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【降灰記file.08】普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ(栗木京子)

普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ

栗木京子『夏のうしろ』(2003年、短歌研究社)
※東直子・佐藤弓生・千葉聡編『短歌タイムカプセル』(2018年、書肆侃侃房)p.77より

 アンソロジーから歌を引用して、評をすることについて。なるべく、歌集、連作から引いて評をしたいという思いはある。もちろん、一首だけだから見えることがあることは知っている。そして、『短歌タイムカプセル』の場合、作者の自選(一部の歌人および故人を除く)なので、アンソロジー中から一首とり出して評をすることは作者の意図に反しないのではないかと判断した。その判断の責任は当然、私にある、とした上で評を始めたい。

 歌意としては、「人を殺すな」に尽きる。たとえば、武装して人を殺すことだってもちろん許されないのに、まして普段着のシャツで殺人など言語道断である、ということを言っていると思う。「ひらひらのシャツ」には、人間の命を奪うことに対する軽薄さへの非難が読み取れる。もっともだろう。
 一方で、「普段着でなければ人を殺めていいのか」や「少なくとも日本での殺人事件は普段着で行われる方が多いのではないか」などといった幼稚な屁理屈が頭を掠める。それはこの歌が社会における倫理やリテラシーに支えられている面が大きく、歌それ自体では独立しえないということに原因がないではない(それを言い出したら他の短歌もそうだ)。それよりも、バスジャック犯の衣服に着目する語り手の目の特殊さが、そうした思考を生じさせている気がする。
 繰り返しになるが、歌の重心は「人を殺すな」にある。しかし、語り手の着眼点は「普段着」にある。強いメッセージ性と語彙を詰めた上句から、下句の軽薄な普段着の描写にスライドされると、歌の重心もそっちに移ってしまった錯覚に陥る。歌は決してドレスコードの話をしたいわけではない。あくまで人命に対する態度を問題としたいのだ。頭ではわかっている。ただ、どうしてもその特異な観察眼が気になるのだ。「普段着」に歌が固定されて、そこへ皺が寄っているような。
 この歌はいわば社会詠なのだが、その印象は読み直すたびに何度も翻るように変わる。

文・景川神威

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