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”書くという行為”にまつわる気づき

自分の考えを、ブログなど不特定多数の人が知る場へ出していく
という入り口に立った頃は、とにかく毎日書くことを自分に課していました。
「自分で決めた”毎日書くという課題”をこなすこと」が一番の目的でした。

が、最近は、
私が書くという行為を通して得たいものは、「言語化しようとする段階において深く気づくこと」が大きいと気づきました。

自分が書いたものを後から読んで感じるのです。
とにかく今日「出すこと」を目的にしていた記事と
何かをきっかけに深く内省したことを書きとどめた記事を比べたら
明らかに後者の方がよいと感じることが多い。
理由は、そこに思考の跡が重力として感じられるからなのかな?と思いました。


私のなかで読みやすい記事になるまでには、大きく以下の3工程を経ます。

①形ないものを、自分のなかで”それは何であるか”と考察する段階

②何かしら腑に落ちる感覚を得て、粗削りだけどそれを言語化してみる段階

③客観的にみて(いきなりその話をされた人の状態を想像して)、その話は理解できるか?
=順序立っているか。イメージできるか。こころが動くほどのある種の”強さ”があるか?を検討し、伝わるように調えていく段階

何かについて書くという行為はこうした工程を経るので、
かなりのエネルギー(意識を向けること、時間)を投下します。

それだけに、書く対象となる事柄にはその時の自分にとって価値があるのだな。それを書き留めていくというのは、子どもの成長記録を写真に収めていくような行為で、なかなかいいものだなと思いました。

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