映画ジョーカーは誰しもがジョーカーになりうるという怖さを描いたものではない理由

映画ジョーカーは公開中に既に名作との声が大きいものであった。誰しもがジョーカーになりうる怖さを感じたという感想が多く聞こえてきたものの、僕が観た時の感想はそれとは全く別物だったのですごく違和感があった。とはいえ、すごいものを見た!という感動を覚えずにはいられなかったし、レイトショーで見た後、夜も遅く家に帰ってカミサンに長々と何がすごかったか説明しては全て無視された。

あらためてNetflixで見たので公開当時の疑問の検証もしながら改めて考えてみた。それで、ジョーカーがどんな映画かゴタクを並べてまたカミサンに無視されるようなウザイ文章を残しておきたい。映画ジョーカーとは?、今回の映画の内容、映画業界を俯瞰したときに何が考えられるかという流れで進みます。

まず、ジョーカーとは一言でいえばバットマンの悪役・宿敵である。バットマンはDCコミック(今の日本で言えばサンデー的な?小学館か?)というアメリカンコミック(アメコミ)のヒーローであるが、なかなかどうして暴力的な面や怒りを表に出すこともあってダークヒーローと呼ばれている(活動時間も夜)。ダークヒーローに対する悪役なんだからボヤッキー程度の輩で務まるわけもなく、それなりのキャラクターが求められる。その中で特別な存在がジョーカーであり、これまで何度か映画化されたバットマンシリーズの中でも度々登場している。30代以上の映画好きならジャックニコルソン演じるジョーカーが印象的かと思うが、急逝して遺作になったことも追い風になって話題になったヒースレジャー版ジョーカーも有名。

アメコミの映画化に際して認識しておきたい1つ重要なことは、パラレルワールドが普通に存在すること。バットマンの映画シリーズが全てつながっているかというとそんなことはなくて、リブートが幾度となく行われているし、原作コミックから似たようなことをよくする(スパイダーマンなんてもう)。そんなわけでこの映画ジョーカーは今までの映画シリーズとは同じ世界線ではないことは認識してほしい(ダークナイト3部作とは整合性がない)。ただし元になったコミックはある。

映画の内容について、見終わった時にまず思ったのは、気持ち悪い。ずーっと気持ち悪かった。それは何が現実かわからないようにつくられていたので常に現実か虚構か考えさせられて頭が疲れたから。そして答えがないから。

主人公のアーサーが店の看板を持って路上パフォーマンスをしているところから映画は始まる。しかし、少年たちに看板を奪われ、追いかけると裏路地でボコボコにされる。悲惨な人生を生きる男が犯罪者になっていくことを予感させる。

しかし、次第に違和感だらけの映像になっていき、ハテナが蓄積していく。次のシーンではカウンセリングを受けているが話がかみあっていない。二度この2人が対面するシーンがあるがアーサーの言うことに相手はほとんど反応しない。おそらくアーサーがべらべら話しているセリフはアーサー自信の妄想なのではないかと思う。例えば、前から言っているが僕はコメディアンになりたい、とアーサーが言うものの相手は、聞いたことない、アーサーは言ったはずと主張する。映画冒頭2シーン目から違和感を投げつけられて変な気持ちになる。次はバスに乗って“笑ってしまう病気です”というカードを渡す有名なシーン。だかここも二度目に見ると変だった。渡したカードには"返してください"と書いてあるのを強調しているにも関わらず、カードを受け取った女性がカードをアーサーに返すような素振りはなく正面を向いてしかめっ面である。これもアーサーの妄想かもしれない余地を残している。この後アーサーは家に帰り、自身の好きなTVのコメディショーを見るわけだが、観覧に座って憧れのマレーフランクリンによくしてもらう妄想を長々とする。このシーンでアーサーには重度の妄想癖があることをはっきりと提示しており、そのせいで今後のシーン一つ一つに疑心暗鬼になっていくことになる。

ほぼ全てのシーンが妄想なのか真実なのかはっきりとはわからないようにつくられているのであげていくとキリがない。たとえば同僚のランドルから銃をもらうシーンなど、本当にこんな風に銃のやりとりをするのかまず違和感を覚える。その後、銃についてはランドルからアーサーが買おうとしたとか、ランドルはなんのことかわからないような顔をしたり、口裏合わせをしようと言い出したり何がなんだかわからないまま話が進んでいく(僕は、ランドルから銃をもらったシーンは妄想だと思う)。

タバコを吸っているシーンも度々でてくるのだが、重症患者の病室で普通に吸っているところなどちょこちょこ違和感がある。それでよくよく思い返してみると灰皿に灰を落とすシーンが一度もないことに気づく。落とす動作はするのだけど、全て画面外かカメラとの間に人が入って見えないようになっている。アウトローになりたかったアーサーが脳内で吸っていただけの可能性がある。

隣人の女性が部屋に来て、スタンダップコメディの出演日を聞いてくれるのにその答えを聞かずにすぐ去っていくのも特に不自然。この女性が絡むシーンはずっと不自然で、結局は彼女がいつも隣にいたのが妄想だったことだけが唯一ネタばらししてくれるわけだけど、ここから余計に疑心暗鬼になって目をギンギンにして見るわけ。ここからまたネタばらしがあると思うから一つもヒントを逃すまいと思うわけ。でもその後はネタばらしないので頭が疲れるだけ。

母親が倒れて救急車に乗っているシーンもおかしい。最後に会話したのは?と聞かれて、わからないって答えるアーサーおかしいですよね。あれだけ仲良くしてて。薬を飲んでるか聞かれてもわからないって答えるアーサーもおかしいですよね。風呂に入れてあげるくらい面倒見ててそれ知らないわけないですよね。母親との日常も全て妄想な可能性があるんです。コメディアンの話も二回しててそれぞれで母親は辻褄合わない答え方をしてるんですね。

アーサーがウェインにトイレで会うシーンなんか、最初は手ぶらの汚い格好で侵入したのに急に使用人の赤い服を着てる。これも着てるつもりになってるんだろうなと思わせる。なぜかトイレで服を脱いで元の汚い服に戻る、しかもフードついてるので、あの赤い使用人のジャケットをきれいにきれるわけないんですわ、はいはい、ここから現実なのね、やっぱり赤い服は妄想ね、と思わせといてこのシーンの最後で右下にピンボケした赤い物体がちょこっとだけ見切れるのね。あれ、これは本当なの?妄想じゃないの?なんなの?考えてもわからない。とにかく頭が疲れる。

そう考えると、地下鉄殺人すらアーサーが犯人かどうかわからないんですね。妄想で殺してただけの可能性がある。なぜかというと報道ではピエロの仮面をした男が犯人だという目撃証言がある。アーサーは仮面ではなくピエロの化粧なんですね。今回Netflixで英語も確認したけど、maskと言っていて、maskに絶対に化粧の意味が含まれないという確証は英語苦手なのでもてないけど翻訳は仮面だし、ここにも話の根幹と言えそうな部分を揺さぶる演出を隠しているわけです。

ここで、映画館でハッとしたんですね、当時の私。じゃあ、冒頭の看板盗まれてボコボコにされたシーンも妄想なんじゃないの?ボスは盗まれたこと知らない聞いてないって言ってたな。話噛み合ってなかったもんな。となるんです。もう何も信じられないんです。

それでラストシーン。精神病棟みたいなところで手錠されてタバコ吸ってる。そこでアーサーが言う。おもしろいジョークを思いついた、でも理解できないだろうな、と。なんと最後の最後で、今までの話が全てアーサーの脳内で展開されているジョークだった可能性を提示され、もうお手上げ。

つまり、映画のストーリーなんてあるようでなかった。全てが虚構で、何もないんですよ。しかもラストシーンはコメディ調。重いテーマを扱ってますみたいな顔しといてナンセンスなコメディで閉める。わけがわからない。なんにも意味なんてなかったの?こんだけ疲れて必死に考えて見てたのにですかあ?っていう映画だった。

だから、誰しもジョーカーになりうるなんて解釈することが僕には理解できなくて、こんなにイカレた世界観に誰しもがなりうるわけないなって。強いてメッセージがあるとしたら、見えたものをそのまま信じるなっていうことだと思うかな。

映画のストーリーはそんな感じだとして、ジョーカーが映画業界的に何がすごかったのか、これが大事なんですね。まずバットマンは、スーパーマンに代表されるDCコミックなんですけど、ライバルにマーベル(DCを今日の日本のサンデーに例えたことに対するジャンプ?集英社的な?)があることを考えないといけないです。マーベルはアイアンマンを筆頭にマーベルシネマティックユニバースという世界観をつくってアベンジャーズで商業的な大成功を収めます。ただし、アベンジャーズに登場させるキャラクターを集めるためにアントマンなどの駄作映画を死ぬほどつくります。はっきりいってソーもちょっとないですね。でもアイアンマン1は好きです。

それに対してDCはクリストファーノーラン監督のダークナイト三部作(バットマン実写映画)で本格的なドラマを描く方向で一旦は評価を得ます。しかしマーベルの大衆に媚びに媚びた勢いには勝てず、ついにバットマンvsスーパーマン(だっけ?)のようなアベンジャーズの二番煎じのような中途半端な映画を作り始めます。

今作ジョーカーはその商業的に媚びた色を一度落とそうとしたと思うんですね。それを考えるのにまたキーマンになるのがマーティンスコセッシ監督。本作は70年代のアメリカンニューシネマといわれる時代の雰囲気をつくっていて、マーティンスコセッシ監督のタクシードライバーとかキングオブコメディなどその時代の映画オマージュがかなり散りばめられてるらしい(キングオブコメディは見てないのでわからない)。そこにきてロバートデニーロの起用。完全にスコセッシへのリスペクトがあってつくった映画。スコセッシといえば、商業主義の映画に対して常々異議を唱えている大御所監督。その代弁としての映画でもあったと思える。

アメコミという文化を商業主義一辺倒にしてくだらない映画を量産することに対して、DCコミックというアメコミを題材にしながらしかも大手のワーナーが絡んでそこに一石を投じる作品をつくりあげた。というのがジョーカーの本質だと思う。

しかも、一番大事なのは、これが一般に受け入れられたということ。とがった映画をつくるだけならできる。だけど、大手配給会社の金を使って、アメコミを題材にしながらも、商業主義を批判しつつ、誰しもがジョーカーになりうるんだなあ怖いなあとかいうメッセージに偽装して多くの人に届け、商業的にも成功したこと。だから伝説になった。そう考えます。

以上。


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