11月26日のお話

好きになって結婚したはずの二人が「もうダメかもしれない」と思うまでの過程には段階があるといいます。2012年の冬。高志は「前いりで出張なの」と言いながら日曜日の夜からスーツに身を包み出かけ、今日も帰らない妻とのことを思い、一人、夜の神田川沿いを歩いていました。

結婚と同時にこの街に引っ越してきて、2年半。

まだこの街に来たばかりの頃は、二人とも、大阪から東京に出てきて日の浅かったこともあり、この”神田川”という川すら、歌のタイトルになっている川として心をときめかせていました。結婚という新生活と、東京という街。「こんな物語がたくさん詰まったところだから、毎日散歩をしても飽きないね。」とはしゃいでいた妻の顔を、高志は、本当に可愛らしいと思っていたものです。しかし、今となっては遠い日の記憶。あの時の彼女の表情は霞みにかかっているように思い出せなくなっていました。

発端はなんだったのかと振り返るとわかりませんが、二人のペースが狂い出したのは、東日本大震災の直後からだったと思います。あの時、高志も妻の加莉乃も、復興支援という名の下に急に仕事が忙しくなりました。高志は終電を逃すことが増え、明け方にタクシーで帰る日々。妻の加莉乃は、会社の指示で東北地方に赴き活動をするプロジェクトに就くようになり、平日はほとんど帰らない、という状況でした。

それでもお互い、その頃は、何となくですが「国の一大事に、自分ができることをやる。」という大義の元、お互いを尊重し、離れていても夫婦であることに疑いはなかったはずでした。

しかし、半年が過ぎ、そういう”有事”の時期が落ち着いた頃。少しずつ自宅で顔を合わせる機会が多くなった二人は、生活の中で、何かが微妙にずれていくのを感じていました。

加莉乃が、被災地で精神的に負荷がかかったといっていたのは本当のことでしょう。何かバランスを崩してしまったように、穏やかだったはずの性格は、妙にささくれ立つようになり、それを仕事で紛らわせるような様子でした。

一方、ずっと都内での仕事を行っていた高志は、都会の感覚が、あくせく働くよりもロハスに。サスティナブルに。とゆとりや人との繋がりを見直す方向へ大きく変化したことを敏感に感じていました。そして、元々そういう人生に憧れていた彼は、そういう生活を喜んで受け入れ、次第に仕事も無理をしなくなり、家で家族と過ごす、そんな時間を求めるようになりました。

結果、いつも家には高志が取り残されるように一人で過ごし、妻は家にいる時間を惜しむように「外へ外へ」と進んで行きました。結婚当初に二人で「やりたいね」と話していた散歩や史跡めぐりのデートなどを、ほとんど実現できないまま、時間は虚しく流れていきます。

このままでは、二人、戻れないところまで離れてしまう。そう危機感を抱いた高志は、一月ほど前、妻にこういう提案をしました。

「今年中に、引っ越してからやりたいと思ったこと、半分は実現させたいね。このままじゃ、ずっと実現できないから、目標を決めてさ。」

季節が秋の真っ只中にいたある日のことでした。天気が良い日だったため、妻の機嫌次第では「早速今日から、神田川を散歩するとか。」と提案しようと思っていたのです。

しかし、妻・加莉乃の態度は酷いものでした。「そういういつでもできることは、また今度にして。今日は、疲れとるし。」そういったきり、ベッドから出てこようとしません。寝ているならまだしも、ベッドの中で、ずっとスマホを触っている様子に、高志はもやっとする気持ちを抱きました。それでも、来週は時間を作ってくれるかもしれない。そうポジティブに考えて、その日に備えて下見にでも行こう、と一人で出かけて行ったのです。

それから一月があっという間に流れ、もう師走も目前です。日曜日も「前入り」が増え、今日のように月曜日から一人で過ごすことを繰り返すだけで、高志の提案は何一つ実現されていませんでした。

人は、期待をして裏切られると、期待をしなかった時と比較し、倍以上の失望を抱くと言います。高志も、自分の行為がそれを助長していると気付きながらも、今日一人で過ごす孤独を紛らわせるために、未来の妻に期待を寄せるしかないところまで来ていました。そして、「この状況がずっと続く」という恐怖に耐えるために、期限を決めたくなる気持ちに陥っていました。全ては防衛本能の仕業です。


「年末まであと35日ある。」

暇つぶしに、今日は何の日?と、高志が今日の日付を検索してみると、Wikipediaにあるこんな記載に目が止まりました。

11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。

年末まであと35日ある。

その言葉は、なんと前向きな表現でしょうか。こういう前向きな表現が、辞書で書かれていることに、高志は少し救われた気持ちになりました。まだあと35日もある。きっと年内に目標を叶えられる。年末は出張先も忙しくなるだろうし、クリスマスなどのイベントもある。きっと、きっと妻は自分の提案に時間を割いてくれる。

そう思いましたが、一方で、こんなことも思いました。

年末まであと35日もある。あと35回も、「今日はどうかな?」と期待しなければならないのか。期待して、おそらくそのうちの多くの日は裏切られるのだろう。そう思うと、その35日という記載が妙に重荷に感じられます。

あ、そうだ。と思いつき、高志は妻と共有しているスケジュール表をスマホから呼び出します。あまりに出張が多いため、いちいち口頭で聞いていても把握できないからと、出張かどうかを共有のスケジューラーに入れることにしたものがあったのです。それを見れば、35日のうち、何日が期待できる日かを予め確認することができます。そうすれば、無駄に裏切られる日を作ることもありません。

スケジュールを目で追ううちに、高志の足取りは止まり、川辺の道で彼は立ち止まってしまいました。

出張は週平均3日。7日のうち、4日は東京にいる。4日×4週間で16日は可能性がある。しかし。妙なことに、祝日のはずの24日クリスマスイブと、25日のクリスマスにも出張が入っているのです。前入り、ということなのでしょうか。でもそれにしても、と高志は思います。妻に限ってそんなことはないと最悪のケースを考えますが、それは否定します。しかし心が弱っているからでしょうか、嫌なことばかり思いつくのです。

流石にもう疲れたな。これを、あと一年、続けろと言われたら限界かもしれない。

そんな気持ちが頭を過ります。そして、高志は意を決して共有カレンダーに、こういう予定を書き込みました。

2012年12月31日 この日までに、神田川散歩、路面電車に乗る

2013年6月30日 この日までに、面影橋を探す、歴史探索のデートをする

「できなかったら、もう冬は越せない。」

そう声に出して期限が決まると、そこまで、がんばってみようと思えるのが人間です。まずは、あと35日。

FIN.

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