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【降灰記file.06】雨かんむりにヨーヨーのヨで雪が降る つき子のつきは高槻の槻(長谷川麟)

雨かんむりにヨーヨーのヨで雪が降る つき子のつきは高槻の槻

長谷川麟『延長戦』(2023年、現代短歌社)p.139

 口頭で自分の名前を説明する方法は二パターンある。一つは部首などのパーツで言う方法。「神威の神は、示偏に、申すで……」。もう一つが、熟語などから取ってくる方法。「威は、えっと、威力の威……威風堂々の威で、神威です。はい……」。掲出歌の場合、上句が前者、下句が後者の方法でそれぞれの漢字を指している。「片仮名のヨ」や「木偏に規範の規」ではなく、「ヨーヨー」「高槻」の意外性が面白い。
 川上弘美『センセイの鞄』の主人公・ツキコさんは、確か月子と書いたと思う。そのせいか「つき子」には月の気配がある。一方、槻はケヤキの古い名前らしい。月もケヤキもいずれにしろ高いところにあるから、それを見る視線の運動は雪が降る運動と対になっている。それは垂れ下がって、また手元へ上ってくるヨーヨーの動きに似ている。
 「つき子」の由来はおそらく高槻ではないだろう。けれど、歌に提示された由来のヒントは「高槻」のみである。なにかそこには名づけというものの根拠のなさを見てしまう。学校の宿題で自分の名前に込められた思いを命名者に尋ねた際、後付けの理由を聞かされた人は少なくないはずだ。作者によって「槻子」と名付けられた人物も同様で、具体的ないわれがない気がする。それを言うなら高槻は大阪の地名だが、地名というものの由来にはどこまで信憑性があるのだろう。むしろ、由来の方があとからくるのではないか。

私には歌しかないとは思えない鳥取砂丘コナン空港

同 p.218

 上句の表明のために、なるべく意味のなさそうなものとして呼び出された「鳥取砂丘コナン空港」。鳥取空港の愛称であり、砂丘もコナンも鳥取県にちなむものだ。けれど、読んでいるとゲシュタルト崩壊(?)して鳥取・砂丘・コナン・空港と意味のつながらない文字列にも見える。たまたま居合わせた言葉たちのようだ。それに江戸川コナンも、その場にあった本の作者の組み合わせから咄嗟に自分の名前を決めたことを思えば、やはり名前の根拠というのはかなり薄い。鳥取砂丘コナン空港、この単語の羅列が砂丘のイメージもあいまって空疎な響きをもたらす。
 人生の根拠を必ずしも「歌」に求めないのは、歌との出会い自体が偶然だからではないか。名前も根拠や意味の希薄な偶然から案外成り立っているし、名前の意味をあまり意識しなくても人は生きていける。

文・景川神威

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