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美しくない日本語

父の書棚の脇に布団を敷いて寝ていた幼少期の思い出。朝目が覚めるとまず、書棚に並ぶ書籍の背表紙が目に入ってくる。さまざまな本の背表紙の印象が、そのままこの幼少期の印象に繋がっている。背表紙の紙の材質や、色合いやフォント、そして何冊も連なっている事で言わば「背表紙の集合体」と化しているその光景を布団の中、寝ぼけ眼でしばらく眺めているのが私の朝の日課だった。

ある朝、司馬遼太郎の「人斬り以蔵」の背表紙が気になって、これを書棚から引き抜いて表紙を見た時の不気味さと恐ろしさ。「どんな話なんだろう?」と興味が湧くが、幼少期の私に到底読める訳もなく、実際にこれを読んだのは社会人になってからだった。

本を読んで育ったか否か。これほど、後に大人になってその人の言語活動を決定付けるものは無いと思う。そしてその「本を読んで育つ」を決定付ける最も大きな要素が、上のエピソードに見られるような、「親が本を読む人間か否か」ではないだろうか?

父も母も本を読んでいた。特に母はひときわ本を読む人で、母の一族は皆本好きだ。

私も自然と、中学生くらいから少しずつ本を読む様になった。大学生の頃には、ろくに授業にも出ず、作家を目指して小説の執筆などに励んでいたものだ。

日本語という、この美しい言語。複数の異なる言語を学習すれば、自ずとその個性や特異性に気付く。

しかし、いつの頃からか私は、美しい日本語ではなく、「美しくない日本語」のほうに、より注意を払うようになってしまった事に気づいた。

それは決して好意を伴ったものではない。むしろ吐き気を伴った、嫌悪の感情と共にある気づきだ。

例えを示す。

ラジオ番組で紹介される、リスナーからのお便りやメールの類。これが笑える。どのリスナーも同一人物であるかの如く、とことん「没個性文体」であり、まるでコピペでもしているかのよう。それらは大体こんな感じの文章だ。

「〇〇さん、いつも番組を楽しく拝聴させて頂いております。相談させて頂きたい事があり、メールさせて頂きました。旦那が家事分担をなかなかしてくれずモヤモヤしています。私は35才で4歳の男の子がいます(中略)長文乱文失礼しました。これから暑くなりますが、〇〇さんはじめスタッフの皆さん、ご自愛ください。」

私はこの文章に30秒で名前を付けた。

それは「拝聴、させて頂く、旦那にモヤモヤ、ご自愛」文体だ。

(この文章は1000文字丁度で書かれています)

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