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小野繙「幼女の王女」(第1回カモガワ奇想短編グランプリ優秀賞受賞作)

第2回カモガワ奇想短編グランプリの開催を記念して、前回大会の受賞作品をnote上で順次公開します。前回の選評はこちら

作者紹介
小野繙(おの・ひもとく)
第四回百合文芸小説コンテストにて『あの日、私たちはバスに乗った』(ねぎしそ名義)が河出書房新社賞を受賞。受賞作が『百合小説コレクションwiz』(河出文庫)に収録されて商業デビュー。ゲンロン大森望SF創作講座第7期生。

 娘に幼女の群れがへばりつくようになったのはつい最近のことである。それまでは二人のへばりつきだったことを思えば、随分増えたなというのが率直な感想である。そもそもこの現象を「へばりつき」という簡単な五文字に収めていいのかどうかは丁寧な議論が必要だろうが、愛しい我が娘にべったりと張り付き玉ねぎのように層を成して娘の匂いを嗅いだり耳を甘噛みする幼女たちを一体一体メリメリと剥がしていると、どうしてもその表現が頭に浮かんでくるのである。
 話は数日前に遡る。過労が祟ったのか或いは労働が嫌になったのか真相は本人にしか分からないが、ともかく会社に何の連絡も寄越さずにバックレてしまった鈴木後輩の尻拭いをするべく、このファッキンホットな炎天下のなか社用車を乗り回し外回りをする羽目になった私の携帯をブルブル鳴らしたのは、娘の通う幼稚園でいつもよくしてくれている真弓先生だった。こんな真っ昼間に真弓先生から連絡が来るなんて珍しい、まさか娘が怪我でもしたのだろうかと不安になりながら電話を取ると、荒々しい息遣いで「柔軟剤を変えましたか?」と尋ねてくる。
 柔軟剤?
 変えていませんけれどと答えると、真弓先生はふうーと長い息を吐き出した。じゃあ香水は、と先生は尋ねる。香水でなくても構いません。何かマナカちゃんに、良い匂いのするものを持たせたり、塗ったりしましたか?
 そういったものは何も持たせていないし、塗ってもいないと私は答えた。何よりそういったものは、おませさんのすることだ。まだ四歳の娘には早すぎますよ、とも。
 真弓先生は数秒の沈黙を挟み何かを言おうとしたのだけれど、電話の向こう側にいる幼稚園児たちの奇声とともに先生がオワァと叫んで通話は途切れてしまった。何度かこちらから掛け直してみたが繋がらない。電話どころではないのかもしれない。
 さて、と私は思う。先ほど問われたアイテムから考えるに、娘の匂いがどうにかなっているらしい。ただ、その理由には検討がつかないのだ。昨日から今日にかけて何も変わったことはしておらず、昨晩も弱酸性のボディソープをたっぷり付けたやわやわスポンジで娘の身体を洗ってあげたし、お気に入りのシャンプーハットを深々と被った娘の頭皮にこれまた弱酸性のシャンプーをプッシュして将来ハゲませんようにと祈りを込めながら十本の指の腹で丁寧に洗ってあげたのだ。柔軟剤も知り合いのママさんに尋ね、間違いがないものを選んでいる。良い匂いこそすれ、臭いと言われる所以はないはずだった。それでも真弓先生の疲れ果てた声からはトラブルの気配を感じたし、普段は頼りになる彼女があんな電話を掛けてきた以上、父親である私も黙って仕事をしている場合ではないのだろう。私は部長に電話を掛ける。
『俺だ』
「私です」
『端的に要件を言え』
「お願いがありまして」
『ダメだ』
「今から早退を」
『ダメだ』
「ありがとうございます」
 私は電話を切り、社用車に乗り込んで幼稚園に向かった。部長から掛かってくる鬼電を無視して数十分ほどかけて幼稚園に辿り着くと、敷地内に幼き者の叫びという叫びが響き渡っている。毎日この場に勤めている先生方に敬意を抱きつつグラウンドを横切ろうとすると、そこらの遊具で遊んでいた園児たちが物珍しそうに私を見つめて囲み出し、足元の乾いた砂を投げつけてきたり「鳴ってるけど出なくていいの」と私のポケットに入ったスマホを触ろうと纏わりついてくるが、それらを振り切り建物に辿り着くと、ちょうど娘がふたりの幼女を引き連れて「いやー」とグズグズの顔で飛び出してくるところだった。
「マナカ、」
 と名前を呼ぶと娘はハッと目を開いて私を見つけ、ぱぱぁ〜とダボダボの涙をこぼして私の足元に縋り付いてきたのは良いのだけれど、何故か別に呼んでいないふたりの幼女も私の足元に、というよりマナカに抱きつき娘のやわらかい耳たぶを食もうとするので心底驚いてしまう。コラッやめなさい君達と窘めながら幼女たちを引き剥がし、だこちてだこちて(抱っこして抱っこして)と泣き喚く娘を抱き上げようとするのだけれど、目を爛々とさせた幼女とは誠に恐ろしいもので、私の腕に包まれすっかり安全地帯に収まったマナカに対しても執念深く唸る彼女たちの手首はまるで地獄の底に無数に生えている赤き植物のようにマナカの尻の下で揺らめいていて不気味なことこの上ない。
 何なんだ君達は一体、と幼女に向かって大人げなく叫ぶ私に施設の方から飛び出してきたのは先生方で、その中には真弓先生の姿もあった。肩で息をしながら「来てくれたんですねお父さん」と笑顔をつくった真弓先生は幼女ふたりをがっちりと両脇に抱えて回収し、ようやく一息ついたかと思えば、眉を顰めて耳を頼りに私のズボンを睨み付け、あの、さっきからずっと鳴ってますよと私のポケットを指さしてくる。
「これはいいんです」私は答えた。「それより、この子たちは一体どうしたって言うんです?」
 真弓先生は力なく首を振る。
「わかりません。私にもさっぱり……」
 項垂うなだれる真弓先生曰く、昨日まではこの幼女たちも普通に娘と遊んでいたらしい。
「急に、急にですよ。マナカちゃんと仲良く絵本を読んでいたら、この子たちが鼻をクンクンし始めて、なんだか良い匂いがするねって言い出したんです。それで二人ともマナカちゃんの匂いかなあってマナカちゃんの頭とか耳の裏とか脇の辺りをクンクンクンクン嗅ぎ出して、マナカちゃんもその時はくすぐったぁいとか言ってクスクス笑っていたので、これも子供特有のスキンシップかな、微笑ましいなと思って眺めていたんですけれど、段々様子がおかしくなってきて、いつしかこの子たちの鼻息が荒くなっていくんですよね」
 こんな感じですよ、と真弓先生は顔を上げ、フゴフゴと豚のように鼻を鳴らした。私は無言で続きを促す。
「それですっかりマナカちゃんは嫌がっているというか怖がっているし、ふたりはマナカちゃんのスモックに頭を突っ込もうとしているしで、こりゃ流石に不味いなと思って引き剥がそうとしたんですけれど、二人とも力が強いのなんのって!」
「それで私に連絡を?」
 真弓先生は頷いた。
「この子たちが言うには、マナカちゃんから良い匂いがするって、そればっかり言うんです。だから私はてっきりマナカちゃんが家で変わった香水とかめちゃくちゃラグジュアリーな柔軟剤とか(そんなもの存在するのか知りませんけれど)を付けているんじゃないかって思いましてね」
 まあ私の推測は外れたようですけれど、と真弓先生は幼女ふたりを見比べる。幼女たちは幾分か落ち着いたように見え、当惑しながら周囲をキョロキョロと見渡していたが、私が抱いている娘を見つけるや否や、ジッと熱い視線を向けてくる。その熱視線に私は思わず、
「あの、おかしくなったのは私の娘ではなく、この子たちの方なのでは?」
 と尋ねてみるが、真弓先生は目をパチクリさせて、ああ、まぁそうかもしれませんねえと呟き、
「とりあえず、今日のところは娘さんを連れて帰ってもらって良いですか? またこの子たちとマナカちゃんを一緒に居させるのは良くないでしょうし、後でこの子たちの保護者の方とも話してみますので」
 と言ってくださったので、私は快諾する。四つの瞳は未だに娘を捉え続けていた。私は彼女たちの視線を遮るように踵を返すが、しばらくしてから「あのぉ!」と真弓先生の声が背中に向かって飛んでくる。私はグラウンドのど真ん中で園児に砂を投げつけられながら振り返る。
「本当にその電話、出なくていいんですかあ!?」
 いいんです、と私は叫び返した。今はまだ、電話に出るタイミングじゃないんですよ。

 ○

 以上が数日前の、娘にへばりつく幼女がまだ二人だった頃の話である。
 あの日以来、娘は幼女に事欠かなくなったわけだが、翌日には四人、翌々日には七人の幼女に追いかけられ、可哀想なことに友達だったはずの幼女から捕食対象としての視線を向けられた娘は精神を著しく摩耗するようになってしまった。部長からの鬼電を無視しながら会社を早退きして迎えにいった娘の顔はいつも涙でべちょべちょに濡れていて、迎えに行くなりだこちてだこちてとベソをかきながら駆け寄る娘の姿に、私は有象無象の幼女への(理不尽とも言える)怒りに身を震わせたものである。先生方の疲労もすさまじく、明日にはもっと多くの幼女がマナカちゃんを追いかけ回すことになるかもしれないと誰かが言い出した際には、深い溜息を吐いて天井を仰ぐ者が散見された。泣き出す者もいた。これではいけないと誰かが声を上げたのかは分からないが、幼稚園から帰る前に私はある一室に呼ばれ、ここ数日で娘を追いかけ回した幼女たちの保護者との「建設的対話」を目的とした緊急保護者会議が開かれたのだけれど、何故このようなことになっているのか分からないのは先方も同じであり、我が子を叱りつけても全く手応えがないというのがおおよその回答だった。なかには「他人様に迷惑をかけたうえにしらを切るのか!」と愛娘を厳しく追求した親も居たのだけれど、幼女本人には全く自覚がないために大好きなパパから放たれた理不尽かつ唐突な怒りに大号泣する事態に陥ったと涙ながらに報告され、私も居心地が悪くなってしまう。「私は自分が情けない! ご迷惑をおかけして申し訳ないですよ本当にもおおおおおおおおッ!」と絶叫して机をバンバン叩き泣き喚く父親を横目に緊急保護者会議は幕を閉じ、「誰もがなるべくできることをする」というとてつもなくふんわりとした合意に至って私と娘は帰路につく。
「マナカ」
 なぁに? と娘は助手席で答える。
「幼稚園、明日も行きたいか?」
 車内が沈黙で満たされる。助手席を見やると、娘は流れゆく街灯をぼんやりと眺めている。私は黙っていた。娘も黙っていた。そうして赤信号を五つほどやり過ごした後、娘はいきたくないと小さく答えた。
 翌朝、私は娘を休ませた。それが私たちにとっての「なるべくできること」だと考えたからだ。娘ひとりを家に残して出勤するわけにはいかないので(リモートワークなんて高尚なものは弊社には無い)、私も会社を休まなければならないのが辛いところだが、ここ最近早退やら何やらでやりたい放題している私の社内的評価は既に地の底だろうから今更騒ぐほどのことでもないだろう。失踪した鈴木後輩と同じように、私の代わりも社内にいくらでもいるのだ。替えがきかないのは、娘にとっての私と、私にとっての娘だけである。私は部長に電話を掛ける。
『俺だ』
「私です」
『端的に要件を言え』
「お願いがありまして」
『ダメだ』
「本日から有給を」
『ダメだ』
「ありがとうございます」
 私は電話を切り、娘と近くのスーパーに行くことにした。部長からの鬼電にも慣れたものである。この日の買い出しは一週間分の食料品の調達を目的としていた。外出により野生の幼女との遭遇率が高まることを避けたい私たちにとって、まとめ買いというやり方が最も適切だと考えたのだ。
 部長から掛かってくる鬼電を無視して店内に入ると、スーパーのあちらこちらに幼女がいることに気付かされる。母親の腕に絡む幼女、お兄ちゃんから逃げる幼女、お菓子売り場で泣く幼女、おばあちゃんのカゴに家では許されないアイスを入れまくる幼女等々、普段意識をしないだけで幼女というものは様々なかたちであちらこちらにいるものなのだ。娘が唾を呑む。確かにこれだけの幼女が娘にへばりつく情景を想像すると、父子ともに気が重くなる一方である。私は暫く考え、アッと閃いた。肩車をすれば良いのだ。幼女の弱点はタッパがないことに尽きる。これにより棚の影からどれほど素早く幼女が飛び出してきたとしても、娘と幼女は体臭が交差しない一定の距離を保ちつつ、双方共に買い物を楽しむことができるという寸法だ。
 果たして肩車作戦はうまく行き、私たちは何人もの幼女を見下ろしながら、何不自由なく買い物を終えることができた。上機嫌の私たちは車に乗り込み部長からの着信音をBGMに自宅までの道をドライブしていたが、ふと耳を澄ますと後部座席の方からカサカサとレジ袋の擦れる音がする。
「マナカ」私は運転しながら言う。「お菓子は家に帰ってからだ」
 マナカじゃないよと助手席の娘が言った。彼女の手は膝の上に置かれている。
「じゃあこの音は何だ」
「しらないよ」
 カサカサと音がする。私はバックミラーを覗き込んだ。後部座席に知らない幼女が乗り込んでいる。ギャッと叫びたくなるのを堪え、私は危なっかしい運転で、無理やり車を路傍に寄せた。
「きみ!」私は幼女に呼びかける。「何処から入り込んだんだい?」
 幼女は首を傾げた。懲りずに「お名前はなんて言うのかな?」と問いかけると、幼女は三本の指を立てた。
「ごちゃい」
 私は警察に通報した。この状況では誘拐犯と見做される恐れもあるが致し方ない。数分してから到着した警察に事情を説明すると、案の定私はひどく怪しまれ、平日の真昼間からフラフラしているがあなたはちゃんと働いているのか、助手席の女の子は本当にあなたの娘なのかとまで疑われる始末だったが、問題の核心である幼女は警察を相手にしても「ごちゃい」としか答えないし、身につけているものからも個人情報に繋がるものは何も得られず、幼女の親探しは困難を極めた。その上、警察がいくら確認してもスーパーにも交番にも娘がいなくなったという届出は誰からも提出されておらず、首を傾げた彼らは仕方なく幼女を一時預かりとし、私たちの帰宅を許したのだった。
「いやはや、散々な目に遭ったな」
 部長からの着信音が鳴り響くマンションの地下駐車場で大量の荷物を降ろしながら、私たちは笑い合う。笑うしかなかった。あの幼女のことは深く考えない方がいい。世界には色んな幼女が居るのだから、一人くらい他人の車に入り込む娘が居たっておかしくないだろう。私たちが駐車場のエレベーターの前に立つと、ちょうど上から誰かが降りてくるところだった。チンと音が鳴る。扉が開くとそこには誰もいなかった。不思議に思いながらも二人してエレベーターに乗り込むと、ちょうど階層ボタンの下にもたれかかるようにして、一人の幼女が微笑んでいる。
 不味い、と思った頃には遅かった。これまで何処に潜んでいたのか、地下駐車場の至る所から幼女という幼女が現れ私たちのエレベーターに乗り込んで来るのだ。逃げ場所などなかったし、仮にあったとしても逃げる余裕なんてどこにもなかった。十や二十なんかではきかない幼女の群れがすさまじい勢いで乗り込んできて、泣き叫ぶ娘にへばりついては連なり重なっては膨らんで徐々に熱を持った肌色の塊になっていき、箱の隅で縮こまっている私の目の前にまで、積み重ねられた幼女の腕やら脚やらがだらりとぶら下がってくるのだ。私の呼吸は速くなる。酸素が薄い。幼女はさらに乗り込んで来て、私の空間を圧迫していく。私の視界の九割が幼女になろうという時、幼女の太股と太股の隙間から、エレベーターの扉が閉まっていくのが見えた。どこに行くんだ、と叫んだ気がする。目の前の幼女の指はゆっくりと三本立ち、耳元にあった幼女の口が「ごちゃい」と囁いた。




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