プロローグ

 六月、昨日から雨が降り続き、灰郷(かいきょう)にもあちらこちらに大きな水たまりができている朝。
 空蝉(うつせみ)はかっぱらってきていたよれよれのビニール傘を差し、いつものように顔なじみの地区を散歩していた。

 空蝉はこの地区の千代(ちよ)ばあの家――家と言っても打ちっぱなしのコンクリートで囲まれただけの空間で、家具と呼べるものはすべて捨てられていた廃棄品を集めてきたものだった――に住んでいる。
 目と足を悪くした千代ばあの代わりに、同じ地区に住む人たちの安否を確認するのが日課で、ときには地区の相談事を千代ばあに取り次ぐお役も与(あずか)っていた。

 この日もいつものように、朝ご飯を食べ終え、昼ご飯の前まで散歩をしていた。
 空蝉には、灰郷と街の境目は目に見えない分厚い空気の壁が出来ているように感じていた。
 流れる空気も、水も、まったく質が違うもので隔たれている感覚。
 梅雨の雨は雲を移動しながら、こちらにもあちらにも同じものが降り注いでいるというのに。

 その分厚い壁のちょうど真ん中に、昨日には見当たらなかった、旅行用の鞄が置かれていた。
 ときどきあるのだ、こうして街から捨てられてくるものが。
 街の人の身勝手なのか、何かの圧力に流されてきたのか、今となっては判別できないが、灰郷に着いたものたちはすべて灰郷が呑みこんでいく。
 海のようだといえば聞こえはいいが、実際は箱に入れられたものを焼却するごみ処理場のようだった。

 空蝉は鞄の前にしゃがみこみ、傘を自分の左頬と左肩のあいだに立てかけた。
 鞄は街の人には定番のスポーツブランドのもので、雨は中にしみこんでいないようだったが、たぶん夜中から今までには雨に打たれていたんだろうと想像がつくくらい、かわいたところは見当たらなかった。
 空蝉は鞄のジッパーに手をかけた。
 これまでも何度もそうしてきた。
 爆弾であったことは幸いなかったが、処分にお金がかかるような布団だとか、何かの施しのような食べ物だったりとかすることが多かった。
 今回もきっと似たようなものだろうと、躊躇せず中身を見た。

 ああ、赤ん坊だ。
 たぶん、生まれて間もないだろう。
 目は閉じられていて、まだ赤い皮膚にはカスのようなものがぺたぺたとはりついている。
 髪や眉毛は全体的に色素が薄い。
 頬に触れると、まだ体温はあるようだった。
 目から幾重にも流れていたんだろう涙の跡もある。
 夜中の雨で、泣き声もかき消されている中でずっと泣き続け、今は眠っているようだった。

 空蝉は鞄のジッパーを閉め、鞄の肩紐を自分の左肩にかけ、鞄をあまり揺らさぬよう立ちあがって、右手に持ったビニール傘を自分と鞄の間に差して家に帰った。

「千代ばあー、ただいまー。また赤ちゃん捨てられてたよー。」

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