【連載エッセー第32回】当事者を自覚する
丸山啓史さん(『気候変動と子どもたち』著者)は、2022年春に家族で山里に移り住みました。持続可能な「懐かしい未来」を追求する日々の生活を綴ります。(月2回、1日と15日をめやすに更新予定)
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家の近くのスクラップヤードの騒音は続いている(第23回を参照ください)。スクラップヤードの問題を何とかしない限り、我が家が平穏に暮らすことはできない。
幸い、地域の自治連合会が、地域全体の問題として取り組んでくれている。自治連合会長さんや町内会長さんといっしょに、何度も役所に足を運んだ。
ただ、京都市の公害対策部局は、「騒音公害が発生していることは認識している」と言いがらも、「規制する法令がないので強制力をともなう対処はできない」と言う。残念ながら、公害が野放しにされてしまうのが京都市の(日本の)現状のようだ。
騒音公害の被害を受ける当事者になったことで、いろいろと、感じること、考えることがある。
たとえば、「○デシベル」という音量が騒音問題の決め手にされがちなことの理不尽さを強く意識するようになった(近くのスクラップヤードの場合、「○デシベル以下に」という基準さえ適用対象外で、「騒音無法地帯」なのだけれど)。騒音計に記録される音量は同じだったとしても、川を流れる水の音と、大量の金属が崩れ落ちる音とでは、私の体が感じる苦痛はまるで異なる。
スクラップヤードの騒音に直面していると、不規則な金属音を強制的に聞かされることのつらさを痛感する。リズミカルでも単調でもない、雑多で不快な金属音が、断続的に襲ってくる。雷のような大きな音が響くこともあるのだけれど、それほど音量が大きくないときでも、しんどい感覚があるし、目の前のことへの集中力が削がれる。
また、騒音被害については、騒音による直接的な苦痛だけでなく、生活が騒音に支配されていくことの問題性を感じている。
断続的な騒音を経験させられていると、音がしていないときでも、「次はいつ大きな音がくるのだろう」と気になってしまう。騒音が控えめな日に、「今日はマシだな」と考えている自分に気づくと、音がしていないときでも結局はスクラップヤードの騒音に縛られていることを感じる。
自分の予定を考えるときにも、「家にいても音が気になってしまうから、出かけようかな」「家に帰っても音がうるさいだろうから、もう少し遅く帰ろうかな」といった発想になってしまう。「静かなうちに○○をして、騒音のする時間帯に××をしよう」と考えてしまったりもする。
それから、だんだん自覚するようになったのは、被害者どうしの共感とか、何となくの連帯感のようなものだ。
インターネットで見つけたニュースで、家の隣にスクラップヤードを作られた被害者の方が、午前8時にスクラップヤードの鉄の門が開く音がすることについて、「憂鬱以外の何物でもないですね」と語っていた。「わかる!」と思った。
家のすぐ隣という環境と、少しは離れている私たちの環境とでは、事情が異なるところもあるだろう。でも、私たちも同じような経験をしている。朝の7時半頃になると、「もうすぐ始まるだろうな…」と考えてしまったりするし、金属音が響き始めると、「今日も始まったか…」と思うことになる。この感覚は、経験してみないと十分には理解しにくいものかもしれない。
「当事者でなければわからない」「当事者ならわかる」という言い方が正しいとは思わない。とはいえ、当事者でなければわかりにくいことがある気はするし、当事者だからこそ気づきやすいこともあると思う。そういう実感は、障害児教育や障害者福祉に関わっている身としても、意識しておきたい。