「泡」vol.1

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「泡」vol.1の番外編

インタビュー

N: 成瀬遠足

T: トダリョウコ

K: 神威


〈トダさんにとって「境界」とはなにかの話〉
N: 今回は泡のテーマである「境界」について話しあいたいのだけど、まずトダさんにとって「境界」とはどういうもの?そこから話を広げていこうかな。

T: 最初に浮かぶものは皮膚かな。外界と体内を隔てる皮膚がイメージとしてあって、その薄い皮があることで「個体」が成り立っているけど、それはいろんなものにも通用すると思う。

N: なるほどね。

T: もうちょっとミクロの視点に立つと、細胞の話になるけど、そのなかだけで循環が行われているというよりは、境界の内側と外側とが相互作用で繋がっている。だから境界のなかにあることが閉鎖的なものではないかなとは思っている。あとは自己を証明するのが境界ともいえるし、それは自ら定めたものではなく、外界から形づくられているのかなと感じる。

N:トダさんにとって、相互作用とはどういうもの?

T: 相互作用は、放出したエネルギーが他のものにとってのエネルギーになる、そういう循環のイメージかな。自身にとっての空気の入れ替えじゃないけど。境界がある前提でできること。なんというか隔たりはあるが、繋がっていることがうれしい。同じ水を共有しているみたいで。

N: 混じり合う、一つになる、ことと、交換することはなにがちがうんやろうなって思った。地球を一つの生命体とみる説もあるけど、そんなふうに単位の捉えかたを変えたら、いろんなレベルでそれぞれ相互作用が起こっていると思う。境界は恣意的に決められるけど、どこの視点からみるかが、境界を決めている気がする。細胞や体内外の話をすると。

T: たしかに。

K: トダさんにとっての境界は、もともと皮膚のようなものがあって、それがエネルギーの入れ替わりがなされるラインになっていると理解したのだけど、その線を引くという設定は自分ではできないという感じかな?

T: 自分で引くことはできないと思っているかな。身体も、人間関係についてもそうではないかと思う。自分の身体はどう思っていても案外この大きさのままだし。自分で設定出来たらいいかもしれないけど、できないように思います。

K: 自分も設定できないかなと思う。


〈トダさんが彫刻作品を作りはじめたきっかけの話〉
K: 境界の話で、「泡」の目標にはジャンルのボーダーを超えることがあって、なぜ表現の手段としてそのジャンルを選んだのかということに関して聞きたいと思ってて、たとえばトダさんは絵を描いたり、粘土作品を作ったりしていますが、それをなぜ選んだんですか?

T: 高校のとき、彫刻部に所属していて、彫刻の分野で作品制作をしていたのだけど、そのなかで何点か粘土で人を作っていくと、途中で「ここで腕おわりやな。これ以上粘土を積み重ねたら、ちがう。ここで輪郭が終わった。」という感覚があった。粘土を積み重ねて、「ここでちょうどやな」の瞬間がくる。それがおもろかったのがあって…。皮膚ってあるけど、生まれたときからもってたものでしたけど肉体とかって、それを誰が制限しているかを考えたことがいままでなかった。自分が実際それを作ってみて、「皮膚や肉体って決められたところにあったんやな」ってなった。それが面白かった。そのとき空洞についても興味があった。肉体を決める皮膚があって。それを体感することが、そのときの彫刻においてのでっかいトピックスになっていた。そうやって、肉体の話を考えるにあたって、自分の魂みたいなものや記憶みたいなもの、十何年生きてきた蓄積みたいなものがこの限られた肉体のなかに入っているのか?と思ったとき、「いや、このなかだけじゃなくないか?」と思って、写実的なものだけではなく抽象的な作品も作り始めた。この肉体一つにだけではなく、環境など、自分以外のところにも潜んでいる。そういう考えが、空間的な感覚や彫刻的な感覚、絵を描く際にも影響しているかもしれない。

K: へえー、すごいおもしろい。

T: 手でふれた感覚は大事だったんだと思う。人間として生まれて、この肉体をもった理由を手でふれて考えたかったのかもしれない。それだけで収まりきらないものがあるのかどうかも知りたかったのかもしれない。粘土を使う理由も、「指でなでるのがおもろい」の感覚によるものかも。

K: なるほど。


〈人間はどこからきて、どこへゆくのかの話〉
N: さっき、粘土で身体とかを作っているときに、輪郭の終わりの瞬間を感覚するという話があって、その経験から、自分の皮膚も決められたところにあるという連想に至ったと思うんやけど、そこは自然な流れだった?なんというか粘土を作っているときのそれは、自分が「造物主」になった感覚?それを自分に適用したときに、反対に自分を創造した「神の手」のようなものは想像しなかった?

T: 人間を形作った存在はどうなんだろう…。これを決めた人がおるんやろうな、というか、ここで決められていることになってるんやな、というのは思ったかな、そういうことになってるんやみたいな。でもそういう感覚を初めから得ていたわけじゃなくて、作品を作ろうとした2年目くらいに思ったことで、それまでは人間の模写をしているような感じで、人間の模写と創造する感覚はまたちがう。「そういうことになってますよ」みたいなことを言われたことは覚えてる。その前後に書いてたエッセーに書いていた気がする。

N: 造物主の存在を感じる感覚が、境界は自分で引くことができないという感覚に繋がっている、というか、同じものなのかなと思ったけど、その造物主的な存在(?)が必要なのかどうかはまた別に検討の余地があるのかな。ただ自分以外のところに境界を左右するなにかがあるという感覚はあるんだろうね。「向こう側からやってくる」みたいな。

T: そう。「向こう側からやってくる」っていうのは面白いなー。実際そういう感覚に近いと思った。

N: 「向こう側からやってくる」はどこかで読んだ表現なんやけど、——ショーペンハウアーが、意志することを意志することはできないというようなことを言っていたけど——感情とか意志かな、は、それを思おうと思ってそう思うというわけじゃないと思う、自分で意志していないものがどこかからやってくる感覚は常にある気がしていて、生まれること自体の性質もそうだと思う、まあ生まれようと思ったかどうかは覚えてないんやけど、いま思い出せる限りではそう思ったわけじゃなくて、ただ生きているから生きているだけで、自分の生すらも向こう側からやってきたような感じがある。この時点で「向こう側」と「こちら側」が発生してて、不思議だよね!

T: どこやねん!

N: 向こう側て言うときのこちら側てどこなんやろうね。

T: 向こう側も見当がつかないから。これまでその「向こう側からやってくる」の感覚が、それでいいのかな、と思ってて、そのぼんやりした、コントロールしていない状態であっていいのかを受け入れきれずにいたから、いま話をしてて、それでいいんかと思った。


〈トダさんの短歌と彫刻の話〉
N: この話もしたかった。短歌と、トダさんなら彫刻作品とかのちがいであるとか、共通点であるとか…、この「泡」のように異なるジャンルに分類されるような作品を一枚の紙の上に載せることで、作品が化学反応のようにというか、抽象的な次元で繋がる部分を感じ取ってもらえるんじゃないかと思っていて、境界があるようにみえる何かと何かの響きあう場所というか、通じ合うあう場所、つながるところ、それこそ相互作用が起こる場みたいなのを体現出来たらいいなと思っているんだけど、短歌と粘土作品を二つ並べたときにトダさんが感じることって何?きいてみたい。

T: これは粘土に限ったことではないのかもしれないけど、短歌とかは、成瀬さんや神威さんみたいに、自分でみてきたもの、触れてきたものの感覚が結構言葉で表現されているのかなと思うのだけど、私が粘土でつくってきたものは、指先でつくっているから、指先の感覚からつくっているわけじゃないですか。だから粘土はダイレクトやなと思う。でも、考えたことが指先から、そのまま粘土の形にあらわれるわけじゃないし、ダイレクトにみえるようで、そうでないから、文章にするということとさほど変わらないのかな。と、いいながら思ってた。

N: なるほどなあ。おもろー!

一同: (笑)

T: だから成瀬さんたちもシャーペンとか、パソコンとかで書いたり打ったりしてても、シャーペンとかの先からその感覚がにじみ出ているわけじゃないやん。そう思うと、短歌も粘土もそう変わりないのかも。中継している道具が違うだけというか。粘土とか彫刻表現が結構ダイレクトとかっていうけど、それは触覚的な感覚であって。

N: なるほどね。

T: あとは、風景とか心象風景が浮かぶという点が、短歌の印象的なところかな。たとえば成瀬さんの1首目を読んで、私はマンションの中の光景を思い浮かべるし、一首の中に空間があるというか、詠む人がどこにいるのかとかがわかる気がする。たぶん短歌の批評とかでもそういう話をするんじゃないかなと思うんだけど、そういう空間性がみえるところが面白いなと思っていて。彫刻は触覚的に空間になるけど。でも、空間的であっても表面的な作品もあるっていうか、その奥行きというのがどういう風にできているのか彫刻でも粘土でも、短歌でも注目するべきなのかなと、思いました。

N: なるほどね。いまその話を聴いて気になったのが、粘土作品をみて、他の情報を思い浮かべるのかどうかというところ。トダさんの話では、短歌を読むことで、情報伝達みたいなことがある種行われているのかなと思った。具体的にはなんらかの風景が思い浮かぶとか。そういうことは確かに起こると思うというか、意味?なのかな、意味の伝達が起こるわけだけど、粘土作品をみて同じようなことが起こるのかな、と思った。

T: 粘土、大きさにもよるけど、たとえば大きいもの、国立西洋美術館とかの前に置いてあるような彫刻とかは、場所感覚が結構出てくるのかな。あー、この人はこういうとこにいてたんやなみたいな。でも、小さいもの、あるいは抽象とか、それこそイサム・ノグチみたいな作品とかは、みててこれがどこにあるとか、作者はどこにいるとかはあんまり思わないかなと思う。その作品と向き合った時の体感を楽しむじゃないけど、自分の身体を通したサイズ感の違いとか圧迫されたりとか、頭の後ろでものを思わず考えたりとか、その瞬間に自分の身体感覚との対話が始まるような感じがある。情報というより。

N: いまきいてて、自分は短歌に対しても、どちらかというとトダさんが彫刻などに接するときと同じような気持ちでいたいと思った。だから、作者がどういう状況で詠んだかとかは、考えるのは考えるねんけど、それは別の物語な気がして。たぶんそれは楽しいんだけど、でも自分の向き合いかたとしては小説も短歌も粘土作品も同じようにしたいとは思っている。だけど、短歌って私性に関しての議論があって、私は勉強中だけど、それは短歌の独自性といわれればそうなのかなとも思う。でも、わたしはそこに対して左派というか。

K: うん、言いたいことはなんかわかる。
自分もトダさんが言ったみたいに、情報伝達で読むときと、彫刻と接したときみたいな感覚で読むときの2つのヴァージョンがあるんだけど、現時点での短歌では、その2つが争っているとまでは言わないけど、折り合わない感じはあるのかなと。

N: そうですね。もしかしたら、言語表現では、彫刻よりもそういうことが起こりやすいのかもしれない。

K: もともと言葉自体が情報伝達のために使われてきたというのがあるから。

T: たしかに。そう思うと、彫刻はそこから脱出したのかな。だって、彫刻ももともとは絵画みたいに何かを伝える手段だったと思うし。いや絵画の方が、それに近いか。宗教絵画みたいに。

N: 言語的な側面がある。

K: たしかに。

T: 昔なら彫刻でも神話を伝えたりとか、神秘性を伝えたりとかすることが多かったと思う。いまでも、歴史を伝えるものとしての彫刻をつくる職人みたいな人はいっぱいいるけど、それはまた私とは違うジャンルの人たちかな。そういう分野とかで、この話をすると息苦しくなるけど。

N: いまの話をきいてて、彫刻とかの言語的な側面で思い浮かんだのは、ダビデ像みたいに「こういう身体が理想的なんだ」というのを呈示するものであるとか、あとは彫刻といえるかわからないけど古墳とか。

T: 権威の象徴として。

N: そう。情報伝達的に表象するみたいなことは思い浮かんだ。でも一般に抽象画とか抽象的な彫刻といわれるものは言語的な側面でとられにくい。

T: うん。もしかしたら、その必要がなくなったのかもしれん。

N: そうやな。写真とか動画とかが代わりにやってくれそうな感じがするよな。

T: でも、いまの場合やと権威とかを伝えるような時代でもないのかなと。

N: あー、どうやろ。建築がそれを担うことが多いかなと思った。

T: ああ、そうやな。もっとデカいものを目指すよな。

N: そうや、ビルとかが昔はなかったから。そっか、彫刻とかの情報伝達的な役割は建築にとってかわられたみたいなところがあるのかな。

T: あるんかもね。

N: 建築も彫刻が包含しそうやけどね。

T: そうともいえるかもね。彫刻って言い方がさ、彫って刻むものぜんぶやん。彫刻にはカーヴィングとモデリングとかあるけど、カーヴィングは削ることは、モデリングは積み上げることをいうし。


〈泡の人の短歌と彫刻の話〉
T: 成瀬さんと神威さんが、立体作品と短歌との違いや共通点についてどう思っているか気になる。

N: さっき思ったのが、トダさんが粘土で腕などをつくるときに「輪郭の終わりがくる感覚」があるって話をしてたけど、自分も短歌を書いているときにそういう感覚をすることがあるなと思った。だから、削りだすみたいな感覚があるねんな。ちょっと違うねんけど、でも選びだすより削りだすみたいな感覚の方が近い。

T: へー、ミケランジェロやん(笑)

N: ミケランジェロかもしれへん!自分の感覚では、自分で創りだすというよりも、ミケランジェロ的な感覚の方が強い。何かによって書かされているような。だから、そこに響き合うところを感じました。

T: うんうん。

K: 自分は彫刻というのが、石とか木とか粘土とかの具体物を抽象の世界で表現するというか、具体から抽象へ、具体をバネにして抽象にいくようなものだと思った。それで、じゃあ自分の短歌はどうかというと、自分の具体的な、個人的な体験とか感動を扱うわけだけど、それを具体的なものに終わらせやんと、言葉で具体を超えた何かにしたいなと思っているわけで。だからそういう意味では彫刻と似ているのかなと思いました。

N・T: なるほど。

K: なんかさ、つくり終わったあと、自分の意図せえへんかったことが起こるみたいなことが彫刻でもあるんかな。

T: ありますね。めちゃめちゃ。

K: それが他のジャンルにもあるよねみたいのがあって、それが面白いというか。具体をバネにして、抽象にいったりとか、意図しなかったところにいったりすることが面白いなと思った。自分の手に負えないものをつくってしまったみたいな。

T: 詩とか短歌とかの言葉って、それはもう言葉ではなくて、魂的なものに表象されているというか。この前、成瀬さんにみせた文章で「ここに言葉はないよ」というフレーズがあるんですけど、詩とか短歌とかはあまりテキスト的なものではないよなと思っていて、それのために紡がれたひらがなとか漢字とかは日常生活で使われているものとはまた違う気がする。たとえば、粘土でトマトをつくったとして、それはトマトでも粘土でもないように短歌や詩の言葉も言葉じゃないと思う。それをいい悪いとかで思ってほしくはないんですけど、そう思いました。

N: わかる。粘土作品は粘土ではあるけど、粘土ではないみたいなな。

T: そうそう。これは粘土ではないし、人を象っているけど人じゃないよみたいな。

N: でもさ、粘土ではあるやん。だから、詩も言語ではあるんやけど、言語ではないみたいな。

T:「彼ら」はどこにいったんやろと思う。

N: どこにいくんやろうな。このときの言語は。

T: なんかでも「そこのあいだ」にいけたとき嬉しい。あ!はいった、みたいな。

N: そこのあいだ、めっちゃいい言葉。

T:粘土作品をつくっていても、これがただの塊になってしまわないように頑張るという気持ちはやっぱりある。

N: なるほど。でも、ただの塊になるってどういうことなんやろ。情報伝達の媒体になるわけではないよな。たぶん。

T: たぶんないと思うけど…なんかそこまで変容していないものかな。

N: ああー。意味がないみたいな感じ?

T: そうだね。意味をもつべきとは言わないけど、つくる上では不完全というか、輪郭を与えたいようなもの?さっき削りだすという話があったけど、それを消化不良のまま終わらせたくないという感覚。じゃあ、削りだすときに、削りだせなかったものってなんなんだろう。

N: 削りだせなかったものは、社会の制約とかでかな?自分との闘いでもあるけど。ここを削ってしまったら社会が乱れるみたいな…。

T: 神威さんの具体をバネにして抽象にいくっていう話がいいなと思っていて、さっき言ってた粘土じゃないものにするっていう感覚と方向は一緒やなと思った。

K: その話は今日、話してて思いついた。最近、自分で短歌をつくってもピンとこなくて、結局それって、なんというか言葉の域をでていないからなんだろうなと思う。

N: なるほど。そうやな。私も最近書いていなかったんですけど、それは自分が「向こう側」からくるものを書くことが多かったから、待つ必要がある。

T: 「向こう側」からやってくるという話をしてたけど、「向こう側」からやってきたものをバネにして自分らもまたどっかにいくんやろうな。

N: いくんかな。

T: いくんかな。いくんやろうな。

以上

☆「泡」vol.1は、フリーペーパー版、PDF版、「泡」vol.1の番外編から構成されております。そちらも宜しくお願いします。

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