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【降灰記file.14】ゴキブリは天にもをりと思へる夜 神よつめたき手を貸したまへ(葛原妙子)

ゴキブリは天にもをりと思へる夜 神よつめたき手を貸したまへ

葛原妙子『朱靈』(1970年、白玉書房)
※川野里子編『葛原妙子歌集』(2021年、書肆侃侃房)p.191より

 幻視の女王・葛原妙子の「幻視」について、おもに「幻」をめぐっていろいろ検証を加えられたものの、そのずば抜けた視力におおむね異存はなかったようだ。その上で私が葛原の歌に惹かれるのは、触覚の鋭敏さである。
 掲出歌について、まず唐突と思える上句から。これは連作の末尾に置かれている。

空󠄁雷のひらめく透明となる空にかすかゴキブリの影はうごきゐつ

同 p.190
※旧字は新字

 連作中にあるこの歌を受けてのものだろう。雷が光るときに明るくなる空を「透明」と言い、そこに光の残像だろうか、「ゴキブリの影」を見る。ここにも幻視、つまり優れた観察眼に裏打ちされた特異な言語感覚が見て取れる。その後、連作は家にいるゴキブリ=油蟲の執拗な観察に移る。正直、気味が悪い。家にも天にもゴキブリのいる逃げ道のなさからくる「神よつめたき手を貸したまへ」呼びかけは、パトスからカタルシスを誘う叫びに聞こえる。
 一方、語り手が要請した肝心の神の手はつめたい。ここから作者の宗教に対する態度を考察しても良いが、このつめたさの源泉をもっと即物的に考えて良いと思う。たとえば、彫刻の手。一部の人を除いて、神を視認する方法は偶像に限られている。この歌を読むとつめたくてすべすべした石や金属の感触を思い出す。彫刻でも仏像でも良いがその手に触れてみたいフェティッシュな感覚を喚起する(そして、触れることは大抵むずかしい)。

アンデルセンのその薄󠄁ら氷に似し童話抱きつつひと夜ねむりに落ちむとす

葛原妙子『橙黄』(1950年、長谷川書房)
※同 p.6 旧字は新字

 薄󠄁ら氷に似ているのはアンデルセンの童話の内容そのものでもあり、坂口安吾「文学のふるさと」の言うところの「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」を想起しないでもない(もっとも安吾の場合、シャルル・ペローの童話を例に挙げていたが)。というよりかは、本を触れたときの冷たさや厚みといった手の感覚を詠んでいるように思う。防寒の自信がないまま、浅間山麓に疎開したという作者の経験とともに読むことが許されるなら、その触感はより鋭くなる。

火葬女帝持統の冷えししらほねは銀麗壺中にさやり鳴りにき

葛原妙子『鷹の井戸』(1977年、白玉書房)
※同 p.218 旧字は新字

 遺灰が冷えてゆくつめたさも、「さやり」などの音感の鋭敏さも「銀麗壺(ぎんれいこ)」の冷ややかな感触に回収されている。古代の骨壺や神の手を想像する記述には、触るという日常の経験がバックにある気がしてならない。

文・景川神威

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