The Act of Killing 映画感想

今更ながら「アクト・オブ・キリング」鑑賞。

1965年、インドネシア大統領スカルノがスハルトのクーデターにより失脚。その際に共産党員狩りと称した大虐殺が行われた、9月30日事件を追った作品。犠牲者は100万人以上言われている。当時虐殺を担ったプレマン(やくざのようなもの)たちは今でも英雄と称えられている。
監督は当初被害者たちに取材を試みたが、彼らがあまり語りたがらないことと、当局から接触を禁止されてしまったため、取材対象を加害者へ変えた。「あの時のことを映画にしませんか?」と持ちかけたのだ。すると、「我々の偉業を後世に残すことになる」と大乗り気。加害者自らどのように殺したかを嬉々として話し、演じる。「自分たちは正しいことをした。誤った考えを持った共産党員は殺されて感謝しているはずだ」・・・
しかし、当時の再現をしているうちに、心の奥底にしまい目をそらしていた罪悪感に気づき、自問し始める加害者が現れる。自分は罪を犯したのか・・・?

あらすじはだいたい知っていたものの、なかなかハード(長いので途中寝てしまったが・・・)。
殺人をカメラの前で堂々と正当化する人たちが現代に存在し社会的地位を築いていることにも驚きだが、注意深く見ていると被害者の痛みを直視しないようごまかしているのが見て取れる(全く罪悪感のない人もいるが)。直接殺害に関わらなかったものの、「そんなことが行われていたとは知らなかった」と不自然にシラを切る人も。
悪人が悪事を働くわけではない。他人事ではないと思わされる。

映画では、アンワルという1000人以上殺害したプレマンがメインに据えられているが、彼は41人目の取材対象者で、他の加害者と違い、演じているうちに生じる大量殺害への違和感を隠さなかったとのこと。映画撮影後、団体からは脱退したそうだ。
加害者が本当の意味で反省するには、どのようなプロセスで気付いてもらうのがよいのか。そのヒントとなる映画であると思った。


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