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守山事件の顛末と花井主水の一件(5)所伝③元和年録(その2)

前回は、六月十日に行われたと云う大坂表での事を扱った一回目の御前公事について見たが、今回は同月十二日に行われたと云う二回目の話を見る。

〇元和年録の場合(以下、年録と略す)2

 安西がいうには、この度四家老の棟梁花井は六千石も加増で取っておいて軍役の侍を一人も召し抱えなかった。上総殿の足軽大将までわけわけ四手(※1)にいたし各々預かって軍役に勤めているというのに、これでは知行をとる意味がない。が献上された際に、花井がそれを欲しがって忠輝から拝領したが、花井はそれを売ってしまった。忠輝はそれを知らず、今度本圀寺(※2)でその馬を見て気に入り、越前へ帰国する際、加賀へ所望の使いを出した。上総殿が数年来使っている呉服屋があったが、花井はこの店に代金を滞納いたし、それを請求されると店を変えてしまい、新たな店からの借り入れて滞納分の清算に充てた。先年、上総殿御前にお仕えの房がお暇を致し、馬廻りの堀江土佐と申す者が妻女に致したところ、花井はこの女が奉公中に懐妊したと聞き出してこの馬廻りに切腹を申し付けたのだが、自分は上総殿御袋にお仕えしているお熊という女に手をつけて懐妊させ、須坂(※3)の代官に預けおいた、等々。

 これらの安西の主張に対し、本当の事であったので花井は閉口し、公方様も曲事に思召されて花井の負けとなり改易を仰せ付けられたと云う。(153/513)

 以上が「年録」がこの件について述べるところである。

 年録が元和二年の六月の十日と十二日の二回に渡って行われたというこの御前公事の結末は、遅くとも同月二十六日までには沙汰が下された事が忠輝の書状(※4)により知れる。国許での花井の行状についての真偽は計りがたいが、大坂表の事については、伊達側での動き、そこで見える越後勢とのやりとり、従軍した者たちの所伝と見比べてみると、少将家の執政としての責任から逃れる事はできないとしても、事実関係としては花井一人がために越後勢が充分に働けなかった訳ではなく、年録における安西の言というのは、単に忠輝を庇うためのものであるように思われる(※5)。

次回は、元寛日記についてみる。

※1 四手の事
「堀文書」に「先手は…右四人に御座候」とある(12-19、122/591)。
・松平大隅守(重勝)三条城代
・花井主水正(義雄)松城城代
・山田隼人正(勝重)村松城代
・松平筑後守(信直)厭川城代

※2 本國寺=本圀寺
「堀文書」に「少将殿開陣被致京本圀寺ニ罷有」(12-19、122/591)とあり、大坂陣後に忠輝が本圀寺に滞在していた時の話のようである。忠輝はここで六日、七日の事について「家中善悪の詮議」を行ったと云う。

※3 須坂の事
この当時、須坂は堀直政の三男である堀直重の所領であり、忠輝の支配には属していない。つまりこの話は、花井が他領に女を隠したという事である。直重については「寛政重修諸家譜」〔181〕巻766の48/154、巻767の64/154に見える。

※4 六月廿六日付花井主水宛忠輝書状〔花井文書〕(156/513)
この書状は、花井には切腹の沙汰が下ると思っていた忠輝が、花井が笠間の戸田康長へ預けらる事になったと聞いて安心したという内容なのであるが、あくまで忠輝から花井に宛てたもので、花井からの忠輝への応答を示すものではないため、この書状をもって、花井が無事に済んだ事を証するものとはできないだろう。

※5 公事の結果については(3)の※4を参照の事。
他の史料上から見える処と一致しないにもかかわらず花井が敗訴となったのは、不正があったからというような事ではなく、単に花井が申し開きできなかった事によるだろう。仮に、越後勢の功が薄かったのが、政宗の指示に従った事によるところが大きいとしても、花井には執政として家中を取りまとめて主君の高名に尽くす責任がある事には変わらず、また、自身に非のない事を論じたところで、それはそのまま忠輝の責任という事にしかならない。自身の力の源泉である祖母茶阿局の子である忠輝への風当たりが強まるような事をするよりは、自分ですべて引き受けてしまった方がましだったのではないだろうか。相手方の安西に、主君の為に弁じると訴え出られた事は、花井には分の悪い話であったのかもしれないが、いずれにせよ、家中をとりまとめて、家の浮沈にかかわる死活的な問題に充分に対処できなかったのは、明らかに花井の落度である。

※3/22 ※5を追加 



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