Murotaka

阿倍四郎五郎の『元和三年(1617)の伯耆国派遣』について調べているのですが、まずはそ…

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阿倍四郎五郎の『元和三年(1617)の伯耆国派遣』について調べているのですが、まずはその前年の『川中島派遣』に関する話を覚書にしておきます。もうしばらく色々とテスト中です。

最近の記事

守山事件の顛末と花井主水の一件(5)所伝③元和年録(その2)

前回は、六月十日に行われたと云う大坂表での事を扱った一回目の御前公事について見たが、今回は同月十二日に行われたと云う二回目の話を見る。 〇元和年録の場合(以下、年録と略す)2  安西がいうには、この度四家老の棟梁花井は六千石も加増で取っておいて軍役の侍を一人も召し抱えなかった。上総殿の足軽大将までわけわけ四手(※1)にいたし各々預かって軍役に勤めているというのに、これでは知行をとる意味がない。馬が献上された際に、花井がそれを欲しがって忠輝から拝領したが、花井はそれを売って

    • 守山事件の顛末と花井主水の一件(4)所伝③元和年録(その1)

      「元和年録」は、将軍秀忠の御前で行われた花井主水と安西右馬允の対決について詳しい。しかし、他に見えない記事のある事、詳細が述べられているからといって、それがその正しさまでをも保証するものではない事には留意すべきだろう。この御前公事は六月の十日と十二日に分けて行われたので、ここでもそのように分けて扱う事にする。 〇元和年録の場合(以下、年録と略す)  「年録」(※1)においては六月の十日に御前での対決があったと云い、花井は忠輝の母方の爪のはしをもけかす家老分であるのに対し、

      • 守山事件の顛末と花井主水の一件(3)所伝②廃絶録

        廃絶録の成立は十九世紀初頭と、ここで取り上げる文献としても遅い部類になるが、これに先立つものとの相違は以降見ていく中で明らかになるはずであるので、まずはここに見える所をまとめておくとしよう。 〇廃絶録の場合(以下、絶録と略す)  文化年間(1804-1818)末年に持筒同心の小田又蔵彰信が編纂したという絶録(※1)では、この事件を「森山(※2)ニテ御家人ヲ理不尽ニ誅戮」とし、忠輝は八月廿四日に大御所からの使いにこの件の下手人を差し出す事を求められたと云う(149)。  

        • 守山事件の顛末と花井主水の一件(2)所伝①東武実録

          以下では、本題に入る前に、まず守山事件と花井主水に関して諸書の伝えるところをみていくが、ここでの目的は越後少将家をめぐる一連の事態を把握することにあるので、一々の異同に深くは立ち入らない。まずは東武実録の所伝である。 〇東武実録の場合(以下、実録と略す)  実録は、五代将軍徳川綱吉の命により編纂された二代秀忠の事績録であるが(※1)、この一件を「江州守山に於て将軍家の従士長坂血鑓九郎(※2)を理不尽に誅戮」した事件としている(146-147)。  忠輝はこの件を大御所か

        守山事件の顛末と花井主水の一件(5)所伝③元和年録(その2)

        • 守山事件の顛末と花井主水の一件(4)所伝③元和年録(その1)

        • 守山事件の顛末と花井主水の一件(3)所伝②廃絶録

        • 守山事件の顛末と花井主水の一件(2)所伝①東武実録

          守山事件の顛末と花井主水の一件(1)関心の所在

          阿倍四郎五郎の関わった話に絡むものとしてこの件に関心があるのだが、守山事件とは大坂へと向かう将軍秀忠の軍勢が入京する直前に、近江國守山駅(※1)で起きた将軍家扈従人と越後少将家中との間に起きた刃傷沙汰(※2)であり、越後少将忠輝の没落する端緒となった事件である。  大坂陣後、忠輝は家康から下手人の差出を求められても、事態を収拾すべく速やかに動くでもなく、また大坂陣での不甲斐ない働きぶりを責められるとそれを岳父政宗のせいにして、伊達が大坂方と通じていたためと弁じた事から、仙

          守山事件の顛末と花井主水の一件(1)関心の所在