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【降灰記file.02】追伸に/ウソと書かれたブルーナの絵はがき/臆病者のうさこ(北川草子)
追伸に
ウソと書かれたブルーナの絵はがき
臆病者のうさこ
※『シチュー鍋の天使』(2001年、沖積社)を豆本化、元は一行書き
最近のドラマにあまり魅力を感じない。今のドラマが退屈になったといった類のぼやきではない。基本的な構成は変わっていないし、むしろ、画質などの技術面はどんどん向上している。私は単に古い画質や衣装、メイクに愛着があるだけなのだと思う。それがドラマの内容と合致しない違和感というか。
絵はがきに文章が書かれている。強く感情を動かす内容かもしれない。その末尾に「ウソ」とだけ書き加えられる。手紙の受け手が動揺する瞬間。惹きつけておいて離す送り手の人物像が浮かび上がる。あるいは、「臆病者」とあるからそのウソもウソかもしれない。
絵はがきというメディアもさることながら、「ウソ」という片仮名表記(私は書き手の癖字まで想像できる)、今やミッフィーという名で通っているうさこは、すべて小道具として一昔前のものだ。そして、何より90年代という時代の文化を私がなんとなく知っていて、なおかつこの歌集が90年代の歌集であることを事前に知っていたから、私はこの歌をその「画質」で見ていられる。この歌は良い歌だ。一方で、2023年現在、この歌が前情報なしに私の目の前に現れたら……? しゃあしゃあと「ドラマティック過ぎる」などと言ったのではないか。
しかし、私が問いたいことは「こういった歌を作りたいのだが、今でも作れるのか?」なのである。小道具も画質も最新版で書かざるを得ないなか、内容をそのままに書くことは失敗に終わるだろう……。この問いについて、ここでは置いておきたい。
一方、この歌の謎は、差出人が不明であるという点だ。主体から読み手への歌と読んでもよい。というか、そうした設定すら留保にしたまま、留保していることすら意識させないで読むことができるのが短歌にみられる現象である。この歌に(比較的)普遍的な点をあげるとすれば、そうした解像度の低さを意識せずに短歌は楽しめるということじゃないか。無理やり言えば、それは、過去の自分がかなり低い画質を気にせずにテレビや映画を楽しんでいたことに似ている。
(文・景川神威)
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