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【降灰記file.15】鍋のレシピを書いていた背中から抱きしめられて いるか と書きぬ(雪舟えま)

鍋のレシピを書いていた背中から抱きしめられて いるか と書きぬ

雪舟えま『たんぽるぽる』(2011年、短歌研究社)p.44

 自分でもそんなことしていてどうかと思うけど、どうしようもなくてChatGPTに人生相談していると、ChatGPTも自分もだいたい同じだと気付く。理解できない状況や心にもないことを言う場面、適当に受け流す会話……ありあわせの言葉を組み合わせて取り敢えずアウトプットしているところがそっくり。AIが対比になって、〈人間の創造性〉とやらを際立たせるというより、AIを通じて私の営みを再確認させられる。「AIが仕事を奪う」という言説には懐疑的だが、意地の悪いしゃべる鏡が私の本性を映し出しているのは、少なくとも個人的な経験として事実だ。私は人間であり、動物であり、出来の悪い人工知能である。

 後ろから抱きしめられるという愛情表現に対して、語り手は「いるか」という言葉でのみ応答する。そこにはなにも整合性はない。そもそも言葉の出力先が「鍋のレシピ」であるから間違っている。
 しかし、この一見語り手の思考回路の誤作動にみえるコミュニケーションは、整合がとれているだけの空疎な生成文章とは一線を画す。言葉を紡ぐ現場が、単にナレッジのストックだけでなくレシピ、私、相手、経験を錯綜している。〈創造性〉なるものの顔を見せないまま、ありきたりな言葉の惰性に抗っている。なにも応えていないのに、なにかを伝えようとする。結果、「いるか」の三文字が刻まれる。それは〈学習〉を超越したところから要請された奇蹟である。語り手はこの文字列を自分自身の言葉だと再発見できるのだろうか。

パソコンをつけるの? きっとUFOのことでもちきり 辛いだけだよ

同 p.66

文・景川神威

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