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『迷村』

死ぬ前でも腹は減るんだな、下田は『ラーメン』のネオンに思わずブレーキを踏んだ。樹海まではまだ1時間はかかる、そこから死に場所を探して闇の中を彷徨うにも腹ごしらえは必要か。最後の晩餐が安くてどうってことないラーメンであるのもオレっぽいな、しかも店の名前が『迷軒』。オレの人生そのものだと、下田はそのラーメン屋に入った。

メニューを見る。ラーメン、味噌ラーメン、タンメン、チャーシュー麺、タンタンメン、広東麺… そういえばオレは広東麺というものを食ったことがない。あんかけのかかったラーメンが嫌いなわけではない、ただ機会がなかっただけだ。広東麺を知らずに死ぬってことか。ふと、生きる事にまだ執着しているみみっちい自分が見えて、下田は苦笑した。

広東麺か… 待てよ、今までの人生にないものを知ったら、またこの命が恋しくなってしまうのでは… いつものなんでもないラーメンにするべきなのか… 下田は迷う。なぜこんなに迷うんだ… それはこの肉体がまだ生を欲しているからか… 心はとっくにこの世と訣別してるのに… 迷うとは人間が人間であるための条件なのか… 『迷軒』つまり、この店はあの世とこの世の関所のようなところなのかもしれない。目を閉じぐっと悩みこむ下田を温かい湯気がほわッとほぐす。目の前にもくもくと湯気のあがった広東麺が運ばれていた。関所の役人のような無表情な店主は何も言わずに厨房にさがる。

広東麺を前にして、下田はさらに迷う。これに手を付けたら、オレは死ねないのかもしれない… 温かい湯気を吸いこんだら、また生への未練が生まれてしまうのでは… その直感に動かされ、下田は席を立ちテーブルに千円札一枚を置くと、店を出て車に駆けこんだ。関所を無事通過し、これですっきりとおさらばできそうだ。広東麺の残像と残り香と湯気の温かさを振り切るかのように、下田は樹海に向けて強くアクセルを踏んだ。

「次の信号を… え~… 次の信号を… え~…」

T字路を前にして今度はカーナビが迷い始める。右への矢印、左への矢印を交互に点滅させている。路肩に車を停め、信号を見ると信号機には「迷村」の文字。「まよいむら」と読むのか、それ以上に驚いたのは、信号機の色だ。青も赤もない、3色すべてが黄色なのだ。カーナビの左右交互に点滅していた矢印は、いつしか大きなハテナマークに変わっていた。

オレを樹海に行かせないのか、なんとかこの迷村を脱しなければ。とりあえず、右に行ってみよう、下田がアクセルを踏もうとした時、今度は足元に異変が起きる。車のペダルが何か違う。右足でゆっくり確認する、アクセル、ブレーキ… いやこれはブレーキではない、ブレーキはこっちだ。つまりアクセルとブレーキの間に、もう一つ新たなペダルが出来ている。アクセルは進め、ブレーキは止まれ、ではこのペダルは信号でいう黄色、つまり注意しろという役割りか。下田は恐る恐るそのペダルを踏んだ。その瞬間、車内にはハープの音色が響く。

下田は思わず笑ってしまった。何だこれ。音が出るペダルはもちろん、それ以上にそのハープの音色だ。コンピュータで作った機械的な安っぽい音。自分が高校時代、吹奏楽でやっていたハープの生の音を思い返し、下田は違うだろ、違うだろ、と何度もペダルを踏んだ。その音色はこの迷村にたどり着いた幸運のアタック音にも聞こえた。そして樹海にすら行くこともできない女神の嘲笑にも。下田はペダルを何度も何度も踏みながら涙した。

引き返そうとUターンした下田の足には、真ん中のペダルの感触がなくなっている。いや、ブレーキもない、アクセルしかないのだ。信号がせまる。ドキリとして信号を見ると、3つの色すべてが青信号で点滅している。

ふと右側前方に“ラーメン”のネオン。『迷軒』だ。ブレーキの感触が蘇り下田が咄嗟にペダルを踏む。その瞬間、広東麺のあの温かい湯気が下田の心に立ち昇り、どこかからあのハープの音色が聞こえた。
                             【おわり】


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