもの」とは、「キリストとともに神のうちに隠されている私たちのいのち」のことです。

「隠される」という意味は二つあります。それは、天において「保護されている」ということと、「完成されている」ということです。私たちのいのちが完成しているという面は重要です。

エレミヤ31章の新しい契約がすでに天においては完成されていて、やがてキリストが現れるとき、すなわち空中再臨(教会)と地上再臨(イスラエルの残りの者)の時に、キリストとともに栄光のうちに現わされるということです。

これを信じるなら、私たちは至聖所の「恵みの御座」にいることになるのです。そこは安息の場所です。


これらのことを思いながら上の図を見るなら、神の事実が理解され、かつ整理されるはずです。

クリスチャンになっても、自分の中にある「霊」と「たましい」の区別がつかないでいるのは、「肉に属する者」だからです。

しかしそれは決して恥ずかしいことではありません。「肉に属する者」は霊的に幼子で、乳しか飲むことが出来ません。

最初から堅い食物を食べる幼子は誰一人いません。しかし次第に成長するなら、堅い食物を食べる大人になることができます。

それをパウロは「御霊に属する者」と言っています(Ⅰコリント3:1~2)。ただしそのためには霊的な覚醒が必要なのです。

3. 「たましいから逃れ出て、霊の中に生きる」ための訓練

台風の目に入り込むことの大切さ

「霊と肉」「霊の中に生きることと、たましいの中に生きること」の違いを知り、それを区別して生きるようになるためには訓練が必要です。

旧約聖書にある一つの神のことばに心を留めてみたいと思います。私たちが「たましいから逃れ出て、霊の中に生きる」ために、神はみこころのままに訓練します。

台風の目に入り込むことの大切さ

上の図は台風の目です。台風の目はキリストにある平安(安息)を啓示しています。その中は完全に「晴れていて無風」状態です。

まさにそこは人の霊の中にある至聖所そのものです。神である主は、たましいから逃れ出て、そこに入るように語っています。以下の神である主のことばがそうです。

【新改訳2017】
イザヤ書30章15節


イスラエルの聖なる方、【神】である主はこう言われた。


「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

●この箇所のヘブル語を逐語的に訳すと、以下のようになります。

立ち返り」と「静まり」によって あなたがたは救われる。「落ち着き」と「信頼」が あなたがたの力となる。


ここは二つの文章から成っているヘブル語特有の「パラレリズム」で、前文が後文によって補強されている形です。

文ではなく、一つひとつのことばが並んでいます。このことばをだれが語っているのかといえば、「イスラエルの聖なる方」ですが、預言者イザヤを通して、ユダの王であるヒゼキヤとその民たちに語っているのです。


「立ち返り」「静まり」は名詞です。「落ち着き」は不定詞、そして「信頼」は名詞です。

動詞は「救われる」と「(あなたがたの力と)なる」で、ここの「力」(「ゲヴーラー」גְּבוּרָה)は名詞ですが、その動詞(גָּבַר)を調べるならば、みなぎる力、増し加わる力、勢いとしての「力」(strength)であることが分かるのです。

神のことばは「霊であり、いのち」ということができます。このことばを人の霊の中で聞くならば、神の力は人に対してだけでなく、周囲の状況に対しても強まるのです。

30章15節を二語の漢字で表わすと、「悔改」「静謐」「平穏」「信頼」となります。

悔改」は、神中心の生き方を促すことばです。
静謐」は、神との交わりを促すことばです。
平穏」は、冷静沈着さを促すことばです。 
 
信頼」は、神にゆだねることを促すことばです。

実はこれらは霊の中の事柄なのです。いずれも霊が機能不全を起こしている中では困難です。

霊が回復されたとしても、一朝一夕にして体得できるものではありません。イザヤの時代の多くの人々がこの神の呼びかけに対して、「これを望まなかった」とあります。

喜んで受け入れることができなかったのです。

なぜなら、それは目に見えない保障であり、目に見える助けの方が安全だと思ったからです。

神への不信がやがて自分たちの国を滅ぼすことになることを警告されているにもかかわらず、神に信頼することができないのです。

1:1

はじめに神は天と地とを創造された。


1:2

地は形なく、むなしく、「トーフー・ヴァーヴォーフー」(茫漠として何もなく)やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

創世記1.1〜1.2

これが肉なのです。霊の中で生きるとは、肉にしたがって生きないことですが、

結局の所、ユダの民はバビロンによって「トーフー・ヴァーヴォーフー」(茫漠として何もなく)となってしまったのです。

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