『ライティングの哲学』について

 いつだって真っ白い砂漠の上にいる。
 パソコンの前に立てば、眼前の白いウィンドウがそのことを訴えてくれる。
 何かを書きたいと考える。
 それは積み上げてきた自尊心故か。
 あのときの思い出を現在と未来に点と線で結ぶためか。
 あるいは、一瞬で焼きついた衝撃の残滓をかき集めるためか。
 そこに何かがあると考えるから。
 僕らは書こうとする。

 しかし、歩き出そうと前を向けば、そこにあるのは真っ白な砂の海である。歩くことはできる。進むことはできる。しかし、この場所から進んだ末の先が見当たらない。

 だからこそ、立ち止まり、思わず空を見上げて雨を待つんだ。今の状況に対して、魔法のようなことが起きて解決はしてはくれないだろうか、と。

 これは書きたい人の祈りである。

 さて、今回紹介する本はそんな時にオススメの本だ。タイトルは、『ライティングの哲学』。ネットで著名なライターさんたちの座談会をまとめている。座談会は2回行われ、1回目と2回目の間には2年の歳月が流れている。また、座談会の間にはライターたちの執筆術について書かれたコラムが挿入。

 1回目の座談会のテーマはそれぞれのライターさんたちのアウトライナーについて。2年の時が流れ、座談会を得ての執筆スタイルの変化についてのコラム。2回目の座談会はそれぞれのコラムを受けてのものとなる。

 最初の1回目の座談会で思い知らされることが、彼らの試行錯誤の過程である。僕はそもそもアウトラインという言葉の存在を知らなかった。執筆ソフトもwordを使うことが当たり前だと考えていた。

 しかし、ここではどういった執筆ソフトを使うのか、という点で大学生のレポートを書く段階でさまざまな試行錯誤があったことが語られ。彼らの間で共感されている。その時点で文章を書く時にwordで書くことに、長年疑問を持たなかった自分に悔しさを感じた。そして、この試行錯誤は座談会の主題ではなく、彼らが当然のようにやるべきと感じた前提なのだ。

 1回目の座談会のテーマはアウトライナーだ。アウトライナーとはアウトラインをつくるためのツールである。じゃあ、そもそもアウトラインとはなんだ!?

 さっそく本書で語られているアプリやソフトをいろいろ使ってみた。この本には、彼らが話題に出している著書やソフトについて、わかりやすい解説がついている。本を片手に元ネタとなるものを調べるのがやりやすいのはありがたいことだ。kindleで買ったが何度も読みながら調べるためには書籍の購入もオススメだ。

 やってみて思うのが、実際の文章を書く前に、その文章全体の目次のようなものをアウトラインと呼び、それをつくるためのツールがアウトライナーらしい。

 それなら、紙にでも書けばいいのではないか? そう思ったのだが、パソコンはやはりスゴい。アウトラインを書く時は長々と書かず、思いついた内容の一文を書いていく。それらの文章を俯瞰してみて、順番を入れ替え、足りない部分を足していく。この作業はノートよりもパソコンのほうが向いている。やると、頭の中で思いついているのが自分が考えているよりも曖昧なものだと気づけ、不足した部分を事前に書き出したり、話す順番を考えたりできるのだ。

 2000字程度だったら、書いてからまた書き直せばいいのだが。10000字、50000字、100000字であればそれは一苦労だろう。あるいは、仕事でコンスタンスに一定の質が保証されたものを生み出さなければいけないなら、ただ書き出していくだけだと無理がでる。アウトラインは、ライターには必須の概念なのだ。

 なぜ、大学生のときに知らなかったのか。まったくもって不勉強を恥ずばかりだ。

 本作はアウトラインを生み出すツールのアウトライナーについて、ライターたちの考えを知ることができる。しかし、本書の魅力はそれだけではない。アウトライナーは第一回の座談会のテーマである。一回目を踏まえた二回目の座談会にこそ意味がある。

 本書は、出版されるまでに2年の歳月が経っている。座談会に出席するライターさんたちは、2年前でも名を轟かしていたが、この2年後の現在までに大きな結果を残している。彼らが執筆当時にこれだけの悩みを抱えていたのだ、という歴史を知るうえでの貴重な資料でもある。同時に、それを乗り越えようとした2年間の試行錯誤を知ることができる。ライターさんたちが本書に書いてくださった執筆術のコラムは2年間の試行錯誤を凝縮したものだ。それらは読みやすいと同時に価値がある。

 読み終わり、僕が感じたこと。本書は解決策を見つけるための本ではない。しかし、書くことについて道がないどころか、先のない砂漠を歩くものを、森へと導く迷いへの一歩である。本書のタイトルは、『ライティングの哲学』。そう、哲学なのだ。哲学とはある概念に対して問いを立てることだと僕は考えている。問いを立てるとは人を煙にまいて引っ掻き回すことではない。

 問いを立てた本人がその問いに対して必死に考え抜いた傷を見せてくれたからこそ、その問いに向き合う価値があるのだ、と考える。

 たとえば、夏目漱石の著作に『三四郎』がある。あれこそが迷いへの入り口に入るまでを描いた作品だ。

 田舎から来た三四郎は、東京へ向かう汽車のなかで広田先生に出会う。そこで日本は戦争に負ける、という自分の価値観を狂わせる意見を聞き、衝撃を受ける。その後、三四郎は大学に通いながら、美禰子、与一郎、野々宮との交流。田舎から手紙を送る母との関係を通じて、自分には三つの世界があると感じる。

 この三つが、学問、恋愛、氏族だ。そして、これらの三つのなかで揺れ動くが幸せを保証するものではないと知る。そういう話だと解釈している。

 その上で、三四郎はラストで広田先生から、彼の忘れられない初恋の話を聞き、先生も同じ道を辿ったことを知る。それ故のストレイトシープなのだ。

 夏目漱石は、明治にイギリスに留学し、そこでの文化に衝撃を受け、日本に帰ってきた人物である。当時の日本にとって、イギリスから帰ってきた漱石は将来の日本の若者が他国の文化の流入により受けるであろう精神的変化を先んじて知ってしまったタイムトラベラーである。

 彼はその上で、その変化を汲み取り、描いた三四郎で森の中で迷うことを勧めたのだ。

 ライティングの哲学にも、そうした迷うことへの導きが描かれているのだ、と僕は考える。ここに書かれているのはわかりやすい結果でなく、過程である。その過程は熱量を帯びた文章でありながらとても丁寧に感じる。進んできた過程が試行錯誤の集約であるからだ。

 ゆえに読者は、森のなかの獣道から自分にとっての道を探して見つけだす。それはとても幸福なことだ。探すということは自由があるということだ。自由であるのに、無知ではない。

 もし、文章を書くことで立ち止まっている人は読んでほしい。また歩き出し、森の奥深くで迷うことから一緒にはじめよう。



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