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賢治と嘉内(後編)


《宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り~》
NHKエンタープライズ(2021.2.26)

鞍掛山、とし子の死

大正11年5月21日、賢治は盛岡から西へ12kmの小岩井駅に降り立ち、小岩井農場へ向かう。このとき書かれた詩が「小岩井農場」。小岩井駅から小岩井農場へ、さらに賢治が歩みを進めたのは20km先の鞍掛山の麓だった。そこで賢治は「恋愛から宗教的情操の高み」を目指す転身の試みを吐露しているという。

日本女子大学を卒業し、花巻女学校の教師をしていた妹のとし子(本名トシ)が、大正11年11月、24歳の若さで病没。賢治はとし子の魂との交信を求めて、樺太への旅に出る。このときに書かれた詩が「青森挽歌」。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる

きしゃは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる
りんごのなかをはしってゐる

銀河を走る夜行列車のイメージ——。

『銀河鉄道の夜』、陸中海岸への旅

――それは「ケンタウル祭」という星祭の日の夕方。銀河列車のボックス席に向かい合って座るジョバンニとカンパネルラ。「サザンクロス駅」でほとんどの乗客が下車し、ジョバンニがカンパネルラに「ぼくたちどこまでも一緒に行こうね」と言って振り返ると、カンパネルラの姿がない。ジョバンニは泣き叫ぶ。

大正14年1月5日、賢治は突如、旅に出る。花巻駅から東北本線で北上、青森県八戸駅で八戸線に乗り換え、終点の種市駅へ。夕方、種市駅から30km先の久慈の町へ向かって冬の浜街道を歩く。冷たい風と雪道を、半月のあかりを頼りに夜通し。夜明けを迎えたとき、太平洋に面する侍浜の海岸に立って、詩「暁穹(ぎょうくう)への嫉妬」を書く。

薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかがやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら

「サファイア風の惑星」とは「土星」のこと。土星を溶かす明け方の空に、賢治は嫉妬する。

ぼくがあいつ(土星)を恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変わらない
………
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる

その後、賢治は詩らしい詩も書かず、1月9日に花巻へ戻る。この陸中海岸への突然の旅は何だったのか。「土星」を見るための旅だったのか。

大正14年1月6日の陸中海岸の夜明け前の空の様子——午前2時過ぎ、東南東の空に姿を表した土星は、南の方へ移動しながら上空へと昇りゆき、夜明け前の4時過ぎ、南の水平線上には、星座「ケンタウルス」がその半身を覗かせながら、徐々に土星と対面してゆく——「ケンタウル祭」の夕刻から夜を描く『銀河鉄道の夜』が想起される。

ケンタウルス、ギリシア神話の半人半馬の怪物。あの陸中海岸への旅は、「土星」と「ケンタウルス座」が出会う、明け方の空を確認するためではなかったか。

賢治とケンタウロス

『銀河鉄道の夜』下書き稿――ここで「ケンタウル祭」はいったん消され、「星曜祭」とされている。「星曜祭」とは「七夕」のこと。7月7日、彦星と織姫が天の川を渡って出会う夜。賢治は「ケンタウル祭」に「七夕」のイメージを重ねていた。ちなみに「1月6日」の半年前は「7月7日」、七夕に当たる。賢治が1月6日にこだわって、陸中海岸への旅をしたのは、その日が「冬の七夕」だったからなのではないか。そしてその1月6日の明け方を詠んだ賢治の文語詩「敗れし少年の歌える」――。

きみにたぐへるかの惑星(ほし)の
いま融け行くぞかなしけれ
さながらいみのことばもて
われをこととひ燃えけるを

「土星」が嘉内であるなら、「ケンタウロス」は賢治。その「土星」が「融け行く」。「ケンタウル祭」とは「土星」と「ケンタウルス」が出会う夜祭。賢治は、邪な修羅である自分を、半人半馬の怪物「ケンタウルス」に重ね合わせ、嘉内をサファイア色に光り輝く「土星」に喩える。童話『銀河鉄道の夜』は、賢治が嘉内に捧げた物語であるとして、あらためて見直すと——。

——「ケンタウル祭」の夜、ジョバンニとカンパネルラは銀河鉄道の旅をする。3人の乗客が乗り込んでくる。家庭教師の青年と姉弟の3人は、イギリスから巨きな客船に乗ったが、その船が氷山に衝突し、いっぺんに傾き沈みかけた。救難ボートにはとても全員は乗り込めず、船とともに大勢が海に沈んだという。やがて「サザンクロス駅」に到着すると、そこは天国の入り口だった。青年と姉弟はほかの乗客とともに汽車を降りてゆく。皆、他人の命を助け、自らの命を失った人々なのだろう。実はカンパネルラもこの人たち同様の死者なのだが、なぜかカンパネルラは下車しない。「カンパネルラ、またぼくたち二人きりになったね。どこまでも、どこまでもいっしょに行こう」とジョバンニが言う。車窓にきれいな野原が広がると、カンパネルラが突然叫ぶ。「ああ、あそこの野原はなんてきれいだろう。あそこがほんとうの天上なんだ」。ぼんやり車窓を眺めていると、

二本の電信柱が丁度両方から
腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて
立ってゐました

ジョバンニが再び、「カンパネルラ、ぼくたちいっしょに行こうね」と言って振り向くと、カンパネルラの姿は消えている。ジョバンニが飛び上がり、窓の外へ体をのりだして、号泣する。外はいっぺんに真っ暗になる。

ふと気がつくと、ジョバンニは元の丘に戻っていた。街へ行ってみると、カンパネルラが川で溺れた同級生を助けて、水死したことを知らされた。

カンパネルラは「サザンクロス駅」で降りなかった。赤い腕木の二本の電信柱が立っているきれいな野原で、「あれがほんとうの天上だ」と言って降りた。カンパネルラは嘉内であり、賢治はあの野原を二人だけの天国にしたかったのだ。

大正14年6月25日、賢治は嘉内に手紙を送る。「来春はわたくしも教師をやめて、本統の百姓になって働きます」。これが嘉内への最後の手紙となった。嘉内は大正15年に結婚し、翌年、青年訓練所の要職に就き、以来、一貫して若者の農業指導に携わり、昭和12年2月、41歳でガンのために亡くなった(※嘉内の詳しい経歴はWikipedia参照)。二男一女の父だった。亡くなったとき、賢治からのすべての手紙のファイルを枕元に置いていたという(※農業への情熱を絶やしたわけでも、賢治を拒絶していたわけでもなかった)。

賢治は北上川の河岸で一人暮らしをしながら、畑を耕し、本気で百姓になろうとした(「賢治自耕の地(下ノ畑)」の柱)。しかしその頃から結核性の病気で体調を崩し、昭和8年9月、37歳の生涯を閉じる。手帳に残された「雨ニモマケズ」には、病のために嘉内と誓いあったあの大きな夢を果たせなかった無念の思いがこめられているように思われる。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

(※以下、DVDにはなし)
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

(後編了)


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