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私がもしも日本の大学に通っていたのなら


オーストラリアで大学を卒業して三ヶ月が経った。

在学中から考えていたことではあったが卒業してからより頻繁に考えるようになったことがある。

「私がもしも日本の大学に通っていたら」

とういうことについてだ。

一つ言えることは、日本の大学に通っていたら必ず私は四年間遊び呆けて適当に大学を卒業してなんとなく就活をしていただろう。

Youtubeも始めていなかったし、noteだって始めていなかったと思う。なぜなら自分が日々何のために生きているのか分からないであろうから。分からないというよりかは知ろうとも思わないし、まず違和感にも気がつかないからだと思う。

こう言うと今は人生において明確な目標があるように聞こえるが、そういうわけでもない。しかし、今現在私は日々を他人に敷かれたレールの上を歩いているわけではなく、自分で作ったレールの上を歩いている感覚がある。

このレールの終着地点がどこにあるかは分からないし、どっちの方向に行けば良いかも模索中だ。でもこれは他の誰かや社会に決められた道ではないのは確かなのである。

もう一つ言うとしたら人間の厳しさと優しさを肌で実感することはできなかったと思う。

日本人は建前の文化だ。いくら相手に対してネガティブな感情があったとしてもそれを必死に心の奥底に隠している。

しかし英語圏の人間(少なくとも私が見てきた人々)は嫌なことは嫌だと嬉しいことは素直に嬉しいと言う文化で育ってきた人ばかりだった。

時にはストレートに言われて傷つくこともあったが、人間と人間で語り合えている感じがして私はなんだか嬉しかった。




今私は自分でこのままオーストラリアに滞在し続けることを決断し、そのための仕事も見つけ、自分だけで生計を立てて生活している。

もし日本の大学に行っていたら未だに実家で暮らし、両親に甘えて生きてたのだと思う。そう思うと海外へ来て生活して良かった。お金を稼いで生きることの大変さ、どんな時も一人でいることの辛さそして喜び。

家を引っ越すにも、仕事を変えるにも全て自分で判断して責任を取らなくてはいけない。大学生を終えて自分が社会人としての第一歩をこうして清々しく歩めているのは海外でずっと一人で生活してきたおかげでもあると思う。

もし日本の実家暮らしだったらもっと責任感も焦燥感もなく親に頼ってばかりの大人になっていたと思う。周りが就職をするから自分も就職をして社会に決められたレールの上を歩いていた。


今もまだまだ不安なことはあるし、ダメだと思うことも沢山あるが、今は自分が社会人として、大人として良いスタートが切れたことを褒めてあげようと思う。


これからのことはまたもう少し今の生活が落ち着いてから。



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