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石原三日月「窓の海」(第1回カモガワ奇想短編グランプリ 大賞受賞作)

第2回カモガワ奇想短編グランプリの開催を記念して、前回大会の受賞作品をnote上で順次公開します。前回の選評はこちら

作者紹介
石原三日月(いしはら・みかづき)
劇作家活動を経て小説執筆を開始。幻想と奇想に満ちた作風を特徴とし、カモガワ奇想短編グランプリにて「窓の海」が大賞を受賞、『カモガワGブックスVol.4』に掲載された。また、第1回『幻想と怪奇』ショートショート・コンテストにて「せせらぎの顔」が優秀作に入選し、『幻想と怪奇 ショートショート・カーニヴァル』(新紀元社)に掲載。坊っちゃん文学賞では三度佳作を受賞 (第17回「家の家出」、第18回「どっちつかズ」、第19回「メトロポリスの卵」)。ショートショートや短編を中心としてアンソロジーに作品を寄稿。6月に発売された『幻想と怪奇 不思議な本棚 ショートショート・カーニヴァル』(新紀元社)に書き下ろし短編「奈落の戯曲」が収録されている。好きなものは犬、苦手なのは朝と辛いもの。

 白いモップを握り締め、羽瀬はせ優樹ゆうきは海を磨いていた。
 足元に広がる透き通った青色は底が知れない。けれどそれは海水の色味ではなく、映り込んだ高い空の色だった。きらきらと陽光を照り返す波頭なみがしらもまた水しぶきではなく、風に煽られて開閉する硝子のきらめきだった。
 つい数日前まで海水浴客でごった返していたこの海は、いま、見渡すかぎり水平線まで〈窓〉に覆い尽くされている。
 形や大きさ、様式の異なる何千何万という硝子窓が隙間なく並び、優樹の視野の果てまで続いている。と言っても、海面に窓が浮かんでいるわけではない。窓そのものが海なのだ。
 十年に一度、このK海岸に現れる〈窓の海〉。
 連なった窓の海面は、まるで波を真似するようにゆったりと上下を繰り返し、少しずつ波打ち際へと引き寄せられていく。潮騒のかわりに聞こえるのは、キィッ、カタカタ、パタンッ、という開閉音だけ。その合間を遊歩する人々のざわめきが風に乗り、優樹の耳元をかすめて流れ去る。微かに潮の香りもするが、それは足元からではなく、海岸から吹き寄せる砂がまとっているものだった。
 まさか海で窓磨きのバイトをするとは……モップを持った手を止め、あらためて足元をしげしげと眺めた。
 立っているのは、灰色のコンクリート枠におさまった嵌めごろしの窓の上だった。春から住みはじめた自分のワンルームと大差ない広さがある。周囲に同じものが三枚×三列、合計六枚並んでいるので、おそらく高層ビルの窓なのだろう。強化硝子なのか、歩き回ったりモップで擦ったりしても、びくともしない安定感がある。バイト初日の自分には安全な窓をあてがってくれたらしい。
 このあたりは遊歩推奨エリアなので、優樹と同じ年代の学生グループや男女の二人組、家族連れの姿も見えた。窓の波が上下する度に声を上げ、しゃがみ込んで硝子面を覗き込み、手のひらで触れている。なかには横たわり、談笑しながら空を見上げている一団もいた。オレンジ色の制服を着たライフガードがその間を縫って巡回し、開閉する窓の近くにいる人には注意を促している。
 彼らが足を滑らせないように、硝子に積もった砂を拭きとるのが優樹の仕事だった。浜から吹く風が白い砂を絶え間なく運んでくるのだ。
 ようやく四枚目を磨き終え、背中と腰を伸ばしていると、
「優樹くん、そっちはどんな感じ?」
 溌剌とした声が聞こえた。小柄な女性がうねる窓の上を軽やかな足取りで近づいてくる。同じ蛍光グリーンの作業服、手にモップとバケツを下げている。腰に巻いたハーネスからは命綱が伸びていた。七メートルあるロープの先は優樹の腰に繋がっている。
 ペアを組んでいる織間おりま千奈江――〈窓の海〉磨きのバイトは三回目というベテランだ。
「なんとか四枚だけ」
「わあ、仕事が丁寧だね。そろそろお昼だし、一旦、ビーチに戻ろうか」
「でもまだ二枚残ってるんで」
「午後でいいよ。もうすぐ干潮だから、べつの仕事もあるんだわ」
 織間は置かれた優樹用のバケツを持ち上げ、さっさと歩き出した。今朝会った時は母親くらいの年齢かと思ったのだが、もう少し若いのかもしれない。
 高層ビルの窓を乗り越えると、そこから先は一般住宅サイズの腰高窓やテラス窓がずらりと並んで揺れていた。
「わたしの通ったあとを歩いてね!」
 どの窓が開くタイプなのか、どの硝子が薄くて脆いのか、優樹にはまだ見当もつかない。そのため、かならず彼女の後ろを歩くように言われていた。
 織間の声に優樹がモップを上げて答えた時、背後からピィーッという鋭いホイッスルの音が響いた。二人とも沖合いを振り返る。
 窓の反射が眩しくてよく見えないが、ライフガードが集まっているようだ。緊迫した声が聞こえる。誰かが窓に落ちかけているのか。成りゆきを見守っていると、ぐいっと腰の命綱が引かれた。
「彼らに任せておけば大丈夫だから、自分の足元に気をつけて!」
 織間はだいぶ先に進んでいた。慌てて「はい!」と返事を返す。
 足元の出窓を注意しながら跨ぐ。古そうな木製の窓枠はうっかりすると踏み砕いてしまいそうだ。その先の細長いスリット窓に足を降ろした時、カツッと小さな音がした。
 小さな黒い瓶がひとつ転がっている。
 そっと拾い上げると、馴染みのない不思議な香りがふわりと鼻をかすめた。栓はされておらず、中身も空っぽだった。
 織間さん、と背中に声をかけようとした時、沖合いからドッと歓声が湧いた。どうやら無事に救出されたらしい。
 優樹もほっと息を吐き、小瓶を胸ポケットにおさめると、窓の波を乗り越えながら海岸へ向かった。
 
和花わかちゃんがね、バイトを探してるんだって」
 母親からそう連絡があったのは昨日、九月一日のことだった。
 従妹の和花は七歳上で、K海岸の旅館で働いている。その旅館は夏になると海の家も経営していて、急なバイトが必要になったという話だった。
「大学生なら九月はまだ休みのはずだから優樹に来てほしいんだけど、って」
「だって海の家はもう閉める時期だろ」
「なんか続けることになったみたい。まどのうみが出たんだって」
「えっなに?」
「ま、ど、の、う、み。よくわかんないけど、掃除のバイトらしいよ。あ、遠いから和花ちゃんのマンションに泊まっていいって。婚約者と同棲をはじめたみたい」
 ウフフッと笑って、母親は唐突に通話を切った。優樹は一方的な話に少々戸惑ったが、ちょうどバイトを探さねばと思っていたところだった。遊びほうけた夏の散財のツケが、そろそろ回ってきそうな頃合いなのだ。
 それはそれとして……まどのうみ?
 海の家の名前だろうか。頭にクエスチョンマークを浮かべたまま、優樹は久しぶりに従妹に電話をかけた。
 身内ならではの気易さのせいか、挨拶もそこそこに話は進み、ほんの十分後には明日から働くということで話がまとまっていた。
 まどのうみ、は〈窓の海〉だと教えてもらった。
 K海岸で十年ごとに発生する自然現象のようなもので、仕事内容はその清掃だった。各々の海の家から一名ずつ人員を出すのが暗黙の了解になっているらしい。夏の終わりとはいえ、まだまだ陽射しの強いなかでの体力仕事なので、若さと時間を持て余した優樹に声がかかったのだ。
 〈窓の海〉は満月の夜に現れて、次の新月の夜に消える。
 今回現れたのは八月三十一日の夜。新月になるのは九月十六日なので、優樹のバイトもその日までということに決まった。
 
 休憩場所で早めの昼食を済ませると、織間は優樹をライフガードの事務所に連れていった。入口の横に大きな掲示板が建てられている。小さな紙が五、六枚、白い紙テープで貼りつけられていた。なんとなく目をやると、
 ――わたしは幸せに暮らしています。
 ――さがさないで。だいじょうぶ。
 どれも誰かに宛てたメモのようだった。はっきりと名前の入ったものもある。
「これはね、窓の底に落ちた人たちからの手紙」
 優樹が驚く間もなく、織間は言葉を続けた。
「瓶に入って流れ着くの。風流でしょ?」
 なぜか泣き笑いのような顔をしていた。
 今朝方、優樹が受けた簡単な研修では「〈窓〉の向こうに海水はない、ただ穴があるだけ」と聞いていた。だから、てっきり水のない深い井戸のようなものかと考えていたが、手紙を送ってくるというのはどういうことなのだろう。
「窓の底はどうなってるんですか」
「わたしも落ちたことはないからわからないけど、こういう手紙を見てみると、どこかで幸せに暮らしているみたいだよねぇ」
 それから二人は波打ち際へ向かった。干潮の砂浜は朝よりもだいぶ広々としている。波打ち際には蛍光グリーンの作業服を着た人々が集まっていて、浜に流れ着いた小瓶を探し回っていた。これも日々の仕事のひとつだという。
 すれ違う人が織間に気づいては「久しぶり」と声をかけてくる。彼女を含め、だいたいみんなこのあたりに住んでいるそうだ。遠くから来た優樹は珍しがられた。
 〈窓の海〉が現れてまだ二日目のせいか、手紙の入った瓶はほとんど見つからなかった。一本だけ織間が見つけたが、なかの手紙は茶色く変色していた。十年前に海が現れた時の手紙だろうと言って、織間は大事そうにウエストポーチにしまった。〈窓の海〉が消えた後は小瓶も届かなくなる。窓の底から放たれた小瓶は、窓の波でしか運ばれないらしい。
「瓶は窓の上に落ちてることもあるけど、どうせ最後には波打ち際まで転がってくるから放っといていいよ。干潮時にみんなで拾うほうが効率いいから」
「あっ」
 優樹はさっき拾った黒い小瓶を思い出した。慌てて胸ポケットをあさったが、なにもない。しゃがんだ拍子に落としたのだろう。叱られるかなと思いつつ、恐る恐る話してみると、
「手紙は入ってなかったんでしょ、気にしなくていいよ。空っぽだったり、割れてるやつも多いから」
 織間はあっけらかんとした笑顔で言った。
 それから二人で三十分ほど小瓶を探し歩いた。波打ち際を歩いているのに、足が濡れないというのは奇妙な感覚だった。
 ふと見ると、浜に大きな窓が迫っていた。自分が磨いた高層ビルの窓に似ていたが、同じものかはわからない。巨大な硝子の波はむしろ窓というよりも壁のようで、優樹は思わず後ずさった。
 だがその巨大な窓も足元に届く前に、端から白く泡立つと、溶けるように崩れてしまった。残骸のような白煙が舞い上がるが、それもまた陽光に呑まれて霧散する。その後ろ、寸前で浜から引き返した窓は形を保っているが、それもまたすぐに打ち寄せると、端から泡となって消えていく。
 それでも窓は次々と、果てしなく打ち寄せてくるのだった。
 
 和花の同棲相手、手島孝輔こうすけは三十二歳で、近くの中小企業に勤めていると語った。
「歓迎の食事がデリバリーピザでごめんね」
 と、何度もすまなそうに口にした。花柄のシャツを着ていても軽薄にならない、穏やかな雰囲気の男性だった。
 和花と優樹の子どもの頃の思い出をビール片手に目を細めながら聞き、たまに声を上げて笑った。人見知りしがちな優樹でも、ピザの最後の一切れをつまんだ頃にはすっかり彼と打ち解けていた。親戚になっても上手くやっていけそうだな、と頭の隅でちらりと思う。
 思い出話のあとは、優樹が二人に馴れそめを尋ねた。ほろ酔い顔の和花は「恥ずかしいなぁ」と言いつつ、嬉しそうにぺらぺらと喋った。
 孝輔は彼女が勤める旅館の宿泊客だったそうだ。体調を崩して寝込んでしまい、和花がなにかと世話を焼いたのがきっかけだった。
「前の会社がブラックでね、ようやく辞められて羽を伸ばしていたところだったんだ」
 なんでも話してしまいそうな婚約者を制して、孝輔が口を開く。
「先のことはなにも決まってなくて、海でも眺めながら考えようかなと思ってこの町へ来たんだけど、まさかそのまま住みつくなんてね」
 冷めきったフライドポテトをつまみ、照れたように笑う。彼の事情を聞いたお節介好きの女将さんが、顔馴染みの町会議員から就職口を聞き出してきたのだそうだ。そして三ヶ月前から、和花とこの部屋で暮らすようになった。
「海、好きなんですか」
「サーフィンとかはしないけど……ほら、見たくなる時あるでしょ、海って」
「うーん、わかんないっす」
「まだまだ若いねぇ」
 にやにやしながら和花が口を挟む。子供扱いにムッとして、わざと孝輔にだけ話しかけた。
「孝輔さんは〈窓の海〉のこと、知ってたんですか?」
 ガタッと音がした。和花が椅子から腰を浮かせている。
「ポテト冷めてるじゃん。優樹、これ振りかけるとどんな冷めた料理でも美味しくなるから。うちの旅館でつくってるオリジナル商品でさ……」
 急に声量を上げ、キッチンのカウンターに並んだスパイス瓶をガチャガチャとあさりはじめた。孝輔は「シャワーしていいかな」と、静かに席を立つ。
 なにか自分はまずいことを言ったのだろうか。優樹は身体を縮ませて、眉根を寄せながらポテトにハーブソルトを振りかける従妹を見つめた。やがて廊下の奥から浴室のドアが閉まる音がすると、
「あの人……知り合いが窓に落ちたみたい」
 ぽつりと呟いた。えっ、という優樹の声は声にならない。
「〈窓の海〉の話をとても嫌がるの。はっきり言わないけどね。この海岸に来たのも、たぶん、その人との思い出があるからじゃないかな……」
 気の利いた言葉はなにも思い浮かばなかった。子供扱いされても仕方ないな、と優樹は皿に目を落とす。
 ポテトの上には雪のように塩が積もっていた。それは〈窓の海〉を覆い隠す白い砂を思い起こさせた。

 織間が窓に落ちた。三日後のことだった。
 自分から飛び込んだらしいと聞いて、優樹は耳を疑った。彼女は夜の間に海へ出たらしい。海岸の防犯カメラにそれらしき人影が映っていて、沖合いの窓の上にウエストポーチがたたんで置かれていた。それは彼女を雇っていた海の家が貸し出していたもので、律儀な彼女は飛び込む寸前にそれを思い出したのだろう、とバイト仲間が言っていた。
 その日から干潮になると、優樹はひたすら波打ち際を歩いて回った。休憩もそこそこに切り上げ、浜の端から端まで走って探したこともある。だが、真新しい小瓶は見つからなかった。
「どっかで楽しく暮らしてると思うぜ」
 かき氷を口に運びながら、倉崎くらざき洋也ひろやが言った。彼は優樹の新しいペアの相手で、隣町の大学に通う四年生だった。この海岸近くで生まれ育ち、普段はサーフショップでバイトをしているらしい。潮焼けした茶色い髪と肌をしていた。
「楽しすぎて手紙を書くのも忘れてるってこともあるっしょ」
「だといいんですけど」
 二人は和花が勤める海の家にいた。今日は残暑があまりに厳しく、退勤時刻の間際だったが休憩をとることにしたのだ。かき氷は和花が奢ってくれた。
「織間さんとは挨拶する程度だったけど、それなりの過去がある人らしいよ。地元だからいろいろ耳に入るんだけど」
「窓に落ちたら、人生やり直せるんですか?」
「さぁ」
 無責任に言い放ち、倉崎は夕映えを照り返す〈窓の海〉へ振り向いた。
「うちのじいちゃんが言ってるんだけど、この海にあるのは〈あったかもしれない窓〉なんだってさ」
「……あった、かも?」
「そう。現実にはもうないけど、もしかしたら〈あったかもしれない窓〉。窓のずっと底まで落ちると、そこには〈あったかもしれない部屋〉があって、〈あったかもしれない生活〉が待っている」
 優樹は眉間に皺を寄せた。倉崎が笑う。
「まぁそういう顔になるよな。あんな得体のしれない窓に飛び込む勇気があるんなら、もっとほかにやれることあるだろって」
「いや、氷がキーンって」
「そっちかよ」
 大袈裟にのけ反り、それから唐突に優樹に訊いた。
「磨いてる時、やけに気になる窓ってあったりした?」
 戸惑いつつ、少し考えて答える。
「ないっすね」
 頷いて、倉崎は溶けた氷を飲み干した。椅子から立ち上がり、
「飛び込むなよ、ぜったい」
 目を合わせずに言った。優樹は倉崎を見上げた。彼はすでに海を見ている。
「西日って昼より暑いから嫌いなんだよなぁ、帰っちゃうか?」
 ぶつぶつ言いながら砂浜へ向かう。慌てて優樹もそれを追った。
 ここで育った以上、おそらく彼にも窓に飛び込んだ親しい誰かがいるのだろう。
 夕映えを吸い込んだ〈窓の海〉は朱鷺色に輝き、嘘みたいにきれいだった。

 新月を翌日に控えた、その前夜。
 優樹はマンションを抜け出して、夜の海へ向かった。明日の天気予報は雨。いまのうちにもう一度だけ、波打ち際で瓶を探そうと思い立ったのだ。干潮時刻は夜中の十一時過ぎだ。
 はじめて見る夜の海岸は、空と海の境目もわからないほど黒く塗り潰されていた。新月前夜、しかも薄曇りだから仕方がない。予想はしていたが、携帯電話の小さなライトはまったく役に立たなかった。
 なにもできず、優樹はただ波打ち際を歩いた。風もない。窓は閉じきったまま黙り込み、砂を踏む自分の足音しか聞こえない。ただ茫洋とした黒い影の気配が迫ってきては遠ざかる、その繰り返しだけが満ちていた。
「優樹くん」
 驚いて振り返ると、いつのまにか孝輔が立っていた。懐中電灯を手にしている。
「和花が心配してる。戻ろうか」
 携帯電話にかけても出ない優樹を心配して、二人で探していたらしい。すみません、と小さく呟く。
「孝輔さん、この海が好きじゃないのに来てもらって」
 不意に口からこぼれ出た。相手の表情は見えない。
「明日、この海は消えてしまうんですよね」
「……らしいね」
「なんのために現れるんでしょうか」
 自分の言葉に自分で狼狽えた。二人とも黙り込む。答えが返ってくると思わなかったが、暗闇のなかから孝輔の低い声がした。
「流れ星……みたいなものじゃないかな」
 懐中電灯はなにもない砂の上を照らしている。
「人は流れ星に祈るけれど、祈ってもらうために星が流れるわけじゃない。窓に飛び込む人がいたとしても、そのためにこの海が現れるわけじゃない。ただ、人が勝手に意味を見出そうとして、振り回されているだけなんだろう」
 まるで硝子の上を一歩ずつ進むような声音だった。同時に、すでに準備されていた言葉のようにも聞こえた。
 孝輔さん、と優樹は呼びかけた。
「十年後は一緒に窓磨きやりませんか」
 冗談半分、本気半分のつもりで言ってみたが、今度は答えが返ってくる気配はなかった。

 予報通り翌朝は雨だったが、昼前には雲間から青空が覗きはじめた。
 優樹は倉崎と一緒に窓を磨いた後、午後からは用具の洗浄や掲示板の解体を手伝った。貼り出された手紙は観光協会が預かるそうだ。最後に倉崎と連絡先を交換して、K海岸での窓磨きバイトは終了した。
 そのまま帰宅するつもりだったが、和花と孝輔が慰労会を開いてくれるというので、もう一泊させてもらうことにした。今度はデリバリーではなく、地元の隠れた人気店で二人がご馳走してくれた。
 夜更け近くになって店を出ると、白い霧が町を包み込んでいた。新月の闇夜だが、街灯や住宅から漏れる明かりがその白さを浮かび上がらせている。
 霧は〈窓の海〉が消えはじめた合図だった。海全体が泡のように溶け崩れて真白な霧となり、やがて朝日を浴びて消えるという。
 マンションに戻り、シャワーを浴びて寝室に入っても優樹は眠れそうになかった。
 部屋の明かりを消したまま、そっとベランダへ出る。隅に置かれたキャンピングチェアに身体を沈めた。ベッドよりもここのほうが気分がいい。
 濃厚な白い霧は深い闇夜と混ざり合い、隣接する建物の明かりすら遮っていた。だが湿気は含んでいるものの蒸すような暑苦しさはなく、どこか肌にひやりとする冷たさがあった。秋の気配が忍び込んでいる。
 ふと、微かな物音を耳にして目を開けた。いつのまにか、うたた寝していたらしい。起き上がろうとして動きを止めた。
 細長いベランダの向こう端、二人の寝室の窓際に人影が立っていた。孝輔だ。
 彼は細く開けたテラス窓から手を伸ばすと、握っていたなにかを放り投げた。投げたというより、目の前に流れる霧に浮かべるような仕草だった。
 そしてすぐに部屋の奥へ消えた。
 流れる霧が優樹の鼻先に微かな香りを運んできた。初日に海の上で拾った小瓶、それに染みついていた独特な香り。それが和花の使っているハーブソルトとよく似ていることに優樹は気づいていた。その容器が洒落たラベルに覆われた黒い瓶であることも。
 なにも見えない霧の向こう、いまその小瓶が流れ去っていくのが感じられる。
 過去の孝輔になにがあったのかはわからない。わかっているのはただ、彼には飛び込まざるを得ない事情があったということだけだ。明るくて世話好きの恋人と暮らす――〈あったかもしれない窓〉に。
 彼が投げた小瓶は何本目なのか。それほどまでに伝えたい相手なのだろう。幸せに暮らしています、と。
 優樹は部屋へ戻り、ゆっくりと窓を閉めた。朝になったら海を見にいこう、と思いながら。



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