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宅録家kamuidadの宅録雑記③

ここまでで書き忘れていた事があります。私は1989年に生まれ育った北海道を去り、京都の大学に入学します。バンドに加入したのは1991年と記憶してます。ここまで書いた話は全て京都を舞台にした話です。それまでバンドをやった事のなかった私が、21歳の時、急にバリバリプロ志向のバンドに加入した経緯は、私にとってとても煌びやかなある思い出が出発点としてあるのですが、それについてどうしても書きたいので、今日は書きます。

私は外国語学部に通う大学生。この学部を選んだ全ての発端を遡ると、それは小学5年の時にスタートした洋楽人生がルーツで、11歳の少年の脳天をかち割るような衝撃的なある曲との出会い。Billy JoelのAllen town。ちょうどその頃シングルカットされ、世界的な大ヒット曲だったんですね。そこを起点にして、中学入学とともに始まった英語学習のモチベーションは、兎に角「英語で自分の好きな歌を歌えるようになること」この一点のみでした。高校生ともなると、発音はネイティブと同じだし、英語の先生より英語の知識があって、英語弁論大会で全道大会にも行ったりしてたので、外国語学部っていう選択は、周囲も納得だった筈。でも、進んだのはスペイン語学科(笑)。そんな「洋楽かぶれ」でもあり、とにかく小さい頃からオホーツクの海しか見ていない道産子ですから、「この海のずっと向こうにアメリカがあるのだな」なんて思って育ったわけで。

そんな子が京都に行ったら、外国人がわんさかいて、大学の先生にも勿論たくさん外国人の先生がいる。そうするとどんな遊びを覚えたか、というと、「外国人が集まる夜の溜まり場に出没する」という遊び。で、当時は不思議と、今となっては感覚としてもうあり得ない様な、ピンポイントな外国人との出会いがたくさんあったんです。

例えば、長岡京市にHothouse Flowersのライブを見に行った帰りの阪急電車内で、あるアメリカ人の二人の男性に声をかけられ、「Youもライブ行ってたのかい?最高だったね!You今から飲みに行こうよ!」って誘われて、そのまま自宅のある西院で降りずに終点河原町まで行くとか。

あと、大学の学食であるロシア人の男性に声をかけられて、道を教えたついでに友達になったら、その子が祇園のロシア料理レストランでロシア音楽を演奏するプロで、でも大のメタル好きで、僕のアパートでブラックサバスやメタリカを一緒に聴いたり。

本当に素敵な思い出ばかり、、、

今では存在しないとは思うんですが、三条木屋町を上がったところにあったBack Gammonって言うバーとか、四条河原町にあった地球屋って言う無国籍居酒屋とか、川端丸太町にあったmetroって言うクラブとか、週末になると遊びに行くようになったんです。そこで色んな国の色んな友達が出来た。

その外国人でごった返すBack Gammonで飲んでいた時に、一際オーラの強い、日本人離れしたルックスのロン毛のハードロックにいちゃんが、ボーカルのJoe(これはバンドネーム。後にバンドを去る事になる)だったんです。背中まで伸びるブロンドのロングヘアにぼろぼろに破れたジーンズ。黒の革ジャン、上半身にアクセサリーをたくさんぶら下げ、タトゥを入れた彼と初対面で意気投合。「一緒にバンドやろうぜ!」となった。

本当に毎週末、彼のアメリカンバイクViragoの後ろに乗って、二人で深夜から朝まで木屋町や河原町で飲み歩いてました。僕にとってのJoeとの思い出が、私の音楽家としてのキャリアの全ての始まりだったんです。彼とのあの夜が無ければ、私が宅録をやる事は100%なかったんです、、、


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