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【降灰記file.11】送られて初めて知った廃屋の絵文字に笑い「いいよ」と返す(榊原紘)

送られて初めて知った廃屋の絵文字に笑い「いいよ」と返す

榊原紘『koro』(2023年、書肆侃侃房)p.37

 会話という複線的で立体的なやりとりに対して、メールやチャットは単線的で平べったいものになる。チャットでは、本題に関わりのない話題に脱線しづらく、前の話に戻りにくい。相手がそこにいないために、話のターンの柔軟性が乏しくなるからだろう。
 そして、よく言われる相手の「表情」が見えないという話である。「表情」というより、その雰囲気が醸成される空間を欠いているのだと思う。人の表情、声のトーン、仕草、照明の具合、風景、空気、間、見ていて気の散りそうなもの、今食べているもの……なんでもいいのだが、そうしたものが存在したり、響いたりする場所がメールやチャットにはごそっと抜け落ちている。そのコミュニケーションの不完全さを埋めるために、文末に「笑」をつける人もいる。

 掲出歌の感動的な点は、不完全なコミュニケーションが、歌の中で完全に近い形で示されていることだ。語り手は、「廃屋の絵文字」を初めて知ったことを相手に伝えたかったはずだ。そして、笑い声をあげて自分の感情も伝えかったかもしれない。それらを削ぎ落して、用件にただ三音で「いいよ」と返信する。空間がないチャットの不便さを考慮してか、あるいはあえて伝えなくても相手とは親密だからと割り切ってかは不明だが、歌の中の事実としては「いいよ」だけが伝えられる。しかし、読み手は「いいよ」以外の情報を相手の代わりに知ることができる。語り手が廃屋の絵文字を知って、笑い、了承に至るまでの流れが歌の中だけでは再現されている。なされなかったやりとりが、幻のように立ち上がる。「廃屋」はそうしたコミュニケーションが本来なされるべきだった場所の幽霊にも見える。
 最後にもう一つ、歌はもっとも肝心な「用件」を語っていない。「必要最低限のことだけを話せ」とはよく言われることだ。語り手は「必要最低限のこと」のみを相手に告げるが、一方、歌は必要な「用件」を読み手に見せない(正確に言えば、この歌の前が〈色褪せた幟のそば屋きみはまた正義の味方くらいの遅刻〉(p36)だから、用件は「遅刻する」と推測できる。しかし、確証はない)。ここにも掲出歌の感動的なところがある。それはコミュニケーションを情報伝達の単なる道具から、親しい人と無駄な話をするだとか、感情のわかちあいをするだとか、もっと広範な部分に属するものとして奪還する喜びに近い。

文・景川神威


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