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「愛と健康と美しさ」と相容れない合理主義

先日読んだ新聞記事と、たまたま読んでいたドストエフスキーの『悪霊』が自分のなかで絡まりあって、思うことがありました。
今日はそのことについて書こうと思います。
先日読んだ記事はこちらです(途中までしか読めないと思いますがご了承ください)。

事件そのものは被告に殺人の罪を問うているので、なんら疑問はありません。
ただその周辺状況を見たときに感じたのは、醜いのは誰か、ということでした。

わたしは美しく在ること、美しく生きることを自分の中心に据えて生きてきました。
いわば哲学、または宗教の教義のようなものとして、美学を指針に生きてきたのです。
そしてこれからも、美学を指針に生きていくつもりです。
この美学について説明すると、少し長くなってしまうので今日は詳しく言及しません。

昨今、考え方に揺らぎが生じてきたようにも思いますが、
産業革命から200年余続く、根強い合理主義的な価値観。
合理主義と相性のいい資本主義的な生き方。
利益を追及すること、自分の支出や損失は最小限に抑えて利益を享受すること、得をすること。
それが正しい生き方で、幸福な生き方である。
ここまで端的に理解していないとしても、行動指針を見ればある程度当てはまる生き方を善しとする、
ということはまだまだそこかしこに見受けられるように思います。
(学術的ではなくあくまで主観です。個人の感想なので)

ですが、表題にも掲げたとおり、愛と健康と美しさというものは、合理主義と相容れないのではないでしょうか。
(愛と健康と美しさに対し合理主義とおいたのは、ドストエフスキーの『悪霊』に言及されていたからなので、気になる方は『悪霊』を読んでみてください。)
なるべく自分の損失を抑えて、大きなリターンを得る、
つまり、わたしにはそれは、利己的な生き方に思えます。
わたしは利己的な人間が嫌いです。

(人が生きていくうえで利己的な要素がゼロということはあり得ないと思っているので、ここでいう利己的な人というのは、
人の尊厳を踏みにじってでも、
つまり、人から同じことをされたら当然憤慨するけれど、
自分には人の尊厳を踏みにじってでも利益を得る権利があり、
ここで利益を得たのは自分が合理的に優れているからだ、
と思い込んでいる人のことを指しています。)

利己的な人は、視野が狭いから嫌いです。
自分の立場でしかものを見ません。
自分の世界でしか、世界を理解しようとしません。
世界にどれほど自分とは違う人間がいて、
違う立場があり、
違う生物が存在しているのか、それを知ろうとしません。
それでも自分の世界のなかでは、自分は正しい善人である、
という自己判断をしている利己的な人によく出会います。
そこに美しさはありません。
わたしにとっては利己的な人は、善どころか悪です。
自分の利益を守るためには、なにをしてもいいのです。
悪を成しても、それはその人にとって善なのです。
自分が最大の利を得るのはもちろん善なのだから。
わたしはこういう人に出会うと、醜い人だなと思います。
美しくないな、と。
自分の利益を守ることで、愛も、健康も、美しさも、
少しずつ損なっていることに気がついていない。
だからわたしはこの事件のように、
被告の不器用さや愚かさを利用して、自分の利を追及しようとする人たちが嫌いです。
美しくない。とても醜い生き方だと思う。
わたしを貫く美学が揺るがない限り、
わたしはこの美学がノンとする生き方をしている人々にも、同じようにノンを突き付け続けると思う。
あなたの生き方は醜い、と言い続けると思う。

Kamoi

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