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スコットランド日和④阿比留久美 イレギュラーな時には「普段どおり」になんてできない

 スコットランドのエジンバラで研究生活を送っている阿比留久美さん(早稲田大学、「子どものための居場所論」)の現地レポートを連載します(月2回程度の更新予定)。
 ★「子どものための居場所論」note はこちらから読めます。
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 ある時、子どもが通っている小学校から全員にあててメールが送られてきました。それは、こんな内容でした。

 「職員の〇〇さんの家族に不幸があり、〇〇さんは2週間仕事をお休みします。わたしたちは彼女に心からお悔やみを申し上げます。わたしたちとしても事務やメールの処理に最善を尽くしますが、どうかご理解ください」

 このメールを見た時、わたしが感じたことは2つあります。

 ひとつめは、忌引きがあったら2週間も仕事が休めるのだということ、そして教職員の家族の不幸があとになってから通信などで共有されるのではなく、その人が仕事を休むその時に即座に保護者にも共有されるということへの驚きです。2週間休めれば、葬儀や告別式などに必要な時間だけでなく、家族の死を悼んだり、諸々の事務手続きをすることができるでしょう。

 日本では、教職員の家族の不幸は事後に学校の通信の末尾に小さく掲載されるもので(そしてそういう傾向は会社でも同様のように思います)、文書やメールで即座に情報が共有されるということはそんなに多くないような気がします。

 教職員の家族に不幸があった時に保護者に即座に情報が共有されることで、その人が復職してきた時には、保護者もお悔やみの言葉をかけるでしょう。お悔やみの言葉をもらうことで慰められる人もいれば、そっとしておいてほしいと思う人もいて個人差があるように思いますが、全体として考えた時にスコットランドの人と日本の人で、その点の受け止め方はどう違うのだろう、などと考えました。

小学校でのお祭りの様子

 もうひとつは、事務職員の人が仕事を休むことを共有することで、職員が休んでいる間には十分な対応ができないかもしれないことをあらかじめ知らせたうえで保護者に理解を求めることに対する感嘆です。職員が2週間仕事を休めば当然、仕事は滞ります。そういう状況に対して、「こういう事情だから、学校としてもがんばるけど、理解してね」と最初に宣言してしまうというのがとってもいいなと思ったのです。

 イレギュラーな事態が起きた時、日本ではイレギュラーなことが起きてもいつも通り(レギュラーに)運営することがあたりまえになっていることは多いように思います。ですが、本当はイレギュラーが起きた時にはいつも通りに運営することは負荷の大きいことです。とはいっても、イレギュラーなことはしばしば起こります。イレギュラーなことが起きた時にもいつも通りを維持することがあらゆる場合に求められると、その時々になんとか対応していくことになりますが、その負荷は蓄積されていきますし、それは時に無理のあるものになります。

 少し話はずれるかもしれませんが、1995年1月に地下鉄サリン事件が起きた時、霞が関の地下鉄周辺で多くの人が倒れているのに、勤務時間に遅刻しないよう、その人たちを介抱するのではなく、またいで出社する人たちがたくさんいたことが報道されました。これはオーバーな例かもしれないのですが、イレギュラーなことが起きた時にもいつも通りに行動することが求められ続けると、とても大きなイレギュラーなできごとが起きた時にも習慣に則って同じ行動をとってしまうようになるのではないでしょうか。そして、その光景は、そのルールが適用されている社会の人たちにとっては「あたりまえ」のルールに則った行動でも、外部の人から見た時に異様なものとなることがあります。

 イレギュラーな事態に陥った時に、できるだけその影響を出さないことはもちろん大事ですが、イレギュラーなことが起きた時には、そのイレギュラーをイレギュラーと認識して、そのうえで行動指針をたてられるといいなと、学校からのメールをみて強く感じました。

 時に学校は、保護者にとって子どもを人質にとられている場として認識されたり、あるいは逆に消費者的に要求をつきつける場のようにとらえられたりしています。学校も学校で、モンスターペアレントと呼ばれるような保護者への対応に緊張し、警戒しています。そのような警戒しあう関係では、なかなか学校の状況をオープンにして理解を求めることは難しいでしょう。

 学校が、保護者が、できないことをできない、と言って理解や協力を求めあえるようになったら、保護者にとっても教職員にとっても、子どもにとっても学校はもっと風通しのよい、息のしやすい場になるのではないでしょうか。

 その際、イレギュラーなことが起きた時に普段通りを目指さない対応を、個人としておこなっていくことが求められるのではなく、組織として、社会として、対応できるように組織づくりやルールづくりがなされることがポイントになるとわたしは考えます。組織や社会で共通認識が形成されていないところで、なかなか人は行動できないことがありますから。個人の意識の高さや強さに依存せず、イレギュラーを受け止められる環境づくりは、どのようにして実現可能なのか…リーダーシップをもっている人の一存ではなく、協同的にそんな場をつくっていける方法や道筋を考えていきたいです。

阿比留久美『子どものための居場所論』
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#阿比留久美 #スコットランド #エジンバラ #ユースワーク #子どものための居場所論