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★課題を捨てて日帰り京都

私が住んでいる兵庫県の高校はだいたい9/2が始業式だ。ということで今日(8/30)は夏休み最後の平日。
今日も終わらない課題に自習スペースで向き合う予定だった。

しかし、
・余っている青春18切符二回分を9/10までに使い切らなければならない。でも台風の関係で宿泊込み旅行は厳しそう。
・せっかくだし休日だと混みそうなところに行きたい。

そうだ 京都、行こう(速断)。


神戸からだと往復3500円ぐらい!もととれる!
ついでに大阪の警察署に届けていただいた生徒手帳を回収しに行こう。
予定…決まった…

というわけで青春18切符を1回分消費できた。
もう一回は来週の9/7にでも日帰りでどっか行くのに使おう。


まずは大阪に向かい、そこから環状線で野田駅へ。そこから大阪西警察署に歩く。
生徒手帳を落としたのは2ヶ月ぶり2回目(恥以外のなんでもない)。本当に落とし物には気をつけたい。
今回は運良く心優しい方に拾って頂いたおかげで特に大きな問題にはならなかったが、場合によってはお礼の電話や謝金を払わなければならないらしい。
拾ってくれた方、ありがとうございました。

大阪の警察はどっちがヤクザかわからんミームの印象しかない状態(情報リテラシー皆無/さすがに冗談)だったから怖かったが、受付の方が快く対応してくれた。

遠目に見た住友倉庫が要塞みたいでかっこいい。
近くで見たらそんなにだった(失礼)。
釣り場の謎のスローガン。かっこいい(?)

徒歩往復1時間は正直結構虚無だったが、中之島のさきっちょのあたりを1時間散歩したと考えることにした。


そのまま京都に向かう。
新快速が丁度よいタイミングで来たので速かった。
最後に京都に来たのはいつだろう。とりあえず去年は一度も来ていない。
地下鉄の電車の方向を間違えながらも京セラ美術館に到着。

京セラ美術館は下の方には洋風な意匠や素材が用いられる一方で、屋根が瓦で葺かれている。
確かこういうのを擬洋風建築と言うはず。
千と千尋の神隠しに出てくる油屋と同じだ。
お城のようでもあり、博物館のようでもある立派な建物で興奮した。

京セラ美術館のメインエントランス前

目当ては、9/1で終了してしまう村上隆の「京都もののけ展」。すごく人気な展覧会だし混んでたらどうしようかと思ったが、台風で躊躇った人が多かったのか、わりとスムーズに回れたように思う。

大量のお花ちゃんがお出迎え
展覧会入口

入口の壁で花弁の模様と目の色が完全一致する個体のペアを探したが十分かけても見つけられなかった。無念。

阿吽像がモチーフ

下の踏まれている生き物は疫病や災害などを示し、それを倒してくれる人間にとって良い存在としての鬼が造形されたとキャプションに書いてあった。
乳首の部分に菊の模様がついてたり、下の潰されてるやつとの区別(角の有無と思われる)がされていたり、細かい作り込みを感じる。一方で人間とかけ離れた形の腹部の筋肉は躍動感がたっぷりだ。
初めての作品でいきなり村上ワールドに引き込まれた。

ここまでは無料で見れるので東山に行く際には立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ちなみに京都の学生は大学生まで無料で、他地域の高校生(私)の料金は1000円。
一方で、神戸市立博物館などは無料適応が高校生までな一方で居住地域による割引はない。
場所によって施設の料金設定は多種多様である。
京都さん、関西のよしみで無料にしてくれませんか…(?)

少し見つけるのが難しい展覧会会場入口を見つけて入場すると、いきなり超絶細かい巨大絵画が。
横10m,縦4mはあったのではないだろうか(全体写真は撮り忘れた)。とにかくでかい。


ちなみに美術館のスタッフの方々が「これ以上前に言ってはいけない」ということを示す糸を『結界』と呼んでて面白かった。

結界!ガラスとか介さず直接見れたのは嬉しい。
作品の一部

すべてを村上さんが描いているというわけではなく、昔の屏風絵的な絵を読み込みんでAIで線画化したうえで自らの作品に仕上げていくそう。
AIで線画化の技術がめっちゃ羨ましい。

雲のところにドクロの模様が入っているというような細かい表現を見るのも楽しいし、画面全体に散りばめられた人の姿から状況を想像するのもまた一興。

美術作品も、もうゼロから作らないといけないというルールから開放されてより全技術を組み込んだものとして修練されていくのかもしれない。

やはり細かいタッチで描ききられた巨大な絵はロマンの塊だ。自分もいつかこれぐらいでかい絵を描いてみたい。


巨大屏風絵の次は京都の四獣の部屋。
四方の壁に京都の守護獣、朱雀・青龍・白虎・玄武が独特なタッチで大きく描かれている。

白虎 全体
青龍の顔
玄武

朱雀は撮り忘れたが、この四作の中だと白虎が一番気に入った。
私は動物が少し描けるが、目はいつも描かないようにしている。目を書くとすぐ気持ち悪くなるから。でもこの展覧会の作品はいずれも目が大切に描かれていて、そこから色んな表情が読み取れる。あいさつも目を合わせるのと合わせないので全然別物になるように、目の大切さを知った。

青龍はとにかく村上先生の想像力や異要素分解結合能力とも言えそうな力が感じられる。
だいたいの龍の絵の場合、顔はワニとかに近いものになると思う。
しかし、この作品の場合は龍の頭に毛の生えた象の鼻のような器官や象の牙のような構造が見える。普通の龍とはかけ離れていて、面白い。

透視図法が好きなわたしは、玄武を見たときに甲羅の上の建物の遠近感が崩壊しているのがとにかくとにかく気になった。しかし、離れたり近寄ったりして様々な方向から見ていくと意外とどんどん絵に馴染んでくる。


綺麗にまとまってなくていい。既存イメージ通りじゃなくていい。図法に乗っ取りすぎるな。
絵に乗った勢いや気持ちはそのまま絵そのものの器となって、細かい部分の違和感を補う力がある。
そんな風に勇気づけるメッセージになっているような気がする。


村上隆の作品は海外にあるものが多い。輸送費や保険を考えると、作品を京都に集めることは難しい。故に時間もない中での開催であったそうだ。

計画性とは少し違うかもしれないが、時間に無理して取り組む姿勢には共感できる。締め切りを守れるようになりたい。
課題提出から始まる締め切り厳守計画。

そのため未完成の状態で出展した新作もあったらしく、約半年の会期中に繰り返し修正を重ねてきたらしい。

村上様による修正

とにかく指示が細かい。もうこの青龍の腕の部分とか、修正前後の違いがよくわからない。
気持ち…毛が短く、足が細くなっているような…?

巨大な絵は細かいタッチだったとしても各箇所が目立つから細部まで気にするのは当たり前といえば当たり前だといえばそうだが、
これ普通の人…気づくか?

自分が描く絵だったら屋根の角度が1°違うのを気にして描き直すのと同じ感覚だと思う。
この修正コーナーを見ると村上先生の狂気とも言えるようなこだわりに見る側も応えたいという気持ちにさせられる。

青龍の一部

私は全然気づかず、素通りするところだったが、横の男子高校生と思われる二人組が「日本人じゃなさそう」と言っているのを聞いて目を留めた。

確かにこれは南蛮人っぽい。少なくとも日本人ではないだろう。
わざわざなぜ南蛮人を描いたのか。

この謎を探るため、我々はインターネットの奥地へと向かった(?)。
青龍は京都の東側の鴨川を守るとされているので鴨川と南蛮人の関係や鴨川の船について調べた。
鴨川沿いにテラスが並んでいるあのあたりは「先斗町」と呼ばれる。この名前の由来は川に近い先の方に住民たちが集中していたからのようだ。しかし、「ぽんと」という日本語ではあまり聞かない読み方はどこから来たのか。
ポルトガル語で「先端」を意味する「PONTA」から来ているという説があるようだ。
鴨川にはヨーロッパの技術が用いられた橋もあったらしいので、このあたりは南蛮人も多いエリアだったのはと想像する。

無理やりこじつけるなら
氾濫する鴨川に青龍を見た南蛮人たちが航海中にその情景を思い出しているとか…
そういうことなのだろうか

四獣の絵の展示室の壁にも模様が…


最後のコーナーはカラフルでポップな(村上先生の作品は全体的にポップだが…)作品が多かった。

様々なパターンのお花ちゃんが並ぶ。

最近の村上先生の中の流行の作風のようだ。



展覧会全体で感じたこと①
固定作風からのジャンプは難しい

この夏はたくさん美術館に行った。
・彫刻の森美術館 箱根
・ガラスの森美術館 箱根
・ポーラ美術館 箱根
・大阪浮世絵美術館 難波
・兵庫県立美術館 灘
・京セラ美術館 東山

その中で一人の作家に焦点を当てた展覧会は、
・The Mirror, the Window, and the Telescope
(ポーラ)
・フィリップ パレーノ「この場所、あの空」
(ポーラ)
・描く人、安彦良和
(兵庫県美)
・北川太郎 ときの形
そして、この「もののけ京都」。

芸術家として、一つの作風で成功を収められたらどうしてもそれを保持しようという考えが強くなる。新しい作風の作品が世に受け入れられなかったときのショックも大きいはずだ。
私だったらペン画が好きであるが故になかなか水彩や油絵に取り組む勇気がわかない。

村上隆はAIや金箔など使える技術やものは全て使う。
平面から立体、大迫力の巨大画から和室に置いてあっても違和感がない落ち着いた円形の鏡のような作品まで作れるものは全て作る。

他の作家も、当たり前だが全く同じ作品なく変化している。統一性がある展示は逆に変化が少量に精錬されていて見ていて楽しい。

だが、やはり現在それなりの成功を収めてるのにも関わらず新たな作品作り、それも理解されにくいことも多いであろう現代美術にどんどん突っ込んでいく。そんな村上隆の姿はかっこいい。

あそこまで狂う(良い意味で)ことは出来なくても、ある程度自分の中にマインドを取り込んでいきたい。

展覧会全体で感じたこと②
写真撮りすぎ!!
以下、ひねくれましまし文句つゆだく(?)なので精神的余裕のある方だけ読んでください。

スマホまたは一眼レフを構え、人がいないときを狙って写真を撮り、すぐ次の絵へと向かう。
そういう回り方をする人がめっちゃ多い。とにかく多い。

絵を見てたら後ろからパシャパシャ聞こえて気になる。発狂しそうだった(しないで)。

この現象は別にこの展覧会ならではのことでもないし、美術館だけでなく動物園などあらゆる場所・あらゆる観光地で起こっていると思う。
そして最近のことでもない。

今年行った他の展覧会が写真NGだったり人が少なかったりで静かかつ快適だったが故の落差で印象に残っただけだろうが、自分の考えを整理するために書く。


私は写真を乱撮影するこの行動に強烈な抵抗がある。とはいえ、ずっとこうだったわけではない。

私も典型的写真パシャパシャ小僧だった。
動物園でも金閣寺でも親から借りたiPhoneで写真、撮りまくってたよ。

きっかけは、中1の夏。
家族旅行でアクア・トト岐阜に行った。当時私が大ハマりしていたウーパールーパーの企画展示があったからだ。
なんてったって、あの「スーパーアルティメットブリンドル(確かこんな名前だったはず!)」が来るのだ。行くしかない。

その日、ウーパールーパー含め色々な生き物の写真を撮りまくったあとにどうしようもない虚無感に襲われた。
「こんなに写真撮ってもどうせ後で見ないじゃん…本物の珍しいウーパールーパーちゃんと見ればよかったな」と。
そのあとスマホなしで生活するほぼデジタルデトックスが1年挟まったこともあり、完全な写真乱撮アンチに育った。
自戒するだけでなく、他人の乱撮にも不快感を覚えるようになった。

そして一時期には写真アンチにもなった。
写真が芸術だなんて到底思えない。
誰が撮ってもそんな変わらなしそれで得意気になられても…
そう本気で考えていた。
幸いにも、同じ学校の同級生にめっちゃ写真撮ってる人がいて、その人の発表とかを聞くことで写真の価値はある程度認められるようになったが。
危ないところだった。ありがとう…

自分の価値観や常識が他の人と共通と考えるのは洞窟のイドラにつまづくことになるらしいので避けたい。
そして展覧会の場ではそれを企画する人や作者の意図や想いに従うのが正しいと思うので現状が許されているならあまり文句も言うべきではない。
それはわかっているつもりだ。

だが、今回のような大きい絵がたくさんある展覧会においては作品を収めるために後ろから写真を撮るわけで、作品を間近で見にくくなる圧力が生じるのは明らかな実害ではないだろうか。

自分もそこまで鑑賞スキルはないからそんなに人のこと言えないかもしれないが、「写真撮ること=絵を見ること」という図式はあまりにも貧しすぎると感じてしまう。


今は夏休みも最後の最後で時間がないので今度時間があるときに今一度、写真について考え直したい。




長々としていてしかも陰鬱な文章だったと思いますがz読んでくださりありがとうございました。





















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