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『晴天の街』

 かっぱの肉を出す店があった。真偽はわからない。
 名無し少年は、この店がきらいだった。
 名無し少年は街の隅にあった小さな池が埋め立てられ、この店が出来上がった時のことを、よく覚えていた。真っ白い外壁、適度に磨かれた窓、手入れの行き届いた花壇、真っ赤に乗っかかる三角屋根も。幼かった少年の目には、可笑しいくらいに焼き付いていた。
 名無し少年はこの年、春から街を歩いていた。他の少年たちも同じように、毎日街を練り歩いていた。行先などなかった。これはこの街に伝わる風習だったのだ。毎日街を歩き回る。時々立ち止まっては、街の中央に屹立している大きな、白いスピーカーを見あげる。そしてまた歩く。
 雨の日も、晴れの日も、夜明けも真昼も日没も、少年たちは街で歩きながら過ごした。屹立するスピーカーも闇に浮かび、晴天に照らされ、そしてまた闇に沈む、その日常を繰り返していた。
 それにしてもこのスピーカーは可笑しかった。根元に巨大な猛禽の骨が葬られてあるとも、街はずれの大池に住むかっぱたちの声が収録されているとも、様々な噂を抱えていたのだ。何と言ってもこのスピーカーは、音を発するということがなかった。もう何百年も前から。スピーカーは街の中央、街の一番高い場所にあってすべてを見下ろし、黙りこくってきたというのだ。だが少年たちは、いやこの街の人々はそれに一向かまわなかった。彼らは見あげた。そして歩いていた。
 もう一つある。この街の街路では時々、灰色のフードを被った男たちが、練り歩く少年たちに近づくことがあった。彼らは決まって少年たちに声をかけた。
「これからさき。これからのことを。」彼らの合言葉だった。
 名無し少年の答えは決まっていた。
「あめ玉をつくります。」
「あめ玉職人になると?」
 フードたちは毎度、温かくも冷たくもない、よくわからない温度の息を少年の頬に吹きかけた。少年は毎度、答えていた。
「職人にはならない。だけどあめ玉は球体だ。ただあの中に、あの球に世界のすべてを織り込んでみたいのです。」
「あめ玉職人になるってことか!」
フードたちは勝手に納得をして、いつも去った。そしてまた、あたらしいフードたちがやってきた。
「あめ玉をつくります。」
少年は答えて、街を歩いた。スピーカーを見上げて、歩いて、きらいな店の気配に戦慄した。そしてまた歩いた。
 
 あざやかに新緑が芽吹き、街の緑も深まりつつある五月だった。街路に踏み出す少年のこころは沈んでいた。例のフード男たちが、大勢で隊列を組んでまで街ゆく少年を追い回すようになったのだ。「職人になるのか!」「職人になるのか?」フードたちの声は、美しい黄緑色の木漏れ日の中で、毎日灰色に響き渡った。
 そしてある日のことだった。あめ玉づくりの親方が、少年を呼び出して耳打ちした。やさしく弾んだ声だった。
「少年、晴天の祭りへ出展のチャンスだ。」
 少年は、肩をすくめた。ポロシャツの襟で口元をうまく隠すと、笑うように、もう一度肩をすくめた。
「祭り…」少年は呟いた。
 晴天の祭りはかっぱたちへの感謝祭だった。ずっと昔、とりわけ大きな水害でかっぱたちに救われ、生きながらえた人間たちは、河童の模様を織り込んでつくったあめ玉を、大池に捧げた。これがこの祭りの起源だった
親方はその日、本当にもう、喜ばしげに少年を見つめた。
 少年は積み上げられた砂糖の山を確認した。そして小さくうなずいた。
「つくり方は、心得ているな?なあ少年?」
 親方は、念を押すように、少年の肩をグンとゆすった。少年の顔色が、すこし褪せた。親方は、その褪せ方と同じ程度で、肩を握る手を緩ませた。
「まさか。」
 親方の目の色が変わった。
「そう、そのまさかなのです。」
 少年が答えた。
「どうしても嫌なのです。」
「どうしても、かっぱは嫌だと?」
「はい。どうしても、かっぱだけはつくりたくない。」
 少年も親方も、同時にガックリと肩を落とした。
「でもひとつだけ。」
 少年は、問いかけるように親方を見あげた。親方は、きらめく少年の両目を見つめた。
「あの鳥をつくりたい。」
「ああ。あの大きな鳥のことだね。」
「そう。あの巨大な鳥を。」
 少年は遠くを見つめた。
 かっぱ一族が住み着く以前、この地を支配し、空を飛び、雨雲に化けては水害ばかり起こし続けていたという巨大な猛禽たち。彼らは目には見えないだけで、夏の終わりにこの街の上を、旋回飛行しているのだと、そんな噂は街中で、まことしやかにささやかれていた。少年はどうしても、その猛禽をつくりたかった。かっぱではだめだった。どうしてなのだかわからない。でもどうしても、かっぱではいけなかった。なにより少年の目の裏は今、とりどりに発光し、夏の夜空をさざめかせる、猛禽の絵でいっぱいだった。
「かっぱを選べば、確実にあめ玉職人になれるんだ。それになあ少年、かっぱへの捧げものだから、晴天の祭りのあめ玉は。心得ていなければどんな祟りがあるか、わからない。」
親方は言った。少年はうなずいた。
「なあ少年、少年にはこれからがあるんだ。」
親方は、激しく少年の肩をゆすった。
「それでもかい?」
「でも普段祝われない猛禽から祝福を受けるこれからだってありえるのでしょう?」
親方はため息をついた。
少年は叫びのように言い放った。
「やっぱりどうしても、どうしてもあの猛禽をつくりたい。」
 親方は、ついに折れた。さみしげに少年の両目を見つめて、そして踵を返した。
 少年は、すこし息切れしていた。目の前に、巨大な猛禽が羽を広げていた。少年はそのイメージのまわりに曇りがかった宵闇を描いた。くっきりとした砂糖のカプセルで包み込んで見せた。
「ああ。つくれる。これを形にできる。」少年の胸は高鳴った。
 親方は、ほどなくして戻ってきた。小さいながらもしっかりと分厚いノートと、ずっしりとした紺色の万年筆を手にしていた。
 親方は、ふたつを少年のほうへ差し出した。
「おめでとう。」
親方は言った。あたたかい声だった。少年の手を取り、ふたつをしっかり握らせた。
 少年は、わけもわからないまま握りしめた。あめ玉づくりにノートと万年筆だなんて、聞いたことがない。
「とにかく全力でやれ。」
 親方は叫ぶように言った。親方はぶるぶると震えていた。少年はおおきく、まっすぐにうなずいた。
タイムリミットはこの夏の終わり。
ふたりは、街の中央に屹立するスピーカーを見あげた。スピーカーは、なにも発さなかった。代わりにちっぽけなカラスが晴天に鳴いた。
少年は街へ飛び出した。このあめ玉づくりがどこへ向かうのか、本当に、だれにも分からなかった。
 
 次の日から、少年の散歩にあたらしい作業が加わった。少年は、まあたらしいノートと万年筆を手にして歩いた。少年は自分の作る猛禽のあめ玉に、この街のすべてを、落とし込みたかった。少年はすべてを焼き付け記憶しそして形にするために、毎日メモを取った。熱心に。異様に熱心に。
はたから見る少年の姿は、実に奇妙だった。少年は十歩も歩かず立ち止まった。そして何やらノートに書き込んだ。書き込みが終わると読み返しもせずノートを閉じて、また歩き出す。そしてまた十歩も歩かず立ち止る。その繰り返し。
 例えばある日、少年は同じように街を歩く友人とすれ違った。ふたりはお辞儀してあいさつを交わした。そしてノートに書いた。
「ある友人:夢は大池の管理職。お辞儀をして別れた。」
 また例えばある日、少年は商店街できゅうりを手に入れた。少年は書いた。
「きゅうり入手:きゅうりは相変わらず緑色。食べた、しゃりしゃり音がした。」
 
「ああ、あの子だね。今年のあめ玉づくりに挑むのは。」
「いいなあ一生懸命だなあ。」
「いやはやこれぞ青春だ!」
 街を行く多くの者たちが少年のノートと万年筆を眺めていった。不思議そうに、あこがれの目を交わしあって。
少年はノートを、すこしずつ、しかし確実に、文字と文字とで埋め尽くしていった。ノートの文字は少年の目であり、耳であり、鼻であった。少年の見たもの、匂ったこと、触ったもの、味わった食材、出会った人、かわした言葉。この街とこの夏の、すべてだった。
「雨降り:水が降る。人々はあまがっぱを着る。」
「中心街:店と人と酔っぱらい。くさい。にぎやか。ずっと前から。」
「とある友人:夢は街のカラス保護委員会会長。手を振って別れた。」
「親方:かっぱをつくって欲しかったらしい。今日万年筆のインクをくれた。」
「母親」「大池」「信号」「小道」「住宅街」「曇り」「電信柱」「晴れ」「かっぱ」「カラス」「ノート」「万年筆」。
 少年のノートは次第に真っ黒になった。
 時々親方が工房の窓から顔を出しては、「とにかく必ずつくりあげろ」と、やさしい声で励ました。
「電車」「小池」「路地」「横断歩道」「線路」「地下鉄」「すこしだけ」「空き地」「ぼうず」「雑草」「本屋」「薬局」「時計」「灰色」「展望台」「青年」「アーケード」「螺旋階段」「たくさんの」「雲」「猫」「宵闇」「縫い目」「街灯」「マーカー」「階段」「望遠鏡」「消える」「便箋」「夢」「閉店中」「壊れる」。
 少年は歩き、書き、書いて、歩いた。親方も現れ、声をかけ、また何度も何度も背中を押した。フードたちは近寄らなかった。むしろ少年を避けて通った。
「緑」「自家用車」「少年」「手紙」「歩道橋」「明々後日」「昨日」「ダム」「町」「レストラン」「街」「村」「リス」「鳥」「あめ玉」「記憶」「ランニング」「水面」「恐竜」「ボタン」「飛行機」「風船」「地球儀」「行方不明」「自転車」「溝」「鉛筆」「タンポポ」「セーター」「三角形」「粒」「みそ汁」「フード」「ポケット」「ろば」。
 
 初めの頃こそ面白がって見ていた人々は次第に少年から目をそらすようになった。街の人たちは少年の姿に——掌まで真っ黒に染めて書きつける姿に、インクの切れた万年筆をなめまわしそしてまた書きつける姿に——恐怖を憶えはじめた。親方も少年を励ましにいく回数を減らしつつあった。少年のところにやってはきてもいつもぶるぶる震えては緑色の顔をして立ち去るようにまでなった。少年はいちいち、ノートに書いた。
「街の人:恐怖を憶えた」「親方:緑の顔して立ち去った」「電話」「洗剤」「トウモロコシ」。
「今年の少年は、かっぱを創らないらしい。」「代わりに猛禽を創るらしい。」「街角のあの灰色フードたちに、そういって答えていた。」「かっぱの祟りも恐れない少年だぞ。」
そんな噂も飛び交った。少年はその噂をもノートの一隅に書きつけて歩いた。
「噂:今年の少年はかっぱを創らないらしい。」
「噂:代わりに猛禽を創るらしい灰色フードたちにもそういった俺は聞いた間違いない」
「噂:かっぱの祟りも恐れない少年だ。」
 そして、あたらしい噂が流れた。少年は書いた。
「噂:あめ玉づくりの親方が失踪。行方不明。」
「噂:かっぱの祟りか。」
「噂:親方は万年筆のインクを十五本、遺している。」
少年はびくともしなかった。少年は思いついた。少年は親方の工房へ立ち寄った。万年筆のインクが十五本と砂糖の山が遺されていた。少年はインクをすべてポケットに入れるとそこを去った。ノートにはこう書きつけた。
「親方の工房:万年筆のインクが十五本と砂糖の山があった。インクはすべて失敬。」
 ノートが埋まるに比例して、少年の胸は高鳴った。
「電燈」「お守り」「小蠅」「坂道」「晴天神社」「1+1=」「中心」「穴」「カモシカ」「ヘラジカ」「マンホール」「11℃」「体温計」「歩道橋」「カップル」「リモコン」「着ぐるみ」「厄除け」「マグカップ」。
ある日こんな噂も流れた。少年は嬉々としてノートに書きつけた。
「噂:森の中の大池から、謎の物体引き揚げ。かっぱか。あるいは親方か。」「緑色」「唐揚げ」「蛍光灯」「駐車場」「学習塾」「ファッション雑誌」「自販機」。
親方が現れて少年の背を押すことは当然二度とありえなかった。「冷蔵庫」「雑貨屋」「演劇」「歯ブラシ」「蛇口」「釘」「針」「金」「銀」「英和辞典」「新聞」「鳥居」「秒針」「分針」「参考書」「眼鏡」「関数」「ファイル」「工場」「手帳」「笑い顔」「年寄」「キーボード」「優先座席」「文庫本」「100円」「教室」「ショップ」。
 またこの頃から少年は自分の感覚器官に疑いを持ち始めた。少年の感覚は確かに歪み始めていた。おかしい。おかしかった。夏だというのにどうにも寒い寒さ以外の気温を感じ取ることができなかった。少年は書いた。
「おかしいこと:おかしい。夏だというのにどうにも寒い。」「セロテープ」「街路樹」「原付」。
 次の日から少年はパーカーを羽織って街を歩いた。やがて少年はフードをかぶり顔を隠すようにまでなった。晴天の祭りは近づいていた。
「風車」「ロボット」「筆箱」「ザリガニ」「動物園」「童話集」「兎」「子兎」「人」……。
 とうとうある日少年は気づいた。少年に書けることはほとんどなかった。少年はもうこの街を書き尽くしたのだ。これから先あたらしい噂がたってもあたらしい人工物が運びこまれてもそれらはもはや少年のあめ玉にとって何の意味も持ちはしない。少年に語り掛けることはない。少年の目も、耳も鼻も、疲れ果ててヘトヘトだった。
だが、少年はわかっていた。ここで諦めるわけにもいかなかった。
 
「きらいな店と、スピーカーと、猛禽」
少年は呟いた。少年のノートには、この三つに関してだけ、一切の情報が書きこまれなかったのだ。
「もう三つ、あと三つだけ。」少年は大きく深呼吸をした。歩道の上で寝っ転がった。「猛禽をつくりたい、この街を織り込みたい、あめ玉をつくりたい。あめ玉をつくりたい」少年は突き抜けるように晴れやかな青天を見あげた。おかしな景色だった。「きらいな店と、スピーカーと、猛禽」少年は呟いた。寝返りを打った。「あめ玉は球体だ。」「あめ玉は球体だ」何度も呟き何度もつづった。呟くだけでは飽き足らずつづるだけでも飽きたらずパーカーの縫い目を何度もさすった。「きらいな店と、スピーカーと、猛禽」ゴロゴロ寝返りを打ち続けた。夜明けも真昼も日没も、街路をゴロゴロ転がって過ごした。
 そして気づいた。晴天の祭りはもう二日後に迫っていた。
「きらいな店と、スピーカーと、猛禽」少年は呟き、首を振った。時間はなかった。「きらいな店と、スピーカーと、猛禽」少年は呟き、膝を抱えた。頭をうずめて考え込んだ。身体で球を描くように、一回転、二回転。でんぐり返しを打ってみた。三つをノートに書きこんだとき、少年のすべてが、これからが終わる。少年はきっと、この街の路上からいなくなってしまう。そんな思いが膨れ上がった。 
 少年はとうとう諦めた。「もうかっぱでもつくってやろう」少年は呟いた。かっぱをつくるための材料ならとっくの昔にそろっていた。
少年はでんぐり返しを打ちながら、車道の上を駆けだした。すぐ工房に辿り着いた。親方の工房は変わらぬ姿でたたずんでいた。
 少年は親方の遺した砂糖の山を溶かした。かっぱのあめ玉をつくり始めた。
 作業を進めながら少年は一度だけ首を傾げた。砂糖と一緒に少年のなかのなにかが、どろんと音を立てて崩れ始めた。溶けてはならないはずのなにかなのに少年にはそれがなになのか、どうしてもわからなかった。砂糖が透明な液体に変わったとき、同時に溶けてはならないなにかも溶け切った。少年はあっと声をあげた。後頭部から少し右のあたりが押されたようにぎゅっと痛んだ。鍋の中の砂糖が素晴らしい緑色に光ってスッと音さえ立てながら、少年の頭の、痛んだ部分に入り込んできた。少年はもう、一切の身動きをとれなくなった。
 少年は、動けない体を抱えて立ち尽くした。親方の工房、親方の鍋、親方のスプーン、親方の作業用手袋、親方の遺した砂糖の山。すべてが突如、くらむような緑色にひかった。眩しい真緑の端々から、たくさんの声が聞こえ始めた。声は震え、声は広がり、声はどんどん大きくなって、少年のまわりに溢れかえった。
 生まれたばかりの少年の泣き声。産湯がぴちゃぴちゃなっている音。「ぼうやぼうや」と呼ぶ両親の声。少年が初めてたてた笑い声。
「どうして、今」少年はひとり呟いた。
「ばあばあ」だとかなんとか、初めて喋って、両親がまた「ぼうやぼうや」と喜んでいる。少年が立っただとか歩いただとか、転んで泣きじゃくるうるさい声。「痛いの痛いの飛んでいけー」にまんまと引っかかっては「けー」と繰り返してけらけら笑っている。そしてまたごつんと転んでうるさい泣き声。街の隅の小池の水を、足でぴちゃぴちゃ蹴り上げる音。さらさらさざ波の揺れる音。しゃりしゃりキュウリを噛んだ音。中心街の騒音。「まずは砂糖をこうやって…」親方から初めて、あめ玉づくりの手ほどきを受けた時の声だ。練習に使ったザラメ砂糖が溶けていく音。工房の鍋を洗う水音。「どうやってやるの?」「これはな少年、こっちのヘラをこうしてあてて……」。すこし重たい親方の話し声。「おかえり」とむかえる母親の呼びかけ。そして春、今より小さな足音を立てて少年は、スピーカーの下の街路へと彷徨い出た。律儀に毎日歩く音が、街の音へと溶け込んでいく。ときどきすれ違う少年たちと、軽くお辞儀を交わす音。すっと傾げた自分の体が、かすかに風を切っていく音。たかく、とおく、大池を旋回するカラスたちの鳴き声。猫の足音。信号機の立てる音。道行く人々の話し声。新緑があざやかに芽吹き、揺れる音。「晴天の祭りに出展のチャンスだ!」親方が弾む声で報告している。サッと美しい音を立て、猛禽の像が翼を広げる。「これをつくりたい」風と一緒に響いていく、少年自身の紛れない呟き。
 そこからあとは万年筆の音ばかりだ。万年筆の音、ノートをめくる音、街路をあるく音、そしてまた万年筆を走らせる音。
 最後に少年の耳をかすめたのは、温かくも冷たくもない、よくわからない温度の息だった。フード男は問いかけた。「これから先。これからのことを」。あめ玉の先、この夏の先、少年はなにをかくのだろう。少年は、ぶるっと一つ身震いした。
 少年のまわりで、緑色がかすかに薄れた。そしてすべての音が終わった。少年はもう、あめ玉のつくり方さえ忘れてしまって、薄れゆく緑色をただ一心に眺めていた。あたりはみるみるうちに脱色した。緑色はことごとく消え、工房のなかは光のようにまっしろだ。少年はあっけにとられてぶるぶる震えた。
 なにかがいた。真っ白な光、すべて漂白された少年の意識の隅っこに、機械仕掛けのかっぱみたいな、緑色のヘンなヤツがいた。ヘンなヤツは、物凄く丁寧なお辞儀をきっちり三度繰り返して、そして言った。
「お前、どうする?どうするどうする?どうするかい?」
ソイツは一切の身動きを取らず、口だけベチャベチャ動かして言った。少年は、分からなかった。
 ソイツは作業台に置いてある少年のノートを勝手に開いた。細い、気持ち悪いくらい尖った指先を、ノートの一ページにつき立てた。親指と中指の指先だけを器用に曲げて、ページの一隅をつまみ上げた。四文字が、少年が書きつけた何千何万の文字のうち、四文字だけがゆっくり、ノートの上からはがしとられた。
「こ、れ、か、ら」
 かっぱみたいなソイツは、とてもとても気持ちの悪い声で、指先で、その四文字をもてあそんだ。
「素敵なあめ玉に仕上げたいかい?」ベチャベチャと問いかけてきた。少年はひたすらにうなずいた。「とってもとても素敵なあめ玉に?仕上げたいかい?」少年はうなずいた。「じゃあ「これから」はいらないね?」少年は、うなずいた。
かっぱが器用に指先をひねると、四文字はかっぱの指の緑の皮膚へと吸い込まれていった。同時に、少年のノートからはこれからの温度が、声が、湿度が消えた。
「さあ、これであとは、つくってごらん」
かっぱは満足そうに胸を張った。
 少年はかっぱからノートを取り返した。さっきのページを開いてみた。そこに「これから」はなかった。ヤツは当たり前みたいな顔をしてうなずいていた。
「明後日の晴天の祭りで、人生の一番を誇るような、そんなあめ玉をつくるんだ。なあ少年?」ヤツはニヤニヤしたり真顔になったりを恐ろしいスピードで繰り返しながらベチャベチャと言った。
「どうやって?」
 少年は尋ねた。ヤツは答えなかった。
「なあ!どうやって?」
「どうもこうもねえ…」
ヤツはあほみたいにニヤニヤとしていた。
「なあどうやってやるんだよ」
「ベチャベチャベチャベチャ」
しまいにヤツは、機械みたいにぎこちない動きを繰り返した。そして止まった。
「なあ、答えてくれよ」
辺りは静まりかえった。少年はあめ玉を撫でまわした。
あまりに静かだった。機械仕掛けのかっぱみたいなアイツだけが直立不動の姿勢を保って、少年の横に突っ立っていた。
「なあ、答えてくれよ」「なあかっぱ」「ねえかっぱ」
「なあ、答えてくれよ」
「ねえ親方、なあ親方」
「ねえ!答えてくれよ、お願いだから」
少年の声は工房の壁をすり抜けた。可笑しくくるくる回転をしながら、街の中心部、ありえないほどの中心部へと、吸い込まれていった。
「ワカラン!」
 とうとう少年は叫んだ。同時に、隣でヤツが、キレよく左腕を振り上げた。パチン、と大きく指を鳴らした。
少年は、驚いた。目の前に、親方がいた。
 親方の遺体は、だまっていた。真緑に膨れ上がった腕だけが、きゅうりみたいにてかてか光って、「自分で進め、なあ少年。」と、励ましてくれた。やさしく、おどろくほど温かく、親方は少年の背中を押した。少年は、押し黙った。ゆっくりと顔をあげて、そして大きく首を振った。首をブンブン振り回しながら、駆けだした。もう一度パーカーの縫い目に、指先のすべてを集中させて。振り絞るかのように、フラフラと。
 
 少年はまず、少年のきらいな店へと向かった。少年のきらいな店は、可笑しいくらいに静まり返っていた。真っ白い外壁、適度に磨かれた窓、手入れの行き届いた花壇、真っ赤に乗っかかる三角屋根も。それらはすべて、建てられた当初と変わりのない姿で、こぢんまりと、閑静な街の一角をなし続けていた。
 少年は、一息ついた。入口の戸に手をかけた。椋張りの、こぎれいな店内が見えた。少年の胸は震えた。畏れなのか、嬉しさなのか、少年は危うく確かめそびれるところだった。少年は、ドアノブに手をかけたまま、しばらく考えた。だが、分からなかった。
 ゆっくりと扉を押してみる。扉の上部についた風鈴が、リリンと、爽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませー」
気さくそうな笑顔でオバチャンが迎えた。少年は、頭の内部が異様に膨張するのを感じた。ボヨン、と間抜けな音がして、頭頂部から少し右のあたりが、破裂したようだ。
 真っ白に、可笑しいようなスピードで脱色していく視界。視界の端に、オバチャンが映った。オバチャンのとなりに機械仕掛けのかっぱみたいなアイツが突っ立っていた。オバチャンが金切り声をあげた。
「ああ。やっぱりかっぱだったのか。」
少年は呟いた。店内は、真っ白になった。
少年は、真っ白い店内を見渡した。機械仕掛けのかっぱが鮮明な赤色に輝いて、少年にお辞儀をした。少年も丁寧にお辞儀を返した。ビリビリビリビリと、胸のなかだか頭のなかだか、どこかのなにかがぎこちなく振動していた。
 少年は、機械仕掛けのかっぱの手を借りて、お湯を沸かせた。インスタントのうどんをふやかして、食べた。きゅうりも齧った。馬鹿みたいにそこいら中転がっていたやつだ。丸ごと齧ると、しゃりしゃりと音がした。
しばらくして少年は、きらいだった店を発った。機械仕掛けのかっぱは丁寧なお辞儀で見送った。
 外の街はすっかり、宵の闇に浸りきっていた。少年の色覚は、知らないうちに元通りだった。真っ青な宵闇の中を、たくさんの人々が通り過ぎた。分厚い雲のあいだにも、ときどき透けている個所があって、そこから、夕焼けの名残が自慢げに、ちらついたりしていた。
街路はあまりに込み合っていた。「晴天ノ祭リねえ。」「晴天ノ祭リだよー。」明日へ向けて、準備が進みつつあった。生暖かい空気のよどみが、汗ばんだ人々の吐く息が、冷たすぎる少年の頬を、物凄い勢いで紅潮させていった。蒸し暑いような、めちゃくちゃに寒いような、おかしな気分だった。
少年は、身震いした。パーカーのポケットに両手を突っ込んでみる。肩を丸めたり、伸ばしたり、ちょうどいい温度を探して調整してみる。
不意に少年は気づいた。少年はあたりを見渡した。静かだった。名無し少年が、気づかず歩いているうちに、いったいなにが起きたというのだろう。街の人々は動いているのに、音だけがすべて、静止している。少年は、首を傾げた。
「ああ。静かだ。」
呟いた少年の声が、街の中心部に、まぎれないほどの中心点に、吸い込まれていった。螺旋を描いて。スーッとかすかな音さえ立てて。
 そしてまたしばらくの静けさ。
グギィ―――――――――――――――――――――――ン。
突如、空気を引き裂く騒音が街の隅にまで響き渡った。
人々は、可笑しいくらいの勢いで耳をふさいだ。街の中央に屹立するあの巨大なスピーカーが、音を発したのだ。少年は、人々の中心に立ち尽くした。耳をふさぐための両腕が、動かなかった。
そして宵空を、巨大な鳥が旋回した。
「うわあ!」
 少年はひとり、歓声をあげた。
巨大な鳥は、ぴかぴか光っていた。赤に、青に、黄色に緑に。紫に。たくさんの、小さなライトが、巨大なお腹と、翼の内側で明滅していた。
「もしかしたらこの鳥は、全身にライトをつけているかもしれない。」少年は呟いた。だが、確かめるすべはなかった。猛禽はすぐに、旋回をやめた。そして飛び去った。
 少年はしばらく、同じ場所で突っ立っていた。辺りはやっぱり静かだった。よく見渡してみれば、街の人々は両眼でさえも、固く瞑ってうずくまっている。
「もうすぐつくり時かなぁ」少年は呟いて、音のないその街かどを発った。
 
 少年はその宵から、あめ玉を創った。親方の遺した工房に籠り、親方の遺した砂糖の山を、すこしずつ溶かした。少年が夏中、書き込み続けたノートの文字は、少年にとってもはや言葉ではなかった。ノートの文字は少年の夏であり、街であり、これから創るあめ玉、巨大な鳥のそのものであった。
 時に大きく時に細かに、踊る手つきで少年は、街路で見たあの猛禽を創り続けた。形を与え、色を与え、羽毛の一筋一筋に、ノートのなかの街を組み込んでいった。光を与え、影を与え、大きさを与え息を与え。生暖かさを、湿り気を、商売の声を、カラスを路地を、きゅうりを、信号を、池を、交差点を、雨降りを友人を、母親を商店街を、ポケット、電車、文字と街灯とを、素直な形で織り込んでいった。
つくる、ということの意味を少年は、創りながら豊かに体験した。胸が高鳴った。一つの街の、ひと夏のメモ、そこから湧き上がる巨大な鳥のイメージ、あめ玉の確かさ。少年の中で寒さが、静かにそのねじを緩め始めた。
 夜が来た。少年は眠らなかった。夢と現のあいだのあたりで、指先はずっと、細工をつづけた。少年は、あの巨大なスピーカーも、きらいだった店の気配も、愛情をもってあめ玉の中に織り込んだ。
そして今、晴天の祭りの朝が明けた。「これから」だけが欠落した街、その化身である猛禽が、砂糖製の球体の内側で大きく光る羽を広げた。
「できた。」
少年は呟いた。
 
 晴天の祭りは、雨だった。朝方、昇った太陽は瞬く間に大きな雲の後ろに隠れた。
街の人々は、慣れない手つきでテントを立てた。屋台が完成した。少年のあめ玉も、テントのなかに展示された。
祭が始まった。人々が押し寄せた。名無し少年は、ずっとテントに立っていた。
「晴天の祭りで雨降りなんて、はじめてだねえ」色とりどりのあまがっぱを着た子供たちが、楽しそうに通り過ぎた。「晴天の祭りで雨降りなんて、はじめてだよね」ビニール製のあまがっぱを着たカップルも、笑いながら通り過ぎた。「雨降りの中晴天の祭りなんて、はじめてよねえ」分厚いかっぱに身を包み、老夫婦も通り過ぎていった。
 少年はずっと、あめ玉のまえに立っていた。少年はこの日、ノートも万年筆も、持ち出さなかった。だからただ、立っていた。立って、見ていた。
 正午、向こうの広場に置かれている、祭専用の仮設スピーカーから、あめ玉職人を悼む放送が流れた。少年は、すこしだけ泣いた。
 雨が止んだ。裂けた雲間から一筋ひかりが射しこんだ。「終わったのだ」名無し少年はひとり呟いた。そして小さく手を振った。
仮設スピーカーからはいつの間にか、小気味の良いメロディが流れ出した。街の人々は踊りを始めた。色とりどりの雨がっぱがキラキラ太陽に輝いた。祭りのテントも雨がっぱも、スピーカーも大池のカラスたちも、街中が少年にお辞儀した。少年は静かに、静かに笑った。
                                       (終)
 
 
 
 
 
 
 
 

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