【連載エッセー第34回】たまに公衆電話を使う
丸山啓史さん(『気候変動と子どもたち』著者)は、2022年春に家族で山里に移り住みました。持続可能な「懐かしい未来」を追求する日々の生活を綴ります。(月2回、1日と15日をめやすに更新予定)
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私は10年くらい前にケータイを解約した。市場経済・資本主義経済となるべく距離を置きたくて、自分の生活のなかで削れるものを考えた。ケータイは必要ないことに気がついた。
私の場合、大学の研究室に電話機があるという、少し特別な環境で生活している。そして、たいていの連絡はパソコンのメールでしている。そういうふうだと、ケータイがなくても特に困らない(まわりの人は困っているかもしれない)。
誰にでも「スマホなし」を勧めようとは思わないものの、すべての人にスマホが必須なわけでもないと思う。
ただ、「スマホなし」の生活は、どんどん厳しさを増している。何かの予約をするにも、携帯電話番号を求められる。PTAの連絡もLINEが主流になっている。フェリーに乗るときにも、劇場に入るときにも、「スマホの画面でQRコードを提示してください」と指示されたりする。「QRコードを読み取ってください」と言われることも多くなった。たいていは無視すればよいのだけれど、飲食店で「QRコードを使ってスマホで注文してください」と言われるのには閉口する。それから、最近では、パソコン関係の「2要素認証」に苦労している。スマホがあればスマホでパスワードを受けとれるけれど、私はそういうわけにいかないので、なかなか悩ましい。
私の専門の障害児教育に絡めて言えば、今の日本の社会は「ユニバーサルデザイン」になっていない。「スマホなし」の人の「インクルージョン(包摂)」が十分に考えられていない。
そういう世の中なので、私自身は「スマホなし」だけれど、妻はスマホをもっている。妻は、少し前まではガラケーを使っていて、ガラケーが使えなくなるということで、半ば強制的にスマホをもたされることになった。
私は、妻のスマホに頼っている。連絡先として携帯電話番号が必要なときは、妻のスマホの番号を(勝手に)書いたりしている。誰かと電話で話すときは、妻のスマホを使う。妻にすれば迷惑なことかもしれないけれど、そうやってスマホを一家に一台で抑えている。
スマホを手放すわけにいかない妻には悪いけれど、スマホをもたない生活は身軽で気楽だ。急に連絡が入ることはない。パソコンを開かない限り、返信にも追われない。充電に気を配る必要もないし、スマホを置き忘れる心配もない。
スマホを持ち歩いていないからといって、大きな不便は感じない(まわりの人は感じているかもしれない)。出かけ先で電話をかけたいときは(ほとんどないけれど)、テレホンカードを使って公衆電話からかける。妻が出かけているときに家から電話をかけたいときは(ほとんどないけれど)、近くのバス停の脇にある電話ボックスに行く(次回で書くように、家では固定電話を使っていない)。電話ボックスはいつも空いていて、順番待ちをすることはない。
スマホをもっていない生活の感覚、公衆電話を意識するという感覚を、ご理解いただけるだろうか。私には、スマホをもっている生活の感覚がいまいちわからない(スマホの使い方も、ろくにわからない)。