賢治と嘉内(前編)
▼きしやは銀河系の玲瓏レンズ
巨(おほ)きな水素のりんごのなかをかけてゐる
賢治が銀河への旅に託したメッセージとは何だったのか。そこには賢治が生涯を懸けて愛したひとりの男性が深く関わっていた――。
先日来、再生と一時停止、巻き戻しと再生を繰り返しているこのDVDは、宮沢賢治にとっての保阪嘉内(ほさかかない)の存在などまったく知らなかった身には衝撃的な作品だった。ナレーションを要約しつつ再現してみたい。
出会いと芝居『人間のもだえ」
宮沢賢治は岩手県花巻川口町の中心地、豊沢町にあった質店・古着商の長男として生まれた。誕生日は明治29(1896)年8月27日。明治42(1909)年、盛岡中学に進学。岩手山をはじめ山々を散策し、しばしば山中で野宿した。生涯の道標となる『漢和対照 妙法蓮華経(島地大等著)』に出会ったのは中学卒業後。「妙法」とは「真理」の意。「宇宙は無辺大である」――賢治はこの書の言葉に魅了された。
大正4(1915)年4月、盛岡高等農林学校(現:岩手大学)農学科に優秀な成績で進学。校内の「自啓寮」に入り、翌年、寮の室長となる。そこに入寮・入室してきたのが同い年、20歳の保阪嘉内だった。山梨出身の保阪はトルストイの礼讃者で、自己犠牲を理想とし、「百姓こそ人間のあるべき姿」が持論。「自啓寮」では入寮懇親会で各部屋ごとに出し物をやることになっており、嘉内が提案したのが自作戯曲による芝居『人間のもだえ』だった。
原稿が現存しており、女優・渡辺えりさんのオフィシャル・ブログに写真が掲載されている。
3人の神、「全能の神(アグニ)」「全智の神(ダークネス)」「悪の神(スター)」が、「人間よ、百姓となれ」と力説するこの芝居で、賢治は全身黒ずくめの「全智の神」を、嘉内は全身赤ずくめの「全能の神」を演じ、「ああ人間よ、ようく聞け。土に生まれ土に還る、お前たちは土の化物だ。土の化物は土だ、自然だ、光だ、熱だ。お前たちよ、土に心を入れよ。人間はみな百姓だ。百姓は人間だ。百姓をしろ、百姓は自然だ」と声を揃えた。この強烈な演劇体験が、賢治の行方を運命づけたとも言える。
保阪嘉内のスケッチ帳
保阪嘉内とは何者だったのか――。明治29年10月18日、山梨県韮崎市生まれ。韮崎市は南東に富士山、正面に茅ヶ岳、北西に八ヶ岳の田園風景のなかにある。嘉内の生家は、代々続く地主の庄屋で、嘉内はその保阪家の長男として誕生した。嘉内の小学生時代、このあたり一帯は度重なる水害に見舞われ、田畑は荒廃し、多くの死者が出た。遺体は河原に埋められたが、時が経つにつれ、人骨が露出し、陽に晒される。嘉内は子供心に「人間は死ねば土に還る」と思ったという。
「保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会」に保存されている嘉内が甲府中学時代に描いたスケッチ帳――八ヶ岳山麓の風の神を祀った壊れた石の祠(ほこら)の絵。冬、吹き荒れる八ヶ岳おろしを山麓の人々は「風の三郎」と呼び、社を建てて祀ったという。嘉内は「風の神」に強い関心を持っていた。
スケッチは賢治の代表作『風の又三郎』を連想させる。それは東北地方に伝わる「風の三郎さん」の童歌に因むと言われるが、「風の三郎」は山梨にもいた。賢治は「風の又三郎」の容貌を繰り返しこう書いている。「おかしな赤い髪の子ども。顔ときたらまるで熟した林檎のよう」。それはまさに芝居『人間のもだえ』で嘉内が扮した赤ずくめの「全能の神(アグニ)」のようだ。「風の又三郎」とは、八ヶ岳おろしに乗ってやってきた嘉内=アグニがモデルだったのではないか。
もう一枚のスケッチ、1910(明治43)年5月20日夜8時と日付のある「ハレー彗星図」。この年、ハレー彗星が地球に近づいたが、日本では天候に恵まれず、山梨付近で奇跡的に観測された。嘉内はこの絵にこう記す。「銀漢ヲ行ク彗星ハ/夜行列車ノ様(さま)ニニテ/遥カ虚空ニ消エニケリ」。「銀漢」とは「銀河」のこと。嘉内はこのスケッチ帳を盛岡に携行している。賢治の『銀河鉄道の夜』のイメージは、この絵を端緒とするものだったのかもしれない。
上記2点のスケッチは、ブログ「みちのくの山野草」に掲載されている。
(前編了)