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脳の中の執事を叱り、猫を放つことをやめた

 家にルンバを迎えてから、1年が経った。

 使いこなせるようになるまで、半月かかったが、これはとてもいいものだ。掃除が楽になる。休日の時間が増える。いいことしかない。

 ルンバを使うにおいて、大事なのは作業の自動化と空間の最適化だ。

 僕らはルンバが何をするかを知っているが、単純な労働で動くこの子に直接指示を出して細かいとこまでコントロールすることはできない。

 だからこそ、ルンバの環境を変えることで、彼らの仕事をコントロールする。

 彼が本来の仕事である、日常的に積もる埃を取り除けるように地面に物を置かないようにし。彼らが何度もぶつかることで壊すようなPCエンジンは地面におかず台の上に置くなどして、ぶつからないようにする。食器棚を倒したなら、ちゃんと固定して倒れないようにする。電化製品のコードは伸ばしっぱなしにせず、壁などに貼りつける。段差はスロープをつけて動けるようにする。

 そうやって、決まった作業をしてくれる彼が決まった作業しやすいように環境を整えることが大事だ。

 ルンバが部屋の掃除をしてくれれば、自分の時間がつくれる。できた時間で考えることができる。

 人間には考える時間が大事だ。
 考えるとは、情報を整理することだ。
 情報が整理されれば、アイデアが生まれ、行動の選択肢が増える。しかし、アイデアが生まれるまでの流れで、人は間違える。

 そんな脳の働きを、僕はたびたび、プリンターとそれをまとめる執事に例えて説明している。
 頭の中では、プリンターがひっきりなしに動いている。放っておけば、部屋は大量の紙で埋もれてしまう。頭の中の執事は印刷される紙を眺め、それぞれの情報をジャンル分けして、ファイルにまとめ、整理している。
 そこに主人は猫を放つ。猫は執事の静止を振り切り、部屋の中を駆け巡る。せっかく整理された書類はバラバラになり、散らかってしまう。
 主人は猫を叱らないが、執事は責められる。執事は、健気にもその日の内に散らかった書類を整理してくれる。
 すると、今までは別の場所にファイリングされていた紙が偶然、執事の目に止まり、別の紙とまとめられて整理される。これにより、新しい本棚が出来上がり、主人はそこから新たな着眼点を得る。

 主人は猫を褒めるが、棚を整理した執事を褒めない。

 これがふとしたことをきっかけにアイデアを思いついたときの僕らの頭の中で起きていることだ。猫は情動であり、偶発的な事件のメタファーだ。執事は理性であり、キミや僕自身だ。

 僕らはアイデアとの素敵な出会いを迎えたその日、その瞬間を大事に部屋の奥に住まわせる。そして、またあの日のときのような素敵な瞬間を迎えたいと考えている。しかし、僕らがそのことの再現性において注目するのはアイデアを運ぶきっかけとなった猫であり、影で頑張った執事ではない。

 だからこそ、僕らは一度起きた成功の再生産で猫を増やそうとする。そうすることで、執事の仕事を婉曲的に増やしている。それに気づいていない。頭の中の執事は寡黙で勤勉だ。主人の期待に答えようと思っている。その期待が執事でなく、猫に向けられていたとしてもだ。

 当然のように、部屋の中の猫を増やしてもアイデアは湧いてこない。執事は猫の散らかした部屋を右往左往して片付ける。いつもならすぐに部屋が整理されていたのに、散らかったままでいる時間が多くなる。猫を放ったことで部屋が散らかると、叱られるのは猫ではなく執事だ。

 主人はだんだんイライラするようになり、執事が動いていないのを見るたびに叱りつけるようになる。すると、執事は昼夜を問わず働くようになるが、その働きには以前のようなスマートさがない。

 ついに、執事は糸が切れたようにその場を立ち尽くした。執事がいくら叱りつけても、執事は曖昧に笑うのみで動くことはない。主人は不機嫌になり、部屋を出て屋敷の奥にこもることにした。大量の猫は未だに部屋の中を荒らしていて、だれも片付けるものはいない。

 この頭の中の執事は誰の中にだっている。
 もちろん、キミの中にも。

 人間の固定概念が破壊されたとき。なにかに心を揺さぶられたとき。ちょっとしたことをきっかけに、僕らの脳内のファイルは棚から落ちて崩れ去り、中にまとめてあった紙はバラバラに散らばる。

 映画や失恋、いじめや引きこもり、あるいはなにかしらの精神的な事件。

 そういう時に、キミの頭の中の部屋の本棚バタバタと崩れ落ち、インプットした紙はバラバラに散らばる。

 それを整理して新しい形になおしたのは君の頭のなかの執事だ。破壊がなければ再生は起きなかった。それも確かにそうだ。しかし、破壊と再生をイコールで結べば、それは必ず間違える。

 クリエイター志望に陥りがちな思考だ。ネットには創作も碌にしないで、周囲の批判ばかりする人がいる。あるいは、会議で意見がまとまりかけた時に具体案があるわけでもないのに、その会議をひっくり返したり、脱線させようとする人がいる。そうした人は、破壊によって再生が起きたことによる思考の再整理が産んだアイデアによる成功体験を詰んだことがあるんじゃないだろうか。しかし、その体験をもとにしたアクションには、破壊による再生が当たり前のもので、再生を行う主体に気付けていない。

 破壊をすることで、再生が行われるのが当たり前すぎて、破壊をすることが新しい考えを産む源流だと思っている。

 だとしたら、それは勘違いだ。怪獣の破壊が新しいビルを建てたのではない。壊された土地で新しいビルを建てたのは人だ。
 再生させた者について考えず、破壊だけを肯定すれば、最終的には更地になるだけだ。

 庵野秀明だってやっている。彼はシンシリーズで既存作品の固定概念や形式を破壊しているが、新しい作品として再構築している。

 クリエイトは、破壊から再構築までをしてこそだ。

 そのことがわからずに破壊を主体にすると、物事は進まずに停滞する。世間的な話においても、内面においてもだ。

 アイデアが出るようにしなければいけない。そのためには今ある情報を別の視点で見る必要がある。そこまでは正しいが、アイデアの成功体験に対する解釈が人の判断を鈍らせる。

 今読んでる人によっては、僕の言ってることがわからない人もいるだろう。

 もしかしたら、こう思うかもしれない。 

 頭の中に部屋があるとして、なぜアイデアを出すために、本棚を倒す必要があるのだろう。情報を別の視点で眺めたいのなら、本棚から出して、読み返してまた戻せばいいのに。

 まったくもってグウの根も出ない。
 そう、部屋の中の本棚が倒れ、紙が散乱し、散らばった紙を集めて整理しているうちにファイルの並びが洗練されていくならば。
 定期的に本棚から情報を取り出して、テーブルに並べればいい。

 アイデアを出すための情報の再整理。そのために紙を広げるためのテーブル。それが記憶力だ。この記憶力というのがやっかいだ。人によって記憶力は広い狭いがある。

 そもそも、テーブルを持ち込むという概念がないときもある。頭の中にテーブルがなければ、なぜテーブルが必要かがわからないからだ。

 ある日、突然出てきても、何のために使うのかわからない場合だってある。

 無茶な話ではあるが、気づけば問題はシンプルになる。人によっては、すでにシンプルな話かもしれないが。

 ようはルンバと同じなんだ。アイデアを出すには、頭の中の執事に上手く働いてもらう必要がある。そのために必要なのは、猫を放つことで彼の仕事を増やすことじゃない。

 彼が働きやすい環境をつくることだ。

 だからこそ、広いテーブルが必要だ。紙の情報の再整理するには一覧できるように並べる必要がある。そのためのスペースを用意しなければいけない。テーブルとは記憶力ということだ。

 今回、脳の中の部屋、という例えを出したため、限定的な話となったが。記憶力が弱いなら紙とペンを使ったっていい。外部のツールが頭の中の部屋のテーブルの役割をしてくれる。

 また、紙を出し続けるプリンターも問題だ。プリンターから紙が出続けている、つまり見聞きした情報がすべて情報として部屋に送り続けられていること事態が、そもそも異常なのかもしれない。

 そう考えると、長期的な問題だとしても、自分に修理するだけのスキルがないとしても、自分はプリンターを修理しなければいけない。

 出発点の間違いに気づき、問題点が見えたとしても、解決法がわかってるわけでもない。もしかしたら、今やろうとしていることさえも間違いかもしれない。

 だとしても、はっきりと言えることがある。
 頭の中の執事を叱り、猫を部屋に放つことはもうやめよう。




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